御令嬢に愛される
「「はぁっ、 はあっ、はああっ」」」
沢山の緑と花が並べられている城の広大な庭園。裸の格好をした子供たちが必死にバラバラに駆けていき、その後を高さ3mはあろうかという巨大な狼がご機嫌に追いかけていく。
彼らは、餌であった。
狼に与えるためだけに買われた奴隷。
そしてその狩りの様子を、丸テーブルの椅子に座って、紅茶を飲みながら愉快そうに眺めている髭長の貴族が、彼らを買った主である。
「そら。ガルムちゃん。餌だ。餌を捕まえるのだ。うひひひひひぃぃっっ」
“ガルムちゃん”と呼ばれた狼は、貴族の不気味な笑みに応えるように「ヴァウっっ!」と短く、地鳴りのような響きの鳴き声を上げた。
大人と比べて成長途中の骨肉が柔らかい人間の子供は、狼にとってのご馳走に他ならない。
狼は、逃げている子供のうちの一人に狙いを定めると途端にスピードを上げ、あっという間に捕まえた。狼の強靭な前肢に押さえつけられ、大の字で地面に突っ伏したまま身動きが取れなくなる少年。その様子を、植え込みの陰に実を隠した少年・ユーリが、草の隙間から覗いていた。
彼はユーリと共に奴隷商に捕まり、買われ、この屋敷に連れてこられた経緯があり、奴隷たちの中でもユーリと一番仲の良い友達だった。
その彼の命が失われようとしている。
しかしユーリは何もすることが出来なかった。手足が震えてまるで動かず、ただ息を殺して見つめる事しか出来なかった。
捕まった少年は、泣き叫んでいた。
『死にたくないっ!』
『嫌だっ! 離してっ!』
生への渇望を必死に叫ぶ。しかし誰も助けには来ない。今の彼は、断頭台に首を乗せられた囚人と同じだ。
やがて喚く少年を煩わしく思ったのか、狼がおぞましい口を開いて少年の頭に近づけた。
そして口が勢いよく閉じられる、その間際。
少年とユーリは目が合った。時の流れが緩やかになる。少年が瞳に恐怖を浮かべながら口を開いた。
『た す け て』
最期の言葉だった。
彼は次の瞬間には、首から先を食いちぎられ、物言わぬ肉塊となり果てた。切断面からは噴水のように血が吹き出し、辺りには脳漿が散らばり、彼が死んだことを如実に告げた。
そこから先は地獄であった。
血肉を見て興奮した狼は次から次へと逃げる奴隷を捕まえ、喰らって行った。庭園には何十人もの子供たちの悲鳴がこだまし、鉄の匂いが充満し、内臓や骨があちこちに転がった。
一方的な殺戮はしばらくの間続いた。
やがて、数十人いたはずの子供たちは全て喰われ、最後にユーリの番がやってきた。
彼の前に見上げる程に大きな狼が立ち、彼を見下ろした。
狼が舌なめずりをする。
ユーリがそれをも見て連想するのは仲間たちの死体である。どれも惨たらしい有様で原型を止めていない。自分も”それ”と同じ姿になるのが、誰の記憶にも残らないただの肉となるのが、怖くて仕方が無かった。
ユーリは震えで立っていられなくなり、ペタンと地面に座り込んで狼の口を見上げていた。
狼が口を開き、徐々に近づけてくる。
身体が強張る。
一緒だ、友だちと……。あれが僕の身体を……。
“かひゅー。かひゅー”
ユーリは恐怖で呼吸の仕方を忘れ過呼吸になる。でも狼の恐ろしい口から目を離すことが出来ない。怖くて苦しくて涙が出る。
狼の牙が徐々に近づいてくる。
鼻がよじれるような血肉の鉄臭さが鼻腔から入り込んで、思考を霞ませる。恐怖で思考が出来なくなる。
狼の牙がそばに来る。
心臓が激しく暴れ回る。全身の血液の激しい流動を感じる。
狼の牙が、触れた。
ユーリは、叫んだ。
「こ゛め゛ん゛な゛さ゛い゛っ゛っ゛」
誰に対してのものだったかは分からない。
狼なのか、友人なのか、自分なのか。
ただ、謝った。
「ごめんなさいっ ごめんなさいっ ごめんなさいっ ごめんなさいっ」
謝って、謝って、謝り続けて。
そして彼は……。
……。
……り。
……ゆーり。
「ユーリっっ」
「っっ!!」
彼は驚いたように目を開けた。そこは庭園ではなくベッドの上。目の前では、優しい瞳をもつ赤髪の気高い雰囲気の女性が、上半身を起こし、ユーリを見つめていた。
「大丈夫か? ユーリ」
彼女はそう言ってユーリの瞳にしなやかな指の腹を寄せ、涙を拭った。そこで初めて彼は自分が泣いていた事に気が付いた。
