竜人に愛される
深い森の広がる山の頂上から、さらに天に向かって先が見えなくなる程に石畳の階段が何段も続いている。雲の割れ目から差し込む光に包まれ神聖な雰囲気を放つその階段の途中にいるのは、若い男女。男は荒い息を吐いていかにも辛そうで、女はそんな彼を心配そうに見つめている。
「ユキト。すごく辛そうな表情をしています。今日は諦めませんか?」
「大丈夫。大丈夫だから。もうちょっと頑張ろう」
「ですが……」
「心配しないで。まだいける。最後まで、いこう」
彼はそう言って、決して足を止めようとはしない。それは、竜人の里へと続くこの階段を登り切ることが、竜人である彼女と婚約するのに必要な儀式の一つだからである。
まるで彼を試すかのように、猛烈な強風が襲い掛かり、凍てつく大気が肺を凍らせ、積もる疲労が重力を強める。しかし彼は身体が悲鳴を上げても絶対に諦めなかった。全ては彼女と婚約するため。
ただ鋼のような意思を持ち、登り続けた。
淡々と……黙々と……。
その努力は、やがて実を結ぶ。
男は彼女と共に階段を登り切り、ついに竜人の里へと辿り着く。
「つい……た……」
「やりましたね、ユキト。……ユキト?」
ドサッッ
鈍い音がした。
男は、倒れた。
「ふんむ。これで問題ないじゃろう」
「ありがとうございます婆様!」
ここは医者である婆様の自宅兼診療所。女は、倒れた男を見るとすぐさま担ぎ上げ、慌ててここに運び入れたのだった。倒れた原因は限界を超えた疲労と慣れない気圧や気温の急激な変化だった。高熱も出していたが、薬を飲ませて一日寝かせておけば治るだろうというのが婆様の診断であった。今は薬と水を飲んでベッドの上でぐっすりと眠っている。女は婆様に感謝した。
「いきなり連れてきて申し訳ございません。本当にありがとうございます」
「いあいあ。それより人間がこの里に来るとは……実に100年ぶりぐらいかのお」
懐かしむように婆様は言った。
竜人の里は閉鎖的な村であった。里へ続く階段も、竜人が望まなければ出現することは無く、里に足を踏み入れる他種族というのは本当に少なかった。
やがて婆様は、「他の患者も見てくるでな」と言って、その場を後にした。
女は男の寝顔を優しい瞳で見つめると、さらさらした髪を撫でる。
「倒れるまで頑張ってくれてありがとうございます。今はゆっくり休んでくださいね」
彼は寝息を立てて眠っている。女はゆっくり顔を近づけると、その額にキスを落とした。
「んんっ……」
「ふふっ」
寝ている彼に微笑みを向けて愛おしそうに見つめる彼女。二人の間にゆったりとした時間が流れる。
そこへ、乱入者が現れた。
「よお。そいつがお前の婚約者か???」
入ってきたのは、女の実の兄であった。細い眉がつり上がっていて睨むような細い目で如何にも神経質そうな顔をしていた。
「お兄様。お久しぶりです」
「ああ久しいな妹よ。お前が地上に遊びに行ってそのまま数年ぶりだ。だがそんなことはどうでもいい。……聞いたぞ。夫を迎えたいそうだな。それが、よりにもよって人間の夫を」
「はい、その通りです」
「全くふざけている!!」
兄は強い口調で妹を罵った。妹はそんな兄を表情を変えずに見つめ返す。
「ふざけてなどおりません」
「では地上に降りて目が曇ってしまったのだな憐れな妹よ!」
「曇ってなどおりません」
「いーや、お前の選択は間違っている。人間は貧弱で気弱で愚鈍で自らの欲によって身を亡ぼすどこまでも愚かな下等生物なのだ! それを誇り高き竜人族の夫に迎える? この転がっている言葉を喋れるだけの猿が、親族になる? 想像しただけで虫唾が走るわ!!」
「黙りなさい!!」
今まで静かに言葉を聞いていた女が初めて声を荒げた。
「兄に向かってなんだその口の利き方は!?」
「お兄様は知らないのです! この方がどれだけ誠実で優しくて素晴らしい人間であるかを!」
「毒されたなそこの人間に! 奴らは他人を利用することしか考えていない屑だ! お前も騙されているのだ!」
「違います。少なくともユキトは私を竜人だからでは無く、一人の女として認め、愛してくれました。それに彼はお兄様のような陳家なプライドは持たず、広い心で困っている者を助ける思いやりを持っています。彼はお兄様よりよっぽど素晴らしいお方です」
「ふざけおって!! 俺を愚弄するか!!」
「真実を申しているだけです! お兄様は醜い!」
「貴様ぁぁぁっっ!!!」
憤慨した兄がこぶしを握り締め距離を詰めてきた。女は歯を食いしばって仁王立ちで身構える。兄が拳を振り上げる。その瞬間
おぇっっ!?
