ひだまり
倉名まさ
ひだまり
広島駅からローカル線にゆられ、うららかな瀬戸内海の景色をぼんやり眺めること、約一時間半。
島内友香は一人、竹原駅を降りた。
髪を短く刈りそろえていることもあってどこか少年めいた印象で、十八歳という実年齢よりも幼げに見える。
駅を降りた友香の目に最初に飛びこむのは、地面に刻まれた「おかえりなさい」の字。
どれだけ遠く離れていても、何度この場所を訪れても、初めて訪れる人にむけてさえ、竹原は「おかえりなさい」の七文字で温かく手をさしのべてくれる。
友香も、その文字を見つめて、なんとなくじんわりと胸の辺りがあったかくなるのを感じていた。
そして―――、
目を上げると、小さな女の子が一人、友香の方を向いて立っていた。
年の頃は十に届かない程度。腰まで届く長い黒髪に、鮮やかな赤い牡丹のかんざしを挿している。丸顔に大きな黒い瞳。唇をかるくすぼめ、きょとんとした表情だった。向こう側が透けて見えそうなほど、白い肌。そして、肌の色と対照的に、藤の花紋様を散りばめた、あでやかな真紅の着物を身にまとっている。足には足袋、そして高下駄といういでたちだ。
「ただいま、たけはらさま」
友香が呼びかけると、たけはらさまと呼ばれた少女は、おかえり、と返事をする代わりに、こくりと首をかしげ、小さく微笑んだ。
竹原は小さいが「安芸の小京都」とも呼ばれる、風情ある景観が特徴的な街だ。
江戸時代当時の町並みがそのまま残り、落ち着いた静けさと時代を超えた雰囲気を味わえる、広島のちょっとした隠れ名所だった。
「いい天気だねえ、たけはらさま」
竹原港のすぐ近くにある自宅から出ると、友香は自転車をおして、川沿いの小路をぶらぶら歩く。
気持ちよさげに手でひさしをつくり、空を仰いだ。
たけはらさまは自転車の荷台に着物の足をちょこんとそろえて座っていた。
十一月の上旬、秋晴れの抜けるような青空だった。
冬の足音はまだ遠く、瀬戸内海から運ばれる風はお日様にあたためられ、そこここに日だまりをつくっていた。
と、たけはらさまよりもさらに小さい、幼稚園児くらいの子ども達が四、五人、じゃれあい、追いかけっこをしながら友香の自転車を追い抜いていった。
その際、荷台の上の存在に気づいたようで、振り向いて大声で呼びかけてくる。
「あ、たけはぁさまだ~!」
「たけはぁさまこんにちは~!」
「こんちは~!」
子どもたちの挨拶に応えて、たけはらさまがひらひら手を振る。
彼らは風のように、あっという間に走り去っていった。
「君は人気者だねぇ。わたしには誰もあいさつしてくれなかったのに」
友香が口を尖らせて言うと、たけはらさまは荷台の上でふふんと、胸を反らして得意気な顔だった。
「さて、こんないい天気はどこか外でお昼にしたいねぇ」
友香の提案に、こくこくとうなずくたけはらさま。
「じゃあお寺で食べよう」
友香のいうお寺とは、西方寺・普明閣のことだ。
小高い丘の上にあるため、この川沿いの道からでも、うっすらとその姿をのぞむことができる。
友香の視線の先をたどり、たけはらさまも賛意を示して諸手を挙げる。
「じゃあ、パンでも買ってこようか」
けれど、つづく言葉にはふるふると首を横に振った。
「……おにぎり?」
またしても首を横に振るたけはらさま。
声を持たないたけはらさまと意思の疎通をはかるためには、こうして一々候補を訊かなければならなかった。
そして、食べものにはうるさいたけはらさまは、正解するまでは頑として譲らない。
「お好み焼き?
