匿命掲示板

マフィン

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 机に踏ん反り返りパソコンの電源をつける。真っ暗な部屋がモニターの光でぼうっと照らされる。いくつか操作をしてブラウザを開き、ブックマークから己の「庭」にアクセスすると、阿良市香矢あらいちこうやはねとりとした笑顔を浮かべた。

 モニターに映っているのはネット掲示板だ。シンプルな白い背景のトップに黒字で書いてある「荒らしはやめましょう」「ほのぼの進行」だとかのくだらない文面は無視する。ネットの醍醐味をわざわざゴミ箱に捨てるつもりなどない。少し画面をスクロールすると、お目当てのスレッドは見つかった。

『マターリ雑談@49スレ目』

 開けば新規の投稿が数件。内容は前クールにやっていたアニメについて。どうもある住人のお気に入りらしく、長文で感想やらをつらつらと書き込んでいる。

 ちょうどいい、今日はこいつに絡もう。

 香矢は喜々としてキーボードを叩く。見た人間が皆不快感を催す醜悪な笑みで文章を打ち終えると、彼はエンターキーを高らかに鳴らして投稿した。

『そんな作画も声優も糞のアニメ見てるとか情弱すぎだろ。円盤1000枚以下で爆死だしw』

 スレッドに追加された自分のレスを一瞥して、香矢はさらに顔を歪めた。もちろんこれは本心ではない。まず彼はそのアニメ自体を見ていない。ブルーレイやDVDの発売本数をSNSで知ったぐらいだ。とにかく相手の好きなものを貶めたい、その一心だけで書き込んだ。

 荒らし行為。これが彼の無上の楽しみであった。

 最初はTwitterで行っていた。自分の知らないコンテンツで馬鹿馬鹿しくはしゃいでいるアカウント達に無性に苛立ち、貶すリプライを何度も送った。反論してくる相手のことはとにかく煽り立てた。嘲った。徹底的に小馬鹿にした。次第にそれだけでは物足りなくなり、作品や企業などの公式アカウントにもリプライを送りつけるようになった。アイコンを卑猥で気色悪いものにした。多くの人間が見るハッシュタグで過激なツイートを繰り返した。

 結果、アカウントを永久凍結された。すぐさま新しいアカウントを作ったが、それもすぐに凍結された。

 (許せねえ。俺以外にも似たようなことしてる奴はいるだろ。何で俺だけ)

 その仕打ちに我慢がならず、彼はTwitterを止めて別のSNSに登録することにした。そこでも同じことを繰り返した。ひたすらに他人を貶め馬鹿にし暴れ回り、行為をエスカレートさせて追放された。

 やがて彼は巨大な匿名掲示板に行き着いた。その頃には効率的な荒らし方を心得ていた。効果的と見るなら差別用語を使った。個人がのんきにやってるブログやSNSアカウントを晒し盛大にコケにした。グロテスクな画像を何枚も貼り付けた。特定したYouTuberの個人情報をためらいなく書き込んだ。

 そして。不倫で話題になっていた芸能人に過激な言葉で殺人予告を行い、掲示板からアクセス禁止の処分を受けた。

 (クソが。悪いのはどう見てもあのクソビッチアマじゃねえか。俺が何したってんだ。みんな思ってることレスしただけだろ)

 ムカムカを抑えきれずリアルで発散した。壁を殴りつけて母親を怯えさせ、文句を言いに来た父親には暴言を浴びせた。怒りを無理矢理行動力に変換し、どこか荒らすのにちょうどいい場所がないか探していると、よく覗いているまとめブログのコメント欄にこんな一文を見つけた。

『ここ比較的落ち着いてるよ。あんま荒らしもいない』

 一緒に書き込まれていたURLを開くと出てきたのが、彼が今利用している掲示板だった。ネットに詳しい香矢でも名前を知らない掲示板であったが、スレッドは多く立っており賑わっている。いくつか開いて中身を確認すると、吐き気がするほど優しい言葉ばかりが並ぶおぞましく平和なスレッドだった。あのコメントにあったように荒らしなどはいない。不自然すぎるぐらいに。

 (こりゃちょうどいい。俺の好きにできる)

 こうして香矢はこの掲示板に住み着くことを決めた。荒らしがいがありそうなスレッドをいくつか選び、その中でも一際平和ボケしたこの雑談スレッドで彼は趣味を満喫することにしたのだ。




 薄暗い部屋の中で初めてスレッドに書き込んだ時のことを思い出し、香矢は鼻歌まじりに椅子を揺らした。

『そういうレスよくないと思うよ』

 よっぽど真面目か、もしくはインターネットの免疫がないのか。愚かにも指摘してきた相手に対して罵詈雑言を投げつけ、そのIDがスレッドから消えるまで粘着した。まったく、あの爽快感といったら。対戦ゲームでチートを使って相手を完膚なきまでに負かし、倒れたキャラの前で屈伸を繰り返す。あの100倍は爽やかだった。

