我が破滅
翁
我が破滅
「ここを越えれば人間世界の悲惨。越えなければ、我が破滅」
全くもって、その通り。流石は偉大なる皇帝ユリウス・カエサル。彼のことを考えると、頑冥極めたる我が石頭にしても、誠恐誠惶の四文字が否応無しに浮かんでくる。ルビコン川の外側で大人しく死を待つくらいなら、川を越え、血と奸計のローマへ突き進むのだ。
さて、もう一度言うが、あれは全くもってその通り。私はいたく共感した。そして今、私の前にもルビコン川が横たわっている。彼と同じように、越えねばならない。しかし、ここで断っておきたいのは、たとえ越えたとしても、我が身には破滅が待っているということだ。
端的に言う。私は今から、冥界にこの身を投げ打つのだ。
仏門に下ったわけではない私も、我が人生に行く末が無いことぐらいは、容易に悟れる。然して、このくだらない命に花を持たせてやろうと考えた。
しかし、ここで一つの問題に直面した。私は、生まれついての寂しがり屋であった。たった一人で冥界に下るなどとんでもない。低俗な私の魂などが、峻厳極まる地下世界に吹き荒れる黒き嵐に、耐えられるはずもない。プルートーのもとに辿り着く前に、亡者共に喰われるのがオチだ。ああ、考えただけでも恐ろしい。まるで不可能だ。
茹だった私の脳みそも、あまりの恐ろしさに冷えきって、冬眠する獣のように縮こまるというものだ。私は、今のままでは死ぬことができない。
そこからは苦しい道のりだった。どうにかして死のうにも、自らを縊り殺した後、赤子のように糞尿を撒き散らし、一人寂しく腐り落ちていく身体を想うと、どうにもいたたまれない。もしや「寂しがり屋」とは本能的に死を忌避するが故の言い訳の類ではないか。私は本能にすら抗えぬ畜生、過去に見た神童の称号など見る影もない凡夫なのではないか。
私は心の内で自虐しながら、真ッ昼間のオフィス街を歩いていた。
只々暑い。大気は鬱屈していて、自殺願望を膨らませる。こんなにも自殺日和なのだから、どこかのビルから愚か者が飛び降りてきても、全く不思議ではない。
ああ空よ、今こそ天から滑り落ち、我らの脳髄を地に晒してくれまいか———そんな妄想に耽りつつ、気づけば大学病院の近くまで来ていた。
病院は嫌いだ。狂ったように白い見目の癖に、そこに勤める医者どもはやけに辛気臭い面をしてデスクにふんぞり返っている。患者の病気に充てられて、年がら年中不養生なのではないか。裕福の筆頭とも言える連中がそんなでは、どうしようもない。
見るのも癪な大学病院を通りすぎ、すぐ近くの公園の前まで来た。長い間歩いていたこともあり、暑さにたまらなくなったので、公園のベンチに腰を下ろした。
一息ついて当たりを見渡すと、ある二人組が目に入った。というか、公園には私とその二人組しかいないようだ。耳を澄ますと、なにやら陰気な会話が聞こえてきた……。
「お父さん、最近来れてなくてごめんね。寂しかったでしょう。引っ越しやらなにやらでバタバタしてて……。あの子が、あんな古臭い家は嫌だって聞かなくてねぇ。子どもの教育によろしくないんだとか言って聞かなくって。」
「気にすることはないよ。あたしらみたいな旧い人間とは、もう考え方からして違うのさ。時代とともに人は変わっていくものだし、仕方ない、仕方ない。それに、あたしは寂しくなんかないよ。死ぬ時は側にお前が居てくれるだろうし、天国に行けば、見知った顔が迎えてくれるだろうさ。一人だけ生き残っちまったあたしを、中尉が許してくれるかは、分からないがね。」
ハ、徴兵経験者が、天国に行けるとでも思っているのか。北欧やアステカじゃあるまいし、天界の列に戦士が並ぶことはないだろう。どうせ大体の人間は地獄へ行くのだから、靖国がどうだ、英霊がどうだと宣う方が一貫性があるというものだ、この風見鶏め。
しかし、死にかけの人間を見ていたところで、自分が死ねる訳ではない。枯れ木のような二人組と寂れた公園を後にし、冥界への歩を進める。
冒涜的な高さのビル群を抜けしばらく歩いていると、天を衝くように伸びている坂に辿り着いた。私は上に行きたいのではない。否、上に行けないに決まっている。自尽するような愚か者には地の底の底が相応しい。
落ち込んでいく私の心とは反対に、坂は上へ上へと続いていく。日も落ち込み、生暖かい風が吹く。
再び歩き疲れた私は、坂の途中にある錆びついた長椅子に座り込んだ。心が落ち込んでいるのだから、自然と目線も落ちていく。
八度風が吹いたところで、蟻の行列を眺めるのにも、飽きてしまった。やけに重い顔を上げると、目の前には煉瓦造りの古い洋館が佇んでいる。
九度の風が吹いた。今度の風は、今までのよりも、少し強い。屋根上にちらと見える青銅のにわとりが、風を受けてくるくると回る。
常々思っている社会への悪態が頭の中で再生されるばかりで、どうにもいい案が浮かんでこない。もしや自殺とは狂人が矢庭に行うもので、その手法について考えている時点で到底望めないものなのでないか。そう悲観的になりかけた矢先、先程の老人の言葉が思い出された。
「あたしは寂しくなんかないよ。」
「天国に行けば、見知った顔が迎えてくれるだろうさ。」
全くもって、その通り。流石は戦争を生き抜いた傑物。私のような凡夫にはない慧眼をお持ちのようだ。今日この時をもって、私の尊敬する人物は貴方とカエサルの二人になった。どうか死後天国に上り、その素晴らしい才英を以て子々孫々を見守ると良い。
ただし、私は貴方のような傑物ではない。迎える者など、いるはずもない。それならば、そうだ。仲間と共に逝けば良い。
これなら寂しくはない。地下世界の秋霜烈日も、仲間と一緒なら乗り越えられる。
皆の者、案ずるなかれ。私は決して朴念仁ではない。今は誰の目にも入らぬ故発揮できていないが、私は実にエスプリに富んでいることだろう。愉快な旅路を約束する。共に冥界行を成し遂げ、我らが魂を安息の地に送り届けようではないか!