」
そう、それ! と言わんばかりに、たけはらさまは荷台から身をのりだしぶんぶんとうなずく。
「そっか、じゃあそうしよっか」
お昼ごはん問題が解決して、目的地がはっきりしたところで、友香は自転車にまたがり、ペダルを漕ぎはじめた。
🍁🍁🍁
しばらく直進してから橋を渡り、歴史的建造物の一つである日の丸写真館の脇を通り過ぎる。
と、辺りの景色がまるで江戸時代にでもタイムスリップしたような古風なものに移り変わっていく。
この辺りが竹原市の観光スポット、町並み保存地区だ。
瓦屋根に木造の家屋、格子窓、竹細工のひさし、飴色の石畳の道。
けれど、観光地にありがちな不自然なほど古風な町並みではなく、そこに住む人達の生活感がたしかに息づいて感じられる。
よく見れば、建物も江戸時代のものも、明治、大正、昭和の造りも混在している。自動販売機や自動車、道路標識といった現代の産物すら町並みに溶け込み、道ばたで座りこみひなたぼっこをしたり、よもやま話に打ち興じているばば達まで風景の一部と化している。ここに足を踏み込んだだけで、時の流れがとろとろとまどろむようなゆったりしたものに変じる。
友香の目当てのお好み焼き屋さんも、この地区の中にあった。大正時代に創業した、由緒あるお好み焼き店だ。
その店構えも古風で、町並みと調和していた。
「こんにちは~」
暖簾をくぐり、がらがらと格子扉を開ける友香。
「あらぁ、友香ちゃん。よぉ来んさった」
ふんわりと柔らかな女性の声が友香を迎える。
鉄板焼きのカウンターの向こうでにこにこと笑う、現・店主、堀川すみれの声だった。
まだ年若く(本人はかたくなに年齢を明かしたがらないが、一説には三十手前とも云われている)女性ながら、お好み焼きの腕と経営手腕は先代も唸るほどの実力の持ち主だった。
常連客の間では、すみれさん、と呼ばれ親しまれていた。彼女目当てに足しげく通う男性客もいるとかいないとか。
友香も、放課後よく級友たちとこの店を訪れていた。
初めて来た観光客にも竹原でお好み焼きといえばここ、と太鼓判を押せる。
「すみれさん。ほぼろ焼きとたけはら焼き、持ち帰りでください!」
「あら、二つも? 友香ちゃん一人で食べるん?」
「あ、いえ……」
友香がぱたぱたと手を振るのを見て、すみれもすぐ思い当たったようだ。
「もしかして、たけはらさまも御一緒?」
「あ、はい。そうなんです。いまからお寺でお昼にしようねって」
友香が答えると、すみれは元々にこやかだった相好をさらに綻ばせた。
カウンターから出てきて、友香に目で「どこ?」と訊く。
友香がたけはらさまの方を向くと、その辺りの空間に向けて身をかがめた。
「いっつも御贔屓にありがとうの、たけはらさま。これからもどうかこの街を見守ってくださいね」
正確には、すみれの視線はたけはらさまの胸の辺りを向いていた。
大人達は記憶の中のたけはらさまを、実際より小さくしてしまうことが多い。
けれど、たけはらさまはうれしそうなくすぐったそうな顔をして、身をよじっていた。
「さ、飲み物はおまけじゃけえ、好きなもん頼みんさい」
どんと、胸を叩いて笑うすみれに、友香は歓声をあげた。
お好み焼きと並んで、この店のノンアルールカクテルも名物の一つだ。
もっとも、また、たけはらさまにメニューを一々指さして、これじゃない、これでもない、と一つずつ確認する羽目になるのだが……。
友香がお昼を食べるのに選んだ西方寺は、町並み保存地区の一角の、小高い丘の上にある。
特に訪れる者に親しまれているのは本堂の横に建てられた普明閣の方だ。
見晴らし台のような造りになっていて、竹原の街を一望の元に見渡せるからだ。
もちろん友香も、小さい頃から足しげく通っている。修学旅行で京都にいって清水寺を参拝した時は、友人たちとみんなで西方寺のパクリだと言い合ったものだ。(事実は、もちろん逆なのだが)
