わたしはそのひとが、好きだった
田中アネモネ
わたしはそのひとが、好きだった
小学校五年生の頃の記憶は、わたしにとって特別なものだ。
年齢に10がつき始めて、高学年と呼ばれるようになり、『お姉さん』と呼ぶ下の子も増えた頃、その一生忘れられなくなる光景は、あった。
わたしには仲良しの男の子がいた。
彼はサッカー部で爽やかで、女子からも人気があったようだったが、わたしには普通に友達だった。
どうやって仲良くなったのかも覚えていない。そのぐらいわたしと彼は当然のように、いつの間にか友達同士になっていた。
どういう流れだったのかは覚えていない。そこはわたしのでも彼のでもなく、クラスの男子の住んでいるアパートの屋上だった。日が暮れ始めた頃、わたしと拓海は二人だけでそこにいた。転校が決まった彼の話をわたしが聞いていた。風がぬるくて、湿っぽかったのを覚えている。
彼が横を向いて立っているのを、少し低い視点から見つめていた。
「せっかく仲良くなったのに、寂しいね」
そう言いながらわたしはそれほど寂しさを感じていなかった。明日も明後日も、彼が遠くの町へ引っ越して行く次の日も、同じ日が続いていくような感覚でいた。今、目の前にいる彼がいなくなってしまうことを、信じていなかったのかもしれない。
ただ、何かぐらぐらと屋上の床が揺れているような、落ち着かない気分だけはあった。拓海もいつもの笑顔で話しているのに、何かがいつもと違っていた。初めて彼の左頬に結構大きな
「ユキは動物病院継ぐんだろ? 何かペット飼ったらそいつ連れて会いに行くかも」
拓海はそう言ってこっちを見ずに笑った。まるで遠い未来を見ているように。
「病院継ぐのはお兄ちゃんだよ。あたしはたぶん、平凡にどっかの会社とかに務めて、結婚してお母さんになるんだと思う」
「平凡だなー」
夕暮れの風に拓海の髪がふわりと揺れていた。
「ま、でもユキは、いいお母さんになりそうだけどな」
「タクちゃんは何になりたいの?」
わたしはそれを初めて拓海に聞いた。
「やっぱりサッカー選手?」
「おう。Jリーガーになって、そのうち海外に行ってやる」
冗談のように言いながら、こっちを向いたその目が本気だった。
「なれなかったら死んでやんよ」
「ばーか」
わたしは冗談にして流すように、笑った。
「生きててよね」
夕陽が彼の顔半分をオレンジ色に染めていた。拓海が何か言いかけたように見えた。顔を隠すようにわたしに背を向けると、そのひとはいきなり屋上の手すりに飛び乗ったのだった。
「ちょっ……!」
思わずその背中に向かって声を上げた。
「何してんの!? 降りてよ!」
「本当だぜ? 夢を叶えられないなら生きてる意味なんてねーからな」
そう言いながらそのひとは、わたしの胸の上まである屋上の手すりの上を、歩いた。
「あっちに転ぶか、こっちに転ぶか、それだけだ」
手すりの上で、少し拓海がふらついた。今から思えばそれはわたしを驚かすために、わざとふらついたのだと思える。わたしはそんな悪巧みにまんまと乗せられて、今にも悲鳴を上げそうになりながら、ただ固まってそれを見ていた。
あっちへ転べば5階下のアスファルトへ行ってしまう。
こっちへ転べばいつもの日常が戻って来る。
その間を拓海は両手を広げてバランスを取りながら、歩いていた。
わたしは両手を顔に当ててそれを見守っているうちに、いつの間にか見とれていた。
彼は、美しかった。
世界が、オレンジ色に燃え上がっていた。
手すりの向こうにあるのはただのよくある住宅街とその向こうに聳える山なのに、わたしにはまるで炎の海のように見えていた。それを背景に、焼けるように黒く染まった拓海が、綱の上を歩く。
(行って)
(飛んで)
わたしはそう思ってしまっていた。
そう思う自分の気持ちに自然と『恋』と名づけていた。
前からそういう想いがあったのに気がついていなかったのかもしれない。あるいはその時初めてそれは刻まれたのかもしれない。どちらにせよ、わたしは自分の胸の中から、水に浮かび上がるように、はっきりと姿を現したその甘やかな存在が、そこにあることを、思い知らされていた。飛んでほしい、失いたくない、そんな矛盾した気持ちがひとつになって、夕焼けの色とともにわたしの心に深く刻み込まれた。
「ほらっ!」
そう言うと、彼は手すりから飛び降りた。こちら側に。
「安心したか?」
「落ちたらどうすんのよ! もう! 男子ってどうしてそんな危ないことすんの!?」
まるで怒るように、わたしの口から出たのはそんなありきたりな言葉だった。彼はドッキリを成功させたように意地悪く笑い、わたしは常識ある女子生徒らしく彼に注意の言葉を浴びせた。
