兎人に愛される
大気は肺を凍らせるほどに冷え込み、雪は深々と降り続けている。そんな白い森の中を一人の青年が歩いていた。
荷物は何も持っていない。
目的地も無い。
ふらふら。ふらふらと。
積る雪に足跡を残していく。
「ん?」
青年はふと足を止めた。目を凝らす。見ると、木の根元で何か白い小動物が暴れていた。
罠にかかったのか。
青年はすぐに思い当たる。ここら辺は禁猟区に指定されていたが時折こうして愚かな狩人が罠を仕掛けることがあるのだ。
青年はすぐに駆け寄った。暴れていたのは、うさぎであった。可哀想に、後ろの右足を虎バサミに挟まれている。辺りの雪に散らばる毛と血痕から、このうさぎが必死に暴れた事が伺えた。
「ごめんな。今、取ってやるからな」
青年はそう優しく声をかけ、しゃがんだ。うさぎは襲われると思ったのだろう。移動することは出来ないと理解している筈なのに、一生懸命にその場を逃れようとした。虎バサミに挟まれた肢がピンと張ってうさぎは痛そうに甲高い鳴き声を上げる。
「落ち着け。落ち着け」
青年はうさぎを早く解放してあげるために虎ばさみに手を伸ばした。一方、逃げられないと悟ったうさぎは最終手段に打って出る。青年の手に勢いよく噛みつく。
「う゛っ!」
青年は一瞬、呻き声をあげ顔を歪めたが、すぐに柔和な表情になった。
「怖いよな。大丈夫だからな。すぐに楽にしてやるからな」
青年はおおらかな心を持つ人間だった。悪いのは罠を仕掛けた人間、ひいてはそんな物騒なものを狩猟に使う自分たち全ての人間であり、うさぎには何の罪もないのだ。それにこのうさぎはずっと、鷹や狐といった天敵に襲われる恐怖に晒されていたに違いなかった。森では小動物が身を隠さずにいる事など自殺行為に等しい。そう考えると、このうさぎを哀れむ感情は持つにしろ、怒りなど湧くはずも無かった。
青年は片手をうさぎに噛ませたまま、もう片方の手で虎バサミを外す作業を行い、やがてうさぎの足は解放された。
「よし。うまく取れた」
うさぎはすぐにぴょんぴょんと跳ね、虎バサミと青年から距離を取った。いつでも逃げられる距離を確保すると、雪の上に座り、自分の身体を確かめるように右後ろ脚を中心に毛繕いを始める。
見たところ出血はあったが、腫れてはいなかった。後ろ足で地面を蹴る事も出来ていた。虎バサミの歯も、大型哺乳類を捕まえるものと比べて随分と短く浅い構造になっていた。運が良ければ、あのうさぎは深刻な傷を負わずに済んだのかもしれない。
そう思うと青年の心は少し救われた。
家族を助けることは出来なかった。
しかし、うさぎを助けることは出来た。
青年はまた、ふらふらと歩き始める。
気付けば吹雪が強くなっていた。視界は真っ白。薄着の身体はとうに冷え切って震えが止まらない。足が重い。意識が朦朧としている。歩いてるのか止まってるのか。分からない。
青年は穏やかな笑みを浮かべる。
ああ……死ぬには丁度いい感じだ……。
思う。
雪に埋まって死のう。
眠るように。
死のう。
願う。
皆の、もとに。
……。
青年は倒れた。
やがて、気を失った。
ぱちぱちぱち
青年が最初に感じたのは何かが弾けている音だった。次いで体に感じる重みと布団にくるまった時のような温かさを感じた。とても心地が良い。
青年はゆっくりと目を開けた。
「やあ、ようやくお目覚めだね。調子はどうだい?」
目の前には短めの白髪で大きな黒い瞳を持つ女性の顔があった。気になるのはその頭部から、二つの大きなうさぎの耳が生えている事だろうか。彼女の背後には雪が降っておらず、代わりに岩の天井がある。音が響いている。どうやらここは洞穴らしかった。
顎を下げて下を見れば、彼女が上で、彼が下で、二人で抱き合う格好をしていた。青年は裸だったが、彼女は裸と言っていいのか分からない。ただ彼女の身体はモフモフで身体を包む温もりの理由が分かった。