その為にはまず、爆弾だ。爆弾を用意しよう。火薬の勢いでもないと、私の目指す地下世界には辿り着けまい。
そして場所には、電車を使わせてもらおう。私は電車が嫌いだ。あれ自体も最悪だが、あれを利用する人間はどいつこいつもすまし顔で他人を貶めるような性悪ばかりで、そこらの軽犯罪者よりよっぽど始末が悪い。しかし、いや、だからこそ、長旅を共にする友人として選ぶのである。物事の好き嫌いは、できる事なら無い方がよろしい。昔母がこう言っていたことを思い出した。今回のことを実行するにあたり、初めて電車とその利用者達を好きになれるに違いない。
決行時刻は朝がいい。人々が最も足並みをそろえる時間帯だ。仲間は多い方が良い。数とは力だ。数の力は、この人間世界の歴史が証明している。
類い稀なる意志の力と適切な手段、それに数が揃えば、大抵のことは成し遂げられるのだ。数以外は、私に全て備わっている。山月記よろしく虎榜に名を連ねることも、あり得ない話ではない。これでも昔は知恵者として名を馳せたはず。将来政に関わるものとして、才色兼備に囲まれ、侃侃諤諤議論を交わし、その輝かしい才能を育てたものだ。
それが今ではどうだ。眼は陰り、頬はこけ、衣服に気をつかっている訳はなく、髪はだらしなく伸び切り、瘴気を漂わせている。暗闇であれば幽鬼と見紛う醜さだ。
こんなふうに腐ってからも、社会的な善悪に関わらず、「何か大きい事をなしてやろう」と奮起したことは、一度や二度ではない。
ある時はこの世の役に立とうと火薬学を一通り修め、みなぎる熱い愛国心から、お国を守る国士となろう、と思ったこともあった。勉学自体は順調に進み、国士への未来は確実と思われた。しかし、免許取得に係る試験前日。試験直前の最後の準備といった段階で、神風もかくやという熱い愛国心はたちどころに冷め、火薬学の書籍を全て屑籠に押し込んでしまったのだ。翌日の試験開始時刻、私は何故か駅前の牛丼チェーンで、中盛を頬張っていた。
またある時は、「もう私は怒った。社会のことなど知るか。規範だとか常識だとかは全て捨て置き、餓鬼のように暴れてやろう。」と出刃包丁(これもまた華々しき夢の残骸で、なかなかの値打ちもの)を握り締め、往来の平和を脅かそうと思い立ったこともあった。しかし、今に戸を開けんとドアノブに手を開けたところで、心身共にその動きは停止した。外に出るために靴を履いたときから、薄々感じてはいた。狂人が、靴を履いてたまるか!
つまるところ、身につけた規範や常識は、ある日突然無視できるような代物ではなく、今の今までその真ん中を歩いてきた私に、そのような事などできるはずはなかった。私は普通の人間だ。普遍的で、共感に値するまともな価値観を持った、皆が愛すべき隣人の一人に他ならない。
けれども私は、一向に愛される気配がない。
もしや私は、この短い一生において、享受されるはずの愛を全て使い切ってしまったのではないのか。いやいや、それはおかしい。ならば、青臭い学生の時分で私と同じように愛され、その豊かな才能を育てていた
皆が私を愛さないのならば、私も皆を愛さない。私は、黒鉄の冷たさと強い毒性のみを愛す。
死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。
死を自然に必要なサイクルの一つとして考えるのは、天上にまします神様か、地球だけで良い。だというのに、何を気取っているのだろうか。地球上の生命群、その一種として、らしくもない振る舞いを重ねることを、私は肯定しない。
死が救済であってたまるか!
私は誰も救わない!
私は、あなた方の破滅を願う紛れもない害意と、私と共に来ていただけることへの感謝という二つの矛盾した感情を以て、自らをあなた方ごと破滅させる。
我が愛すべき無知蒙昧、どうか見ていると良い。我々を地の底に叩き落とす熱き風は、もうそこまで迫っているぞ。
………………
私は今、運行中の電車の中にいる。
思えば、社会には様々な人種がいる。
性悪ひしめく満員電車の中で、極限まで本に顔を近づけて読書している者。
イヤホンをつけ、音楽を楽しんでいる者。
自らの息で車窓が白くなるほど、張り付くようにして外を見ている者。
私は今、どんな人間をも十把一絡げにする力を持っている。まさに、動く火薬庫だ。その動く火薬庫が、悪意を持ってヒトの営みの中に割って入っている。
心が熱くなっていく。この熱で、火薬に火がついてしまわないか心配だ。
「ふ、ふふふ、ふ、くくっ、く、く、く……」
どこからか、漏れ出たような笑い声が聞こえてきた。
よかった。私も、同じ気持ちだ。
爆発に伴い、あなた方とは暫しの別れとなる。しかし、案ずることはない。私のような悪党とは、地獄でまた会えるさ。それでは。
ドン!
我が破滅 翁 @casumarzu
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