境内は自転車の乗り入れが禁止なので、その手前に停める。そもそも、階段と坂道が続くので、自転車には不向きだ。
荷台から降りたたけはらさまは、ふわりと空気に溶け込むように姿を消しては五メートルくらい先にぱっと現れる、そんな移動方法を繰り返した。
時折、友香の方を振り返り手招きする。
「ちょっと、せかさないでよ。っていうか、たけはらさまも普通に歩きなよぉ」
たけはらさまは歯をのぞかせて笑い、また消えた。
言葉はなくとも、その態度で「やだよ~」と言ってるのが伝わってくる。
飲食禁止とはどこにも書いてないが、さすがに普明閣の上で食事をするのは気が引けて、友香とたけはらさまは大階段に並んで腰かけ、食事をとることにした。
すみれのところのお好み焼き屋さんは、持ち帰りの時は、食べやすいサイズにお好み焼きを切り分けてくれる。
ほぼろ焼きの一切れを、友香は箸でつまんだ。
「いただきまーす!」
元気に声を上げる友香。
たけはらさまも、きちんと手を合わせてちょこんと頭を下げる。
「んー、ブチうまー!」
一気に頬張ると、幸せそうに顔をほころばせた。
ほぼろ焼きは、すみれの代になって開発された店の新名物だ。
とりの照り焼きに、えびおぼろ、大葉、じゃがいものトッピングにさらにレモンが加わったボリューミーな一品で、食べ盛りの学生達から絶大な支持を得ている。
たけはら焼きは、それとは対照的に店に代々伝わる伝統の味だ。
酒処竹原の純米吟醸の酒粕を生地に練りこんだ、ちょっぴり大人の味のお好み焼きである。
実はたけはらさまの好物でもあった。
たけはらさまの方は、ちょっとお行儀悪く手づかみでお好み焼きを食べていた。
けれど、手がべたつくことも、ソースや食べかすで着物が汚れることもない。
友香は、たけはらさまがモノを食べるところを見るのが好きだった。いや、友香だけではない。竹原市の生まれなら、誰しも一度はたけはらさまが食事をするのを愛おしげに眺めた経験があるだろう。
たけはらさまの食事には、モノを「食べる」という行為に必然的に付随するはずの猥雑さが感じられなかった。
小さな口をちょこんと開けて、お好み焼きを頬張る。
不思議と口元にソースが付いたりはしない。
あごを動かすのも、こくんと喉を鳴らすのも、どこか儀式めいてみえる。
まるでパントマイムを見てるような透明感があった。
もしかすると、たけはらさまにはモノを食べるという行為は必要なくて、ヒトがやっているのを真似しているだけはないか、と友香は思うことがある。
けれど、お好み焼きの面積は確実に、たけはらさまが口を動かすのに合わせて減っていく。
もちろん味もちゃんと分かるみたいで、この世の幸せを独り占めしているかのような幸福そうな顔をしていた。
ほわわ~という効果音が聞こえてきそうだ。
平和そのものの光景だったが、油断していると二人分買ったはずのお好み焼きも、あっという間にたけはらさまに食べられてしまう。
友香は眺めるのを中断して、自分の分のお好み焼きを確保するのに専心しはじめた。
🍁🍁🍁
お昼を終えた二人は、普明閣の見晴らし台にのぼった。
竹原の町並みが眼下に広がる。
視界の遥か向こうでは、瀬戸内の海が秋の陽光に照り輝いていた。
「あー、ずっと見ていられるよぉ」
心底うっとりとして、友香はつぶやく。
高校を卒業した後、友香は竹原市の観光協会で働くことが決まっていた。
大きくなったら都会に憧れたり、街から出ていきたくなったりするんだろうか、なんだかピンとこないなぁ。と、そう考えていた時期もあった。
けれど、なんのことはない。
高校卒業を控えたいまも、自分の気持ちは昔となにも変わっていなかった。
この目の前に広がる景色があれば他になにもいらない、とごく自然に思う。
夏休みを利用して、友だちと大阪に遊びに行ったこともある。
