見えない君と聞こえない僕

蜂屋二男

一、うるさい男。

 左から泣き声が聞こえる。

 19時51分。私の行きつけのバーで隣の男が泣いている。

 今日も駆け出しのバンドマン達が必死になって、練習の成果を披露している。

 私はあまりにも泣くもんだから、音楽が聴こえないと、注意をする事にした。

 きっといつもの私ならこんな事はしない。


 今日彼を振った、別れたのだ。


「少し静かにしてくれませんか?」

 男は泣き止まない。

「すみません。うるさいです。」

 自分でも驚くほど冷たい声だった。

 私は自分の気持ちが荒ぶると人に当たってしまう。ブツブツと男に文句を言う。


 ダメな女だ。

 私は人の顔が覚えられない。全て同じに見える。人の声が覚えられない。私の耳は音楽を聴く為にあるのだ。

 幼少期から治療は頑張って来た。成果は無かった。

 私を変えてくれたのは、たった一人の彼だった。

 私を、深く包み込み、騒いで、隠して、嘆いて、触り合って、喜び、悲しみあったって、それで憎み合った。


 人を覚えられないので、何度会ってもどんな人でも、私からしたら初対面だ。


 彼は違った。

 何度あっても彼だと分かった。それは直感でも無く、生物的本能でも無い。単純な運命だった。


 思い出に浸っていて気付かなかったが、男はこっちを見ている。

 今日の私は強気だ。

「なに?」

 隣の男は突然、笑顔になった。


 もしかして彼か?いや違う。多分服が違う。多分顔がちがう。多分肌の色がちがう。

 冷や汗が垂れる。


 あんなに、彼の趣味に付き合って一緒に古着屋を回ったのに、あんなに好きだったのに、私の提案で、一緒に日焼けをしに行ったのに。


 虚しい。彼の愛と彼とのセックス。

 そんな事しか思い出せない。私は彼の事を見分けられなくなったのか。


 息を目一杯に吸う、鼓動が早くなる。話しかけてみよう。

「すみません。どこかで…」

 男が私の方を見ながら。

「すみません、泣いてばっかで、一回泣くと止まら無くなっちゃって。」

 彼の目はベンガラ色に潤んでいる。間接照明のおかげで、彼の目はとても綺麗だった。


 笑っていたのは彼だった。






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