 ニヤニヤ笑いながら2Lペットボトルに直接口をつけコーラを飲んでいると、スレッドに「新着」の表示が出た。香矢は素早くマウスを握って画面をスクロールさせる。返信があった。どうやら元のレスの主らしい。香矢の適当な誹謗中傷をたしなめ、さらに丁寧に反論している。うぷぷ、と口から声が漏れた。どうやらよほどの馬鹿のようだ。さあ、これを引き出したなら後はこちらのものだ。彼は急いで投稿フォームをクリックしキーボードを叩いた。真っ白な入力欄を、ドス黒い文字で染めていく。

『うは顔面真っ赤www 現実認められない信者乙』

 他にもいくつか相手を貶す言葉を追加して、香矢は再び書き込みボタンを押した。これを見た相手はどう反応するだろうか。また子供じみた正論を送ってくるだろうか。それとも怒りや悔しさ、こちらに勝てぬ劣等感を抑え込んでリアルで八つ当たりでもするのだろうか。惨めな姿を考えただけで心が躍る。俯いて体を震わせる。腹の底から笑いが止まらない。

 やっと落ち着いて顔を上げると、また自分のレスに返信がついていた。内容をざっと見て、ニヤリとする。この特徴的な文章はあの女だ。

『ねー♪いつも思ってるんだけど、やっぱりそういうのよくないと思うよ。楽しく話そ♪』

 この掲示板は匿名掲示板ではあるが、文章の癖や書き込む内容から利用者の数や個人の特定ができた。彼が予想するに、このスレッドを恒常的に利用しているのは10人前後だろう。今彼に絡んできた相手もその中の1人だ。これまでの投稿から見るに、一人暮らしをしている女子大生らしい。脳天気な性格はいつ見ても虫唾が走るが、サンドバッグにはなっている。

『何庇ってるの?ワンチャンオフパコ狙い?腐れブスが婚活すんなボケ』

 脳内に一瞬のうちに思い浮かんだ言葉を打ち込む。もっと時間をかけて屈辱的な単語を盛ろうかとも思ったが、荒らしは鮮度が命だ。パソコンの前の相手がリアルタイムで顔を曇らせるのを想像しながら、香矢は残ったコーラを飲み干した。

 再び、スレッドに動きがあった。彼の書き込みを諫めるものだ。これも香矢の知っている常連のレスだろう。いつもクソ真面目な内容を投稿し、スレッドの空気が不穏になれば場を宥めようとする、何とも腹が立つ自治厨だ。

『流石にひどすぎると思う。早く彼女に謝った方がいい』

 正義漢気取りのレスに吐き気がした。最高だった気分を、突然ゴミ溜めに放り込まれてしまった。脳みそが怒りに燃え、顔が熱くなる。こいつには何を言ってやろうか。少し考えた後、彼はそれを取り止めることにした。それよりも今は女を叩いてすっきりしたかった。

 先程のレスを無視して、香矢はさらに能天気女に暴言を吐いた。短い罵倒を連投してそれまでの会話を流していく。まったりとしていた空気を殺伐にしていくのは天にも昇る気持ちだった。このスレッドの中では、己が全能の神だ。

 やがて、彼がターゲットにした女から返信があった。3文字だけの短い書き込みだった。

『やめて』

 絞り出したようなそのレスに、背筋がぞくぞくした。画面の向こうで女がスレッドを見ている。涙をぽろぽろとこぼしながら、自分に向けられたたくさんの誹謗中傷から必死に目を背けている。そんな情景さえ瞼の裏に浮かんだ。あまりに、あまりに気持ちいい。顔も知らない女の苦しみがたまらない。絶頂しそうだ。

 ああ、これだから荒らしはやめられない。

 はぁ。恍惚のため息が口から漏れる。さて続きはどうするか。考えていた香矢の脳に、急に眠気がやってきた。今日は一日ゲームをしていて目が疲れていたし、一通り欲を発散して満足したからだろうか。彼は素直に欲求に従い、机の横のベッドに潜り込む。

 (そういや)

 眠りに落ちる寸前、とろとろと蕩けた頭に1つの疑問が浮かぶ。

 (いくら平和ボケした奴らの集まりだからって、何で一度も通報されないんだ?)