けれど、狭い空間の中に信じられない量の人がいて、高い建物が乱立していて、電光の看板やCMがどぎつくきらめき、誰もがせわしくなく足早に動くさまに眩暈を起こしてしまった。
竹原に戻ってきた時は、慣れ親しんだのんびりとした町並みに心底ほっとしたものだ。
「慣れだよ、慣れ」「今からそんな年寄り臭いこと言っててどうすんのさ」友だちはそう言って笑うけれど、なにか根本的に呼吸のリズムが自分と都会の街では合わない気がした。
広島駅ですら、自分には広大に過ぎる。
たぶん、どんなに時が流れてもこの感覚は変わらないだろう、と友香は思う。
昼の陽気に輝く景色を眺めながら、友香はぼんやりと物思いに耽っていた。
と、記憶の中にあった友だちの声が、現実のものになって耳に届く。
「あ、たけはらさま!」
「ホントだ。たけはらさま~、おーい!」
下を見ると、友香のクラスメイト、長谷川沙希と、武藤夏帆の二人がそろって境内に入るところだった。
「おいおい、君たちもかね。級友にまで無視されたら、あたしゃ~悲しいよ」
友香がふざけた声で言うと、下の二人はそろって顔を見合わせた。
「あ、トモいたんだ」
「ごめん。たけはらさまに夢中で気づかなかった」
もちろん、それは冗談だとすぐ分かるにやにや顔だ。
たけはらさまと並んで立ってる友香の姿が目に入らないはずがない。
「非道ぉい。それ、ガチのいじめだよぉ」
友香の抗議を笑って流し、二人は見晴らし台にのぼってきた。
清水寺を模した舞台は、四人いても十分なスペースがある。
友香とクラスメイトの二人は、しばし談笑に華を咲かせた。たけはらさまもにこにこと楽しそうだった。
「あーあ。うちらが受験勉強でしんどい思いしてんのに、トモは呑気にお散歩か~」
夏帆が大仰にため息をつく。
「のんきじゃないよ、これも研修なんだから」
頬を膨らませ、友香はハンドバッグからレポート用紙の束を取り出してみせた。
「それは?」
「レポート。観光客の視点になって、竹原市を廻って、気づいたことを書きなさい、っていう研修」
「なにそれ、ウケる~」
「いつもの友香のお散歩と変わんないじゃん」
「それが変わるんだよ。ちゃんと観光客の気持ちになりきろうって、昨日は広島駅に一泊して、電車で竹原まで戻ってきたんだから。
ねえねえ、お好み焼きバーガーって知ってる? 広島駅前に売ってたんだけど、衝撃的だったよぉ。それと福屋さん。いつの間にかえらいおしゃれになってたし。もう冬物ばっかり売ってるんだねぇ―――」
「待った待った、広島駅観光してどうすんのさ」
夏帆が笑って友香の長広舌をさえぎった。
その隙に、沙希が疑問を挟む。
「……トモ。広島駅で一泊したって言ってたけど、着替えとかは?」
「へ? お家置いてきたけど」
「甘い!」
びしっと友香を指さす沙希。
「観光客の視点に立つならちゃんと持ち歩くか、せめてコインロッカーを使いなさいよ」
「おお、それもそうだねぇ」
友香はひとごとのようにぽんと手を打つ。
「それと、境内の外にあった自転車、あれトモのだよね?」
自分が糾弾されているのに気付き、友香は微妙に視線を泳がせた。
「……えっと、観光のお客さんがレンタサイクル利用するのを想定―――」
「してないよね?」
「はい。ごめんなさい。してません」
あっさりと白状する友香。
実際には、家に荷物を置いたら、いつもの癖で自転車をひっぱってきてしまっただけだ。
「ちょっと~。こんなぽけぽけしたヤツがこの街の観光を担ってほんとにだいじょうぶなの、たけはらさま?」
夏帆は腰に手を当ててたけはらさまに水をむける。たけはらさまは珍しく難しい顔して、うーんと組んだ首をかしげる。
「ちょっとちょっと、たけはらさままで! そこは大丈夫ってうなずいてよぉ」
沙希も夏帆もげらげらと笑う。たけはらさまも、声こそ出ないものの一緒になって笑い転げていた。
「あー、なんか不思議。あと二年でたけはらさまが見えなくなるなんて」
