アルデンヌの森
チュッチェフ
第1話 白い静寂
それからもう四十五年経ったのか。
白髪の老婦人が木窓越しにゆらりと降ってきた雪を眺めながら思った。
暖炉にはびりびりと薪が音を立て、温もりを放っている。
時は一九八九年十二月、クリスマス・イヴ。
ドイツの小さい町にある木造の一戸建てで、老婦人一家は普通の家庭のようにクリスマスツリーが立てられたリビングルームで遊んだり、食べたり、話したりして、氷点下の冬を暖かく乗り越えようとしている。
暖炉を囲んで、おもちゃを握ってはしゃいでいる老婦人の孫と孫娘は時折、アームチェアに体を沈み、窓に向いている婆さんをちらりと見た。
そしてある疑問が毎年彼らの頭に湧いてきた。
雪に埋められた街道には一体なにが潜んでいるのか。
前庭にあるのは、先ほど立てかけた雪だるまだけのはずだ。
思いつかず、やがて再び装飾品がきらきらと光っているクリスマスツリーに目を引かれた。
毎年のクリスマス・イヴには必ずこういうふうに雪を眺める老婦人の習慣は、家の大人たちが何十年間も見てきたので、それは特に異常なことだと感じていない。
昔は声をかけて体調について聞いたこともあったが、微笑で大丈夫を告げた老婦人に対し、それ以上の深入りはやめるようにした。個人主義が強いドイツにおいて、自分にしか誰にも知られたくないことを持つのは、ごく自然なことだ。何年かが経つと、こういう時に一人にしてあげるという暗黙の了解が家族の間にできてしまった。
背後にある居間の寛ぎの雰囲気を背け、遠い記憶に沈んでいる老婦人の、黒い瞳に雪の白さがやけに際だっている。
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ベルギーとドイツの国境線の近くに森があった。冬になるとトランクが雪に埋められ、枯れた葉も雪の底で静かに眠っている、限りなく天の際まで広がる雪の国だった。そこには白い静寂とともに生きている一人の少女がいた。
白い背景に映える艶やかな黒髪は、腰まで伸びている。
青いスカーフに束ねられた後ろ髪をふわふわと揺らしながら、細長い足をもつ少女は今、雪との戦いを繰り返して前へ進んでいる。
足を雪に深く踏み込み、また引き抜く。
耳に入るのは、雪を漕ぐ際に立てられた擦れ音。
肩越しにロープを引っ張っている両手が赤く、少女は喘ぎながらロープの先に繋いている橇と、その上に載せられている箱を必死に動かそうとしている。
パンツと長い革製のブーツを着る少女は、厚いコートとマフラーに包まれているが故、体格がはっきりとわからない。卵型の顔に鼻筋の通ったちんまりとした鼻。黒い瞳を囲むのは飛ぶように上に伸びた長いまつ毛とアーモンド形の目。マフラーの下に隠された口から白い煙が上がっている。
高いところに登っている故、気温が立て続け下がっていく。
そっと枝が折れた音、そして雪が落ちて地面にぶつかる音が少女の耳に伝わってきた。音しか聞こえないが、でも確かにそこに何かが存在しているのは分かっている。岩の後に隠れたり、雪の中に引きこもったり、灰色で入り組んだ枝に溶け込んだりするなにかが。
森に馴染まない人にとってそれは怖くてたまらないに違いない。
だが、ほとんどの時間一人でいられた少女にとってそれは心の支えみたいな存在、自分はまだこの世界に捨てられていない証拠だ。
前日踏み込んで残した雪穴は既に埋められたが、同じ道を歩いていることを少女には分かっている。樹幹に残された傷跡、枝の曲がり方、積雪の深さは、全てヒントになる。
しばらくなだらかな斜面を登っていき、森を抜けると、青空が目の前に広がった。
道が平らになり、太陽の光が少女の顔を刺すように強かった。
少女は目を細め、自分の行き先を確かめるかのように周囲を見つめてから、左に曲がって進んだ。
向かう先に小さな崖があった。灰色のごつごつとした岩場は真っ白な背景と強烈に対照し、高さはそれほどでもないが、見晴らしがよく、町全体を見渡すことができる。崖の高さを恐れず崖っぷちに座り込んだ少女は、雪に包まれる町を静かに見つめていた。
それは大きくとも小さくとも言えない町。
この地域はベルギーの中でも特に人口が少なく、開発されていない森林地帯のため、少女にもこの町が地元の人にとって大きいなのか小さいなのか見当がつかない。
二本の塔をもった大聖堂と周囲の広場は町の中心となり、ドイツの木造建築とこの地域特有の石造りの建物が入り混じって、東西に伸びて細長い形をなしている。