彼女が微笑む。
「すまないね。服が濡れていたから焚き木の上で乾かしている。身体が冷えていたから、抱きしめて温めていたんだ」
彼女が顎で示した先を見れば、確かに焚き木が耳触りの良い音を立てて燃えていた。その上には木の棒にぶら下がる青年の服があった。
「貴方が助けてくれたのですか?」
「ああ、雪の上で倒れているのを見つけてこの洞穴まで運んできたんだ。尤も、最初に助けられたのは私の方だけどね。私は、先ほど罠に掛かっている所を君に救ってもらったウサギさ」
「……人のように見えますが」
「そうだね。厳密に言えば兎人(うさぎびと)さ。私たちはウサギの姿にも人の姿にもなれる。ほら、足に虎バサミの歯型が付いているだろ?」
彼女は身体をどけながらそう言って横の地面に座り、彼に見えるように片足を差し出すようにして見せた。筋肉のよく発達したふくらはぎには、彼女の言う通り痛々しい歯型の傷がついていた。
「“兎人“の存在は噂で聞いたことがありましたが、本当に実在していたんですね」
「みんな人前には極力出ないようにしているからね。知らないのも無理はないよ」
「救っていただいてありがとうございます」
「こちらこそ、命の危機を救ってくれて本当にありがとう。あのままでは確実に命は無かった。それと、噛んでしまって申し訳ない。あの時はストレスで頭が回らなかったんだ。許してくれ」
「あのくらい気にしませんよ。悪いのは僕らの方ですから」
「ありがとう」
微笑んだ彼女の顔は炎に照らされて美しく浮かび上がる。
青年は立ち上がると焚き木で干された服を触り、乾いていることを確認して着直した。炎の熱が移った服は温かったが、彼女に抱きしめてもらっていた時のほうが心地良かった。
着替えるのを横で見ていた彼女が言う。
「恩を返したい。私に何かできることは無いか?」
青年は彼女を見つめる。うさぎの耳、少し桃色がかった鼻、全身を包む柔らかな体毛、腰の丸い尻尾。体のあちこちにうさぎの特徴があって、見れば見るほど“触れてみたい“という欲求に駆られてしまう。
「その、変な意味とかは無いのですが……耳、とか、触っても良いでしょうか?」
「えっ⁉」
彼女は、今まで漂わせていたどこか余裕そうな雰囲気とは一変、目を見開き露骨に驚いた表情をした。これには青年も瞬間的にしまったと思った。青年にとってはウサギらしい部位をモフりたい以外の理由など無かったが、彼女にとってそこら辺を触らせることはもっと深い意味があったのかもしれない。
「すみません。嫌なら全然大丈夫です」
「い、いや。問題ない。君は私の命の恩人だからな。好きなだけ触ってくれ」
明らかに動揺していた彼女であるが、冷静を装ったのか落ち着いた口調でそう返した。本人的には都合が悪かったのかもしれないが、許可されてしまってはもはや欲求には抗えない。座っている彼女が緊張した面持ちでじっと見つめる中、青年はゆっくりと片手を伸ばしその大きな耳に触れた。
「んっ」
「これは……」
表面は毛が生えておらず滑らかな手触りで、裏は特別柔らな毛が生えていて恐ろしく気持ち良い。それに指先から伝わる体温は少し温かい。兎人は人間と比べて少しばかり体温が高いのかもしれない。
青年は本能に導かれるようにして、耳を親指とそれ以外の指で挟み、上下に擦った。
「んふっ……ふぅ……」
「おお……」
極上の手触り。青年は彼女が顔を赤くしているのも眼に入らず、気付けば両手で夢中になって耳を揉んだり擦ったりしていた。
しかしやがて、
「お……おい……」
「あ」
と若干涙目で見上げている彼女に呼びかけられ、彼はようやく手を止めた。申し訳なさそうに手を引っ込める。
「すみません。触り過ぎました」
「……ま、まあ構わない。ちょっとくすぐったかっただけだからな」