沙希がぽつりと言って、不意に空気がしんみりしたものに変わった。
たけはらさまもどこか寂しげな微笑を浮かべる。
「ねー、なんかもうそこにいるのが当たり前になっちゃたもんねー」
夏帆の声のトーンも、少し沈んでいた。
ためはらさまの姿は二十歳を迎えると見えなくなってしまう。
はっきりとした理由は分からないけど、いままでに一人の例外もなかった。
竹原市に生まれ、この街で育った誰もが通る道だった。
「まあ、あたしらは街からも出てくわけだけどさ。トモはほんと大丈夫? ずっとたけはらさまと一緒だったじゃん」
たけはらさまは普段、一ところにとどまるところがない。
野良猫のように竹原市内をぶらぶらしては、道のそこここにあるたけはらさまへの「お供え物」をつまみ食いするのが習性だった。
しかし、不思議と友香にはよくなついていた。
学校にいる時や、市外に出る時はともかく、友香がどこに行くにもたけはらさまがずっと一緒にいる印象を街の人間は抱いていた。
友香にとっても、それが当たり前のようになっていた。
「平気だよ。ずっと前から覚悟してたことだから」
けれど、友香は笑顔で言う。そこに強がりや虚勢の色は見えなかった。
小学生の頃、その事実を聞かされた時はそれは毎日泣きじゃくっていたものだ。
けれど、友香の祖母はその時言った。
「たしかに、うちらにはもうたけはらさまは見えんけどの。じゃけど、消えてしまったわけじゃない。ちゃあんと、おるのは分かるんじゃよ。うちらが街を愛してれば、たけはらさまはずーっとお側にいてくださるんじゃよ」
友香は祖母の言うことを信じているし、いまではなんとなくそれが実感として分かる気がする。
「そっか。トモ、えらいえらい」
沙希と夏帆は幼子にするように友香の頭をなでる。たけはらさままで、その真似をしだした。
みんなで一斉になでるものだから、友香の髪はぐしゃぐしゃになった。
「ちょっとちょっとぉ、みんなしてなんなんだよ~」
やはり友香の抗議はスルーされる。
🍁🍁🍁
沙希と夏帆の二人は受験勉強に戻るから、と先に普明閣をおりていった。
そもそも、ここに来たのも西方寺に合格祈願のお参りをするためだったらしい。
二人の頑張りを見習って、友香もここでレポートの前半を書いてしまうことにした。
けれど、何も言葉が浮かんでこない。最初の一行すら書き進められず、じ~っとレポート用紙とにらめっこしたまま時が過ぎる。
友香の成績は親も担任教師も進学をあっさり選択肢から外すレベルだったが、その中でも作文は大の苦手だ。
夏帆達に指摘されるまでもなく、こんな自分が観光協会で働いて役に立てるのだろうかと不安になってくる。
「あ~、だめだぁ~」
紙束と睨み合うこと約十五分。
友香はあっさりと作成を放棄した。
傍らで見ていたたけはらさまも特にたしなめる様子もなく、「やっぱりね」という顔だ。
「あとは竹原観光といったら、竹灯りだよねえ」
レポートを埋めるのを断念した友香はぽつりと言う。
竹灯り「憧憬の路」は、毎年秋頃に二日間開催される。
今年はつい先週終わってしまったところだ。
来年からは友香も設立に参加することになるだろう。
友香はまぶたを閉じ、つい先週体感したばかりの、その幻想的な行事を脳裏に描きはじめた。
平時でも情緒豊かな町並み保存地区に、無数の竹細工でできた幻燈が並んでいる。
夕方ごろ、点火式をもって竹灯りは開催される。
竹筒を斜めに輪切りにした中にろうそくを灯した竹灯篭、竹のアーチに吊るされた竹提灯、丸い竹篭の灯り、紙筒に願い事やイラストを描いた灯り、竹細工でできたかぼちゃや馬の灯りもある。
そのともしびは宵闇を打ち払うほどのまばゆさはなく、とろんと闇の中にまどろむように揺れていた。
想像の中で友香は竹灯りの道を進む。
段々と心は幻影と融け合っていく。
揺れる幻燈の中に、懐かしい面影が浮かんでは消えていった。
