画家に愛される

コンコンコン


小鳥のさえずる爽やかな朝に玄関の戸が叩かれた。青年が扉を開けると、そこには黒い紳士服に身を包んだ青年と同い年程度と思われる若い男性が立っていた。配達員とは少し違う、もっと高貴な雰囲気を漂わせている。だが、思い当たる節が無い。


「私、エヴァンス家に仕える使用人でございます」


彼がそう言って軽いお辞儀をしたのでようやく合点がいった。その名前は世情にあまり詳しくない青年でも聞いたことがある程の有名貴族のものであった。そこの使用人ともなれば身なりがきちんとしているのも当然と言える。そしてそんな貴族の使いが辺鄙な場所にある青年の家にわざわざ尋ねてきたという事は……


「旦那様より、お届け物でございます」


予想通り、手紙であった。青年は手紙を受け取ると裏返して、封筒に記載された宛先名を見た。

妻の名前だった。

ご丁寧にエヴァンス家のシンボルマークの封蝋で封筒が閉じられている。


「相変らず凄えな、俺の嫁さんは」


青年は思わずつぶやいた。

その内容は見なくても分かる。彼女への絵画制作の依頼に決まっている。

青年の妻は、有名な画家なのである。




青年も後の嫁となる女性も、かつては同じ画家に師事した姉弟弟子の間柄であった。

両者ともに天才として周りからは評価されていた。しかし天才同士と言えど、二人の実力には天と地ほどの差があった。彼が天才の中の落ちこぼれだとすれば、彼女は天才の中の天才。それは努力では絶対に埋まる事の無い差であり、世の中に評価される画家というのは決まって後者であった。

彼の絵は売れなかった。彼女の絵は飛ぶように売れた。彼は、彼女の躍進を傍で見続けた。やがて彼は残極な現実に打ちのめされ、筆を折った。

しかしネガティブな事ばかりでは無かった。

妬みと嫉みの感情に突き動かされるようにして彼女との接触を図り続けていた青年は、気付けば彼女に惚れてしまっていた。絵を描く才能もそうだがそのどこか少年を思わせる中性的で童顔な顔立ち、なにより猫のように気ままな人柄に魅了されていたのである。そして彼がその思いの丈を伝えると、何の因果か彼女もまた、彼に惚れていたと言った。しかも知り合った時から割と好印象で、“周りと違ってやたら私に構ってくれる良い奴“という認識だったらしい。初めてその事を聞いたとき彼は、何と言うか肩の力が抜けてしまった。結局、彼が一方的にライバル視していただけで、彼女からは何とも思われていなかったのである。

そうして二人はやがて結ばれ、彼は彼女の身の周りを世話する母のような助手のような、そんな妙な役回りもするようになっていた。




「入るぞ」


封筒をもって、部屋の一室でもある彼女のアトリエに足を踏み入れる。彼女はアトリエの中央の椅子に座り、三本足のイーゼルに立てたキャンバスに絵を描いていた。窓から差し込む陽の光を受けながら真剣な眼差しで筆を握る様は神々しくも美しい。まるでその光景自体が一枚の絵画のようである。

だが足元にはおぞましい光景が広がっている。幾枚にも及ぶ絵画が無造作に散らばり、床を埋めているのである。

これらはすべて死んだ絵たちであった。彼女は折角描いた絵も、価値が無いと判断するや否や床に捨ててしまう気質があった。

絵描きであった彼にとって、この一面の絵画の海は酷く恐ろしい光景に映る。絵画たちがどれもとても魅力的だからだ。身内びいきなどではなく数万から数百万の価値があると本気で信じられる。だが、自分が価値のある絵画だと思ったものが、彼女にはゴミ同然として扱われている。その違いが、才能の差に感じられ、彼女の途方もない才能に畏怖した。嫉妬などは起こりようがない。共に生活をして、彼女が寝食以外のほぼ全ての時間を絵画に費やし、時にはストレスで血反吐を吐きながら発狂しながら涙を流しながら絵を描いている姿を見ていると、彼女はもはや絵描きとして自分とは違う次元にいるのだと感じられるのだった。