本当にそれだけだったのか怪しいところではあるが、青年はそれ以上追及するような野暮な事はしなかった。彼女は“んんっ”と咳払いを一つして、再び尋ねる。
「それで、他には何をしようか?」
「耳を触らせてもらっただけで充分です」
「そうはいかない。これだけで恩を返せたとは全く思えない」
「そうですか……」
彼は、彼女の言葉を受けて暫し考えた。それは、ただ返答を考えるにしては随分と長い沈黙だったかもしれない。少なくとも彼女は長いと感じた。どんな願いが来るのだろうと、心が身構える程には。
やがて。
考えた後で。
彼はこう、口にした。
「死んで生まれ変わった来世の僕に何かしてあげてください」
彼は落ち着いた口調でそう言った。顔には微笑を浮かべていた。
穏やか。
冗談の気配は無かった。
ただ、空気が変わった。
一瞬の静寂。
彼女は困惑する。
「どういう意味だい……?」
彼は、ゆらゆら燃える焚き木の火を見つめる。
「僕はこの雪山に自殺をしに来たんです」
「なに?」
「僕は元々家族で団子屋を営んでいたのですが、先日火事になり全て燃えてしまいました。店も、母も、父も、弟も、僕は全てを失いました。家族のために生きることが僕の生きがいだったのに、何も、無くなってしまいました」
「それで、自ら命を?」
「はい。もう耐えられないんです。独りぼっちになった孤独にも、自分だけ生き残ってしまった罪悪感にも、家族を失った悲しみにも」
そう言って彼は洞穴の入り口へと歩き始めた。外は相変わらず酷い吹雪で数m先を見通す事すら敵わない。防寒具も無しに洞穴の外へと出ればものの数分で動けなくなることだろう。それでも彼は、足を止めない。
「素晴らしい冥途の土産をありがとうございました。あの世に行ったら、兎人に耳を触らせてもらったと自慢しようと思います」
彼は振り返らずにそう語り続けた。やがて洞穴の入り口へと辿り着く。
「さようなら」
一方的にそう言い残し、一歩。
外に踏み出した。
その瞬間、
ぐいっ
と強烈な力で後ろに引き戻され、気付けば彼は地面に仰向けで倒されていた。
起き上がることは許されない。
彼女が馬乗りになって見下ろしていた。
「自殺なんてダメだ。絶対に認めない」
彼女は怒りと悲しみが混ざったような複雑な表情で顔を歪めていた。
「人間は本当に馬鹿な生き物だ。自分で命を捨てようとするなんて」
「貴方にこの辛さは分からない」
「辛くとも! 死ぬのだけは絶対にダメだ!」
彼女は青年の胸倉を掴み顔を寄せた。
「少なくとも。私の目が黒いうちは絶対に自殺なんてさせないからな」
「貴方には関係ないじゃないですか」
「命を救ってもらった恩がある」
「……それだけでっ」
「それだけで十分。兎人は世界で一番義理堅い生き物なのさ」
そう言って彼女は青年を横に転がすと、自身の胸に頭を埋めるようにして抱きしめた。
彼は再び、彼女のふわふわとした心地良い温もりに包まれる。彼女が耳元に口を近づける。
「私が傍にいる。家族がいないなら、私がお前のツガイになって寂しさを埋めてやる。悲しいなら、いつでもこうやって抱きしめてやる」
囁く。
「だから、死ぬな」
……。
…………。
……………………。
「ううぅ……うああぁぁ……あぁああぁぁぁ……」
その言葉は心に溶けこみ、気付けば彼は涙を流していた。悲しみなのか安堵なのかそれ以外なのか、本人にはまるで分からない。ただただ、大粒の涙が溢れて止まらなかった。
自分の胸で身体を震わせている青年を、彼女は優しく抱きしめる。
「大丈夫だ。私は居なくなったりしない。だから、いっぱい泣け」
青年は彼女の身体に縋り付くようにして、ひたすらに泣いていた。
「ちなみに、兎人にとって耳を触ったり触らせたりするのは求愛を意味するんだ」
「……⁉」
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