と兄が唾液を吐きながら後ろへと引っ繰り返った。いつの間にか戻ってきていた婆様が兄の首根っこに杖の持ち手を引っ掛け後ろに引っ張ったのである。後頭部を床に勢い良く打ち付けた兄は痛みで悶えている。
「ここは患者とその関係者以外立ち入り禁止じゃ」
「くそばばぁ……」
うぅっっ!?
今度は杖の先で兄の鳩尾を思い切りついた。
「そら、さっさと出ていきなっ!」
そう言って婆様が杖先を顔の上に構えて脅しかけ、兄は慌てて立ち上がると、逃げるように部屋を去って行った。
嵐が過ぎた後のような静寂が訪れた。男の寝息だけが聞こえた。
「すみません。婆様」
「謝るくらいならここで騒ぐな。患者が起きるわい」
「返す言葉もございません」
婆様は里では長老の次に年寄りで、女の事も生まれた時から知っていて、いつだって正しいのである。
婆様は、女に薬包を手渡した。
「お前どうせ今日は一日中この男の傍にいるんじゃろ。だったら、その薬を夜に与えな」
「分かりました。ありがとうございます」
それから婆様は男の額に手を触れ熱を測ったり、呼吸を見たりしていた。
そんな婆様に女は尋ねる。
「婆様」
「んん?」
「婆様は、私が人間と結ばれることについて何も仰らないのですか?」
「何か言って欲しいんかえ」
「いえ、その……。お兄様のように、非難したりしないのか、と」
それを聞いた婆様は目を真ん丸にすると、やがてけらけらと笑い始めた。
「あじゃじゃじゃじゃ。わしをお前の兄と一緒にするな。わしは、お前が誰と結ばれようが祝福するでな。人間だろうが獣人だろうが魚人だろうが関係ない。大事なのは愛がそこにあるかじゃ」
婆様の言葉は女の心に深く響いた。女が知る限り里の者は皆竜人としての血を大切にする者ばかりで、まさか肯定的に受け入れられるとは思ってもみなかったのだ。しかもそれが第二の親のような存在であった婆様である。女は嬉しくてほっとして、気付けば涙を流していた。
「婆様ぁ……」
「おうおうおう。どうしたんじゃ。急に泣いて」
「嬉しいんです……誰も、味方なんていないと思っていたから……」
「そうかそうか。泣きたければ、婆の胸で好きなだけ泣けばええ」
それから女は子供のように婆様に抱き着いてしばらく泣いていた。
やがて女が泣き止むと、婆様が言った。
「しかしじゃよ。お前さんが人間と結ばれるという事は、この竜人の里では無く、人間の暮らす地上で生活をするということじゃ」
「はい」
「地上において竜人は大層珍しい種族じゃ。見た目には人間と大して区別がつかぬが、もしも卑しい者にバレた場合は、お前やそこの男にたくさんの災難が襲い掛かることになるやもしれん」
「はい。私もそう思います」
「うむ。お前が選んだくらいだからきっとこの男は、優しくて賢くて勇敢なのじゃろう。じゃが、人間の力ではどうにも振り払えない火の粉というのも必ずある。その時は、お前が、お前自身とこの男を守ってやるのじゃ。よいな」
「はい。覚悟の上です」
「んん。良い目じゃ」
婆様はそう言ってくしゃりと笑うと、女の頭を皺だらけの手で雑に撫でた。女はその手に温もりを感じた。
「おはよう、ユキト。身体はどうですか?」
「うん。昨日より全然元気だ。ごめんね、突然倒れたりして」
「いいえ。人間がこの里に来られたこと自体、偉業そのものです。誇りましょう」
「あはは。そっか。残りの婚礼の儀式もうまくこなせると良いんだけど」
「きっと、私たちなら大丈夫ですよ」
「そうだよね」
「ええ」
「……そういえば、さ」
「はい?」
「君、泣いてなかった?」
「……えっと」
「夢だったのかも知れないけど、君が子供みたいに泣いてたことだけ覚えてるんだよね」
「それは、夢ですね」
「だよね。君は人間の僕よりずっと強いんだもんね。でもさ、もしかしたら君にも、泣きたくなるようなことがこの先あるかもしれないよね」
「どうでしょう」
「あるよ、きっと。でもその時になったら僕が君の事を全力で守ってあげるからね。頼りないかもしれないけど、頼って良いからね!」
「なんですか、それ」
「なんだろう」
「ふふふっ。分かりました。じゃあいざというときは私を守ってくださいね、旦那様」
「任せて……奥様?」
「なんかおかしいですね」
「慣れないとね」
二人は朗らかに笑い合った。
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