彼女は、彼がアトリエに入ってきたことにもまるで気付かずに絵を描き続けていた。

だが、今だけはそれを中断してもらう必要がある。というのも、彼女に後で手紙を読んでおいてと言っても基本的に読むことをしないのである。先日も、とある有力貴族からの依頼の手紙を数か月間読まずに放置していたことが発覚してぞっとしたばかりであった。相手が寛容ならば特に問題は起こらないが、気性の荒い上流階級の人間の場合、無礼だなんだと強引に理由を付けられて罪を負わされる可能性がある。尤も、誰よりも自由を愛し自らの意志を貫き通す強靭な芯の強さを持った根っからの芸術家な彼女の性格を考えれば、たとえそうなったとしても、あらゆる手段を講じて立場を逆転させ、最悪相手を跪かせるかもしれない。いずれにせよ、回避できるリスクは回避するべきである。ゆえに大事な手紙は、彼の前で直接読んでもらう必要があった。

彼は彼女の隣に立った。しかし彼女はキャンバスに顔を向けたまま視線を寄越すこともしない。恐ろしいまでの集中力。彼は彼女の隣にあった、恐らくは何か物を置いておく為に用意したであろう椅子に腰かけ、彼女の姿を眺めた。

出会ってからずっと変わらない。

少年のように輝く瞳。浮かべる微笑。下手な鼻唄。

創作意欲は人が若さを保つ秘訣なのかもしれない。

今日の今の時間の彼女は特にご機嫌で、彼は筆が乗っている時の楽しげな彼女を見るのが好きだった。

そして数分経った。

見事なまでに気付かない。意図していないにしろ、あまりに無視をされて少し苛立ったので彼は悪戯をすることにした。

耳に息を吹きかけてやる、と。

彼は若干の変態性を自認していたが、偶にするスキンシップが夫婦円満の秘訣であると正当化し、実行に移すことに決めた。

口元を彼女の耳に近づけていく。

ゆっくり。

ゆっくり。

やがてもう十分だと思われる距離に近付いた。が、彼がそう思ったとき、彼の計画は破綻した。


ちゅ。


彼女が横を向いて彼と唇を重ねたのである。

油断していた彼は目を見開く。


「ありゃ? ずっと眺めてたからてっきり僕とキスがしたいのかと思ったんだけど、違った?」


キョトンとした表情の彼女。

一方彼は、今まで自分が、彼女の事をじっと眺めていた事や口を近づけていくという間抜けな行為をしていたという事実がバレていた事を理解して、途端に恥ずかしくなり、あっという間に顔が真っ赤になった。