幼稚園の頃、最初に話しかけてできた友だちが沙希だった。
夏帆に出会ったのは小学生の頃だ。
よそから転校してきた夏帆は、最初、たけはらさまの姿にびっくりしてたっけ。
祖母には竹原にまつわる物語を数限りなく聞かせてもらった。
母親も竹原市の生まれで、この街で喫茶店を営んでいる。そんな母と、この場所で生きていくことを決めた父。
想像の中、友香は竹灯りのアーチを見上げる。
竹灯りが見せる幻影は、とめどなく流れる。
中学に入ってからは、放課後いつも沙希と夏帆の三人でいた。
だらだらと街で寄り道したり、誰かの家でゲームをしたり漫画を読んだり……たけはらさまもよく一緒だった。
たけはらさまは、ゲームや漫画にはあまり関心がないみたいで、飽きるとぷいとどこかに行ってしまう。
けれど、おやつの時間にはいつの間にか戻ってくるのだ。
沙希の祖父の家に泊まりに、竹原市のちょうど真南に位置する大崎上島に泊まりにいったこともあった。フェリーに乗るのも、家族抜きでよそに泊まるのもその時が初めてで、そもそも竹原市外に出たのも、とても珍しい出来事だった。
夜になってちょっぴりホームシックにかられたのは内緒だ。
夏帆が父親と喧嘩して、家出騒動に発展したこともあった。泣いてる夏帆をなぐさめようとしたらこっちまで泣いちゃって、わけも分からず三人で夜明かし泣いていた。そう、その時もたけはらさまがずっと傍にいてくれた。
高校に入ってすぐ、一つ上の先輩に憧れて、ひどい失恋をしたこともあった。
駅前のロータリー。竹原港。西方寺。お抱え地蔵。お好み焼き屋さん。遠足で行った朝日山。
街のどんな場所にも、思い出が染みついている。それが嫌だからと出ていく人も多いけど、友香にはその一つ一つが大切な宝物のように思えた。
幻燈に映る面影はとめどがない。
憧憬はやがて、未来への想いに変わる。
自分は竹原に残ることを決めた。この街で歳を重ねていく。
けれども、級友達は皆どこかへ旅立っていく。
会う機会もいまよりずっと少なくなってしまうだろう。
たけはらさまの姿も間もなく見えなくなる……。
時の歩みが遅いこの街にも、確実に変化は訪れる。
竹灯りは毎年開かれるけど、その度に自分は一つ歳を取っていく。季節が移り変わるたびに、何かが変わっていく。そして、過ぎさった時は二度と元には戻らないのだ。
ずっとこのままがいいと願っても、なにもかもが変わってしまわずにはいられない。
いつしか幻燈が映し出すのは、茫漠とした不安に変わっていた。
懐かしい面影も闇の向こうへと吸い込まれていく。
竹灯りの町並みの向こうに、見知らぬ世界が広がっている。
この先に進むのが怖い。けれども、誰かが後ろからぐいぐいと自分の背を押す。
歩みを止めることはできない……。
ふと、誰かが袖をひいた。
友香は幻想から還る。
見ると、たけはらさまが心配げに顔を覗きこんでいた。
それで、初めて友香は気づいた。
自分の頬が涙で濡れていることに。
「あ、えっと……」
フォローしようと口を開いたら、ますます目尻から涙が溢れる。だから、口を閉じて、ぐっと涙をぬぐった。
「だいじょうぶ。悲しくて泣いたわけじゃないから、たぶん」
にっと笑ってみせる。
長い夢を見ていたような心地だった。
けれど、幻想から覚めて見ると、日差しは変わらず街に降りそそぎ、友香のいる見晴らし台にもひだまりをつくっていた。建物の影すら、ほとんど動いていない。
「行こっか」
友香はたけはらさまの手を握って歩く。
たけはらさまはびっくりした顔をしていたが、ふりほどいたりはしなかった。
小さな手にはあまり体温が感じられなくて、どこか希薄な存在感だったけれど、たしかにそこに存在しているのが分かった。
―――了
ひだまり 倉名まさ @masa_kurana
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