 その答えについて考える前に、彼の意識は深く落ちていった。




 微かな明かりを感じて、香矢は目を覚ました。

 枕元に置いていたスマホを取り上げると、時計は2時過ぎを示している。結構な時間眠っていたらしい。

 電気はついていなかった。暗いはずの部屋で一体何が光っているのだろう。寝ぼけた頭で辺りを見回すと、机の上のパソコンから光が放たれていた。いつもはスリープ機能が起動して勝手に画面が落ちるはずなのに。まるで、さっきまで誰かが触っていたようだ。

 のろのろと立ち上がり、香矢は椅子に座る。目をこすり視界をはっきりさせてモニターを見ると、寝る前と変わらずあの掲示板が表示されていた。こんな時間だがスレッドは賑わっているらしい。いくつもの書き込みが、どんどん画面に増えていく。

『オフ会しない?』

『いいね、久々にみんなに会いたい』

『新しい人もいるだろうしねー♪』

 頭が内容を把握した途端、ぐらぐらと胸の中で怒りが煮えた。さっきまで俺が散々「かまって」やっていたのに、こいつらはそれを全く気にせずに会う予定など立てている。楽しく、遊ぼうとしている。

 ぶっ壊してやりたい。こいつらを笑わせたくなんかない。沸き起こった破壊的な衝動が、キーボードを強く鳴らす。台無しにしてやる。その一念を込めて彼は投稿ボタンをクリックした。すぐさま、レスがスレッドに表示される。

『陰キャがリア充気取りかよwww 俺も行ってお前らの顔面偏差値評価してやるわ。どこ?』

 さあ、どういう反応を返すのか。香矢は期待をこめた眼差しでスレッドを見る。瞬きをする。

 すでに返信が書かれていた。ありえない早さだ。たった一言だけの短い文が、ディスプレイに爛々と光っていた。


『お前の家』


 言葉の意味を脳が認識した直後、部屋の空気が冷え切った。歯の根がガチガチと鳴り出す。いきなり冬の海に放り込まれたような、命の危険を感じるほどの寒さだった。

 すぐに、部屋を満たしているのが冷気だけではないと気づいた。濃密な「なにか」の気配があった。人間ではない。人であるはずがない。おぞましい。こわい。見たくない。かえってくれ。頼む、頼むから。声が出せない。心の中で懇願する。しかし意味はなかった。「なにか」の視線が背中に集まる。こちらを見ろと、存在全てで訴えかけてくる。逆らえば命はない。無言の命令に痛みさえ感じて、香矢は壊れた機械のようにぎこちなく振り返った。

 部屋中に、うっすらと透けた人型が立っていた。10人前後ぐらいだろうか。全員普通に駅前を歩いていてもおかしくないような格好だった。首がもげていたり、腕が肘から千切れていたり、顔面の皮膚が剥がれていたりしていなければ。彼らはただ海藻のようにゆらゆら揺れて、薄闇とともに香矢の部屋に満ちている。今深く息をすれば、こいつらはきっと空気と一緒に吸い込まれるだろう。そして香矢の体の中で、ゆらゆらと揺れるのだ。馬鹿らしい厭な妄想をなぜか振り払えない。漂う恐怖と敵意が、彼の思考を縛り付ける。

 (嫌だ。なんでだ、なんで。俺は、俺はなにもしてないのに)

 目の前のこれを信じたくなかった。今まで住んでいた自分の部屋が、一瞬で異界に変わったことを認めなくなかった。悪い夢でも見ているんだ。そうだ。幻覚だ。きっと目をそらせば、こいつらは、いなくなって――

 全てから逃げ出して、香矢は体勢を戻した。モニターを見た。呆れるほど平和だったスレッドを覗こうとした。目が合った。

 おんながいた。長い黒髪の女が目の前にいた。香矢の体と机の隙間から、10cmもないような隙間から、体を出してこちらを見ていた。顔面の半分を占める完全に丸い黒目だけの瞳に、青ざめた自分の顔が映っていた。大きな口がぱかりと割れて、口角が上がる。舌がちらちら動く。これ以上ないぐらいの歓喜の笑みで、女は話しかけてきた。

「どうも、はじめまして♪」

 女のがりがりに痩せた長い指が香矢の首を掴み、ギリギリと締め上げる。息ができなくなる。抵抗しようにも体は動かない。全身を周りの人型が押さえている。死の冷たさで、香矢を凍りつかせている。

「いつも『俺達』の掲示板に書き込んでくれて、ありがとう」

 意識を失う直前、半透明の人型の誰かがそう言った。

 

 




 誰もいない暗い部屋に、キーボードを叩く音が響いていた。

 この部屋の主だった人間はどこにもいない。誰からも恐れられていた彼は、静けさを訝しんだ母親が怯えながら部屋のドアを開けるまで、消えたことに気づかれないだろう。彼の持ち物も、もう動かされることはないだろう。だが今、パソコンはモニターを光らせカタカタと音を立てていた。まるで今も、誰かが触っているかのように。

 モニターにはとある匿名掲示板が映っている。荒々しい口調で他の書き込みを馬鹿にし、ひたすら罵倒と中傷を繰り返す、掃き溜めのような場所。そこに、この部屋のパソコンから新しい書き込みがされようとしていた。どこか別のサイトにアクセスするためのURLとともに。


『この掲示板アホ多すぎw ちょっと乗り込んで遊んでやろうぜw』




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