「にはははは。いいねぇ、その顔! 最高!」


彼女は赤面した彼の表情がツボに入ったようで、愉快そうに笑った。

対して彼は何とも情けない気分になる。彼女にずっと泳がされていたのだ。まさか婚約者という間柄になっても尚、敗北感を味合わされるとは思ってもみなかった。

代償は大きかった。しかしだからこそ、目的は果たさなければならない。

彼は手紙を差し出した。


「これ、来てたぞ。読め」

「うい」


彼女は素直に受け取って、中身を読む。


「ふーん。ふん。なるほど」

「内容は?」

「結婚してくださいって」

「は⁉」

「嘘だよーん」

「はぁー」

「城に飾る絵を描けってさ」

「……んで、受けるのか?」

「うん。今は良い気分だから受ける」

「分かった。そう返しておく」

「よろしくぅ」


目標遂行。

いつもならこの後、彼がアトリエを後にして終わりである。しかし、今日は違った。


「じゃぁ、戻るわ」

「じゃぁ、そこに椅子置いて座って」

「は?」

「いいから、いいから」


ほらほらほら。

彼女に急かされるままに、彼はイーゼルから正面1m先辺りに椅子を置いて座った。

この位置はまるで、絵のモデルみたいな……。


「今から君を描いてあげよう!」

「俺を?」

「そう。良いでしょ?」

「良いけどよ。なんか近くね」

「うん。描くのは君の首から上だけ」

「顔なんて今更見慣れてて面白くないだろ」

「面白いよ。描くのは見慣れた表情じゃないもん」

「……はぁ?」

「私が描きたいのは、君が恥ずかしそうに顔を赤くしているところ」

「はぁ!? 嫌に決まってんだろ、そんなのっ」

「いーじゃん。見せてよぉー」

「嫌だって。そもそも何でそんなの描きたいんだよ」

「さっきの見て、すっごいそそられたから」

「??」

「だから、こう……心がドキって来たんだよね。端的に言えば、くそエロかった」

「変態じゃねえか!」


騒ぐ彼と比べて彼女は堂々たる顔つきであった。

画家である彼女はいつだって素直で欲望に忠実なのである。


「とにかく断らせてもらう」

「でも結婚するとき言ってたよ」

「なにを」

「絵描きの私を全力で支えるって」

「それとこれとは関係ないだろ」

「大アリだよ! 私の創作意欲が君の赤面した表情で滅茶苦茶掻き立てられているんだから!」

「ぐうぅ……」

「あーあ、君の恥ずかしそうにしてる顔が描けないと他の絵描けないな~。今、5個くらい依頼受けてて、次で6個か~。全部飛ばしちゃうな~」

「お前それは!」

「あ~、画家人生おしまいだぁー」

「分かった! 分かったから! 描いて良いから!」

「よっしゃぁきた!」


自分の赤面と天秤にかけられたものがあまりに重すぎて、彼は思わず了承してしまった。彼女にとって彼を意のままに操るなど、容易いことなのである。

彼女が新しいキャンバスを用意し、筆をとる。


「はい。じゃあ、顔赤くして」

「出来るか」

「え?」

「さっきみたいな状況ならまだしも、普通のときに顔を赤くしたりしないだろ」

「そっかぁ、そうだよね。じゃあ、どうにかして君を恥ずかしい気持ちにさせれば良いって事?」

「……まぁ」

「なるほど」


彼女は下卑た笑みを浮かべた。


「今から君の夜の事を語ろうね」

「夜って……」

「君と身体を重ねているときの事」

「なっ⁉」

「良いねえちょっと赤いねえ! やっぱり君はいくつになってもこっち系の話題に弱いんだねぇ~」


彼女はウキウキで筆を進め始めた。


「そもそも君は自分で気付いていないんだろうけど、ドMだと思うんだよね」

「急に、なんだよ」

「マゾって事さ」

「それは知ってる!」

「自分がマゾってことは?」

「……知らない」

「じゃあ教えてあげる。君は真正のマゾ。なぜなら僕が責めた時にいつも嬉しそうな顔をするから」

「し、してねーよ!」

「いいね!赤いね!思い出して! 昨夜は確か君の方から求めてきたのに、気付いたら僕の方が馬乗りになってたよね」

「……嘘だ」

「素直じゃないな~。でも、いいよ、そっちの方が楽しいから。それじゃぁ……想像してみよっか」

「……」

「僕が裸の君に覆い被さる様に抱き着いていて、キスを順番に落としていく。首から顎、頬、おでこ、まぶた、鼻……。でもまだシテない所があるよね。君の、一番シテほしいところ。君は物欲しげな表情で目を潤ませて僕を見つめる。それを見て僕は微笑んだ後に、君の耳元に口を寄せてこう囁く」

「…………」

「“可愛いね”」

「っっっ⁉」


彼は再び顔を真っ赤にした。彼女は妖美な笑みを浮かべて手を動かしながら、尚も続ける。


「次はこんな場面だ。僕が、君の……を……して……」

「……!」

「……しながら……して……」

「……⁉」

「そのまま……しちゃう」

「……⁉⁉」


描き終わるまで。

延々、続いた。






「よし、完成!」

「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」

「すっごい疲れちゃってるね」

「誰のせいで……」

「にははは。ごめんごめん。でも、君のおかげで最高の君が描けたよ。ほら」

「……うわ」

「エロいでしょ~。そそるでしょ~」

「それ、売るのか?」

「まさか。こんな最高な君の表情を他の人間に見られるなんてとんでもない。これは僕だけのものさ」

「つまり……」

「僕の部屋に飾る」

「勘弁してくれ……」

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