身近な死
どのぐらい走っただろうか。レオナは疲労を感じて、へたりこんだ。壁に背を預けて、両手で顔を覆う。
やってしまった、と思う。
いつの間にか、雨が降っていたようだ。レオナの服は濡れており、そのせいで肌寒さを感じた。
カレルにひどいことを言ってしまったという罪悪感と、店で感情をぶちまけてしまった恥ずかしさでいたたまれない。カレルの言っていることは正しい、と思う。しかし、それに従う気になれない自分もいた。
レオナは顔を上げて、宙を見た。雨粒がレオナの顔に当たって、滴り落ちていく。どんよりとした曇り空は、すべてを吸い込む闇のように見えた。
カレルが自分を心配している気持ちはわかるが、放っておいてほしいという気持ちが強い。どうせ長くない命なら、好きに生きたほうがいい、とレオナは思う。
ゴバニーさえなければ、こんなこと考えなくていいのに。
ゴバニーは禁止区内で流行する病だ。禁止区住んでいる人間は百パーセント発症する。症状としては極度の倦怠感からはじまり、徐々に食欲が減退し、嘔吐、発熱が増えていく。体力が衰えていくと、やがて、死に至るという病気だ。一度、発症すると二週間以内で死亡する。死体は教団兵が施設へと運んでいく。
タレスを飲むことで発症を抑えることができるが、飲むたびに免疫力が低下するため飲んでいたとしてもいずれ死ぬ。
平均的には三十歳で死ぬことが多い。あくまで平均なので、それよりも早く死ぬケースも多々ある。長く生きても四十歳には届かないことが多い。治療法は確立されておらず、禁止区生まれの人間だけに発症する。
レオナは十七歳なので、平均年齢で言えばあと十三年ほどだろうか。それよりも早く死ぬ可能性もあるが。こんな病気が流行しているせいで、禁止区ではこの話題はタブー視されている。
世界は理不尽だ。
こんな場所に好きに生まれ落ちたわけじゃない。というか、こんなところに生まれたいと思う人間がどこに存在するというのだろう。運が悪いとしか言いようがない。
この禁止区に住んでいる人間は選ばれなかった側の人間だ。
暗い気持ちになっていると、足音が聞こえてきた。そちらに視線を向けて、レオナは目を丸くした。
あれは、マリーさんだ。
マリーはレオナと同じく売春で生計を立てている女だ。歳は二十五歳で、レオナとは八つ離れている。レオナに仕事を教えてくれたり、自宅に招いて料理をふるまってくれたりと、関係は良好だ。
親しい人を見かけて、暗い気分が吹き飛ぶかのようだった。レオナが手を振って笑顔で近づこうとして――動きを止めた。
なんだか様子がおかしい。レオナのことが視界に入っているはずなのに、マリーは全く気付いていない様子だ。それどころかその目は虚ろで何も見ていない。足取りはまるで酔っ払いのようでふらふらとしている。
大丈夫だろうか。心配になって、レオナが声をかけようとした瞬間。
「うああああああああああああああああ!」
まるで獣のような雄たけびを上げた。膝から崩れ落ちて、両手で体中をかきむしり、奇声を上げている。明らかに常軌を逸した行動だ。突然のマリーの奇行にレオナが声を失っていると――突如、糸が切れた人形のように動きが停止した。
「ま、マリー、さん?」
恐る恐るといった様子でレオナは声をかけた。倒れているマリーの肩に手をかけたときに、マリーの顔が視界に飛び込んできた。
「ひっ!」
思わず、レオナはくぐもった声を上げた。
マリーの顔は両目が見開かれて、今にも飛び出そうなありさまだ。苦痛にゆがんだ顔は凄絶の一言だ。生前の美しかった顔は見る影もなかった。そのあまりの表情にレオナはその場で尻餅をついた。
すると、どこからともなく数人の教団兵がやってきてマリーを運んでいく。それはとても慣れた行動で、あっという間に教団兵の姿は夜の夜の闇へと消えていった。
レオナはそれを呆然とした表情で見ていた。マリーのあの苦悶にゆがんだ表情。どうして、マリーは死んだのか。そんなの一つしかない。マリーはゴバニーに感染したのだ。
動揺している自分にレオナは衝撃を受けた。今まで幾度もゴバニーで禁止区の人間が死ぬのは見てきた。だが、自分の知り合いが死ぬのは初めてのことだった。
もうマリーには会えないのだと思うと、自然と涙がこぼれてきた。同時に強烈な不安を覚えた。
知識では自分はいつの日か死ぬことは理解していた。だが、マリーが死んだことで一気に自分が死に近づいた気がする。死は平等に訪れる。それは自分も例外ではないのだ。その事実を突きつけられたように感じられた。
レオナは立ち上がって、走りだした。頭の中ではマリーの死んだ表情がこびりついている。それを払い落とすかのようにレオナは走る。
死なない。わたしは死なない。まだやりたいこといっぱいあるんだ。こんなところで死にたくない。
走るのをやめると、そのまま死んでしまうのではないかという恐怖がレオナの足を動かす。レオナは闇に向かって、ひたすらに走り続けた。
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