町の北側と西側が森林の生えた丘陵に寄りかかって、町から伸びる道路が丘と丘の間を通って森に消えていく。
まさに森と丘に飲み込まれた町だと、少女は思った。
バロック式の大聖堂の正面に聳える緑屋根の塔を目で追うと、自然に隣の濃い色の石で建てられた修道院も視線に入った。コの字型になっている二階建ての修道院と大聖堂は両者とも十八世紀に建てられ、町の発展を見守ってきた象徴的な存在だ。
太陽の温もりを受け、少女は目を瞑り、息を深く吐いた。
「気持ちのいい天気だ」
淑やかな声で歯切れのいい言葉を発して少女の育ちの良さが伺えた。
町の先、南側の地勢がなだらかになり、開墾された土地に農舎が点在している。
趣のある景色に少女は微笑んだ。
「スケッチブックを持ってこれたらよかったな」
ここで過ごした三つ目の冬とはいえ、前日の夜の状況だけで天気を予測するのは至難の技だ。
立ち上がって元の道に戻ろうとする少女は、ちらっと橇に乗せられている箱の中身を覗いてみた。
ソーセージ、ジャガイモ、缶詰などの食料品が入っている。
首都との交通が絶ち物質の調達が難しくなる中、肉まで譲ってもらった町長に感謝の気持ちが膨らむ一方、近いうちに訪ねていくと言い残した町長の真剣な顔に、少女は思いを巡らせた。
いつも静寂に包まれているこの森は、最近怪我を負った野獣みたいに、低い喘ぎ声を発している。
でもこんな町には大したことが起こらないはずだと少女は思った。
主要道路から離れているし、ドイツとの国境地帯とは言え、丘陵と森が広がって移動しづらい地形だし、地図にも小さい字で書かれた地名しか見えない。
だからわたしはここにいるなのね。
頭をよぎった詮索に、陽射しに輝いた少女の顔は何故か少し曇った。
先の山道はいったん下り坂で、渓谷の川を渡ってから再び上り坂となる。小さい川を跨ぐ木橋は、何年も補修されていないためぼろぼろの状態だ。
川は凍ったように見えるが、実は表面に薄い氷の層しかない。昔、氷が砕かれ、下半身が冷水に浸かって大病した経験があったため、少女はその後、いつもおとなしく橋を使うようになった。
天気の良い日に氷を眺めると、水に泳いでいる魚のふらふらと進む姿が見られる。
少女はそう考えながら、橋の上にしゃがんで、欄干が折れた所で身を乗り出して川の上を覗いてみた。
赤い斑点に彩られるマスがないか気楽な気持ちで見張ろうとする少女は、ふっと目に入った異様な光景に気を取られた。
氷には小さい赤い点の連なりが付いている。
目を細めてよく見ると、それは氷の中ではなく、上に残されたなにかの痕跡のようなものだ。顔を上げる目で追うと、赤い点がとびとびと川辺まで続いている。
血だ。
少女が眉をひそめて、戸惑った顔を見せた。
真っ先に頭に浮かぶのは襲われて怪我した動物が残した血痕だが、人里からまだそんなに離れていない場所で、狼が出没するはずがない。大型動物もほとんど離れたため、町の狩り人が随分前からこのあたりで狩りをすることはやめた。
人間の血なのか。
少女は考えに沈んだ。そのまま離れようと、自分の理性に呼び掛けている。
人を助ける立場ではないのをよく理解している。
しかし、橋を渡り切り歩みを進めようとも、心のもやもやさが消えるどころか膨らむ一方だ。
はぁと大きくため息をついて、少女は進む道を変えた。
川沿いに血跡を追い、木々の間に隠れながら移動する少女は、頼りない気持ちで足取りを軽くし、ゆっくりと血痕を追って進んだ。雪地に赤い斑点がちらちらと散っているため、気を取られると見落とすことになる。
慣れた道を離れるにつれ緊張感が段々と高まっていく少女は、息が荒くなって白い息が濃い霧のように吐き出される。
一本の大きい松の木を避けて進むと、そう遠くない場所に黒い物体が木の前に据わっているのが目に入った。はっきりとは見えないが、確かに何らかの動物だ。
おずおずと足を進めると、少女は目の前の光景にほっと息を呑んだ。
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はっと老婦人が目を開けた。いつの間にか眠り込んでしまったんだろう。
懐かしい夢を見てきたような顔をして、老婦人は額に手を当て、大きく息を吸い込んだ。
そこから全てが始まった。その儚い出会いが一人の少女の人生を大きく翻弄することとなった。
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