「お前はうなされていたんだ。ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も謝っていた」
「申し訳ございません、ミラ様。起こしてしまいましたよね」
「気にするな。あの時の夢を見ていたのだろう」
「はい……」
「それより、ほら。水だ」
彼女が木のコップを差し出してきたので、ユーリは慌てて体を起こして受け取り、口にした。ひんやりと冷えた水は恐怖で干上がった喉を潤した。
ミラ。
彼女は、名家のご令嬢であった。そして、悪は討ち滅ぼすべしという貴族にしては珍しい信念を瞳の奥に宿していた彼女は、自警団を支援し、更に、口先だけの正義など話にならんとばかりに自身もまた身分を隠し、こっそりと自警団の一員として活動をしていた。
ユーリは狼に食われる間際、その自警団に、彼女に、助けられた。
以来ユーリは彼女に使用人として雇われ、この屋敷に住み込みで働いていた。
「どうだ……落ち着いたか?」
「は、はいっ。ありがとうございました」
「それは良かった」
彼女は微笑むと、自ら空になったコップを受け取り、近くのテーブルに置く。ユーリは「それは自分でっ」と慌てたが、ミラは「よい」と手で制した。彼女は立場にこだわることが必ずしも良い振る舞いではない事を知っていた。
それから、ユーリとミラは互いにベッドの上に座った姿勢のまま、暫し見つめ合った。
ユーリは何か言いたいことが有るが言い出せないと言ったもどかしい様子で口を開きかけては閉じ、を繰り返し、彼女はただ慈愛のこもった眼差しを向けてそんな彼の言葉を待った。
二人の間に静寂が訪れる。
が、やがてユーリは言葉を紡ぐのを諦めるように俯くと、次には使用人としてのいつもの真面目な表情で顔を上げた。
「すみません、ミラ様。また迷惑をかけるわけにもいかないので、今日は別室で寝させていただきます」
失礼のない丁寧な言葉遣いに尤もな理由。しかし彼女は
「駄目だな」
と断った。「えっ」と戸惑うユーリに対して彼女は尚も続ける。
「従者が主に嘘をついてはならないというのが私が決めたルールだ。そしてユーリは私に本心を口にしていない。そうだな?」
「そ、それは……」
ユーリは言葉に困ってしまう。
彼女の言っていることは事実だった。だがそれは、彼女に迷惑をかける行為で何より使用人と主という身分を考えれば不相応なお願いであった。ゆえに彼はどうすればいいのか分からず、ただ俯く。
そんな彼を見て、彼女は優しく抱きしめた。身長差で彼が胸を顔を埋める形になる。
「細かいことは気にしないで素直に本心を言えばいい」
彼女は言い聞かすように言って、そして呟いた。
お前を守りたいんだ。
その言葉はユーリの鼓膜から身体へ入り込み、心を溶かした。彼の身体はタガが外れたかのように震え始め、瞳からは涙がこぼれ始める。ミラはユーリをきつく抱きしめた。
「言え」
「ミラ様ぁ……!」
それが合図だった。
我慢の限界を迎えたユーリは涙声で言葉をぽつりと漏らし始めた。
「ミラ様……。怖いんです!僕は、とっても怖い……!またあの狼が来るんじゃないかって、あの貴族が捕まえに来るんじゃないかって、そう思わずにはいられないんですっ」
「……そうか」
「だから、僕と一緒に寝てくださいっ! それと……その、出来ればこのまま、抱き着いたままで……」
「あぁ、構わない。好きなだけ抱き着くと良い」
「ありがとうございますっっ」
「一緒に寝よう。お前が悪夢を見ないように」
「ミラ様ぁ……ミラ様ぁ……」
ユーリは母の名前を呼ぶように何度もミラの名前を呼び、その度にミラは愛おしそうに彼の柔らかな髪を撫でた。その様子を傍から見れば、深い愛情で繋がった親子そのものであった。
やがて二人は横になるとミラは、震えながら胸に顔を埋めているユーリの身体に布団を掛けてあげた。
(拾った時から決めたのだ。お前を苦しめる全てのモノから、お前を守ってやる……)
ミラは慈愛の籠った眼で彼を見下ろす。
夜はまだ明けない。
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