そう言いながら、ほんとうはもっと見続けていたかった。
怒った口調の勢いで、今知ったばかりの自分の気持ちを彼に告げそうになった。『あたし、あんたのこと好きなんだから! 死なないでよね!』とでも。いきなりすぎる恥ずかしさよりも、なんだか嘘をつく気持ちがして、出来なかった。していたとしても仕方がなかった。
だって本当に、彼はその3日後には会えない人となったのだから。
◆ ◆ ◆ ◆
25歳のわたしはあの日拓海に言った通り、平凡な会社員になっていた。いつもの道を往復する毎日。短大を卒業して入社した硝子瓶会社を辞めずに続け、5年目になっていた。
仕事に疲れた帰りの電車の中など、遠くの山を眺めながら、たまに拓海のことを思い出した。駅を出て家まで歩く頃には忘れていた。今夜と明朝の食事はどうしようとか、明日の仕事の準備のことなどで頭がいっぱいになり、側にいないそのひとのことはどうでもよくなった。一人のアパートに帰ると食事をし、テレビを観て、少しだけ好きなゲームをすると、明日のために眠った。
拓海はわたしに『いいお母さんになりそうだ』と言った。そんなものになりたいとも思っていない。そのうちに、なるのだろうとは漠然と思っている。誰の奥さんになるのかもわからないが、普通に結婚して、普通に子を産んで、普通に育てて、普通に歳をとっていく。わたしには『普通』のえらさがわかっていない。ただ平凡なイメージを平凡に繰り広げ、それにただ溜め息をついていた。そんな毎日だった。
新入社員は同い年だった。
茶色く染めた髪の毛先がさまざまな方向を向いていた。新卒みたいに真新しいスーツ姿はスラリとして細身に見えながらも、その下にはいかにもスポーツマンらしい逞しさが覗いて見えた。人懐っこい笑顔でぺこりと皆に挨拶すると、課長がさっき口にしたばかりの、わたしが耳を疑っていてもう一度聞きたかったその名前を、自分で口にした。
「青山拓海といいます。趣味は音楽鑑賞、特技はサッカーです。よろしくお願いします!」
同姓同名の別人だと思った。わたしは小学校の卒業アルバムを人にあげてしまったので、拓海の顔は記憶の中にしかない。遠くて左頬に
「ねぇ」
ずっと仕事をしながら気にして見ていたわたしが彼にようやく話しかけたのは、窓からの陽がオレンジ色になりはじめた終業間際だった。
彼は初めてわたしの顔を見ると、『何だい?』と言うように、話しかけやすい顔をしてくれた。左頬に小さな
「青山さんって、もしかして、T大学付属小学校にいた?」
わたしが聞くと、その顔が驚いたように変わる。
「え? そうだよ? もしかして、同級生だった?」
やっぱりそうだった。
ここは小学校のある町ではなく、それどころか500kmも離れた町なのに、こんなことあるんだと驚いた。
「あたしのこと忘れたのー? ひどい。友達だったのに……」
わたしは笑いながら、自分の名前を彼に告げた。
「
彼の口が「ええええ!」と声を出さずに動いた。
「籠島雪って……、ユキか!? 面影全然ないからわからなかった!」
「タクちゃんもあんまり面影ないよ。初め同姓同名の別人かと思ったもん」
「変わったかなぁ、俺? カッコよくなった?」
「うーん……」
わたしは本当に思ったことを言った。
「大人になった」
「そりゃそうだろ!」
彼がぷっと吹き出した。
「子供になってるわけないじゃん!」
わたしはアハハと笑ったけど、内心冷めていた。大人になったとは本当に思うけど、なんだか昔の彼はいつでも頼もしいぐらいに面白かったのに、面白くないことを言うようになったなと思っていた。
「なぁ、ユキ。ユキってお酒飲めるひと?」
やけに積極的に身を乗り出して来る。あたしがうなずくと、
「驚きの再会を祝してさ、帰りに乾杯しない?」
軽薄な感じでそう誘って来た。
◆ ◆ ◆ ◆
どこにでもあるチェーン店の居酒屋に2人で入り、彼は生ビール、わたしはレモン酎ハイで乾杯した。
「こんなことってあるんだね」
「綺麗になったよなあ、ユキ」
そんな言葉から始まり、次第に昔話に花が咲いて行った。
わたし達が小学生の頃に携帯電話かパソコンでも持っていれば、もしかしたら今までずっと繋がり合っていたかもしれない。しかしそんなものは持っていなかった2人は、まるで時を飛び越えたかのようにここにいて、偶然に、まるで運命でもあるかのように再び出会っていた。
昔話が一段落つくと、互いに知らない時代の話になった。
「転職でウチに入ったんだよね? 前は何してたの?」
チューハイの氷を転がしながらわたしが聞くと、拓海は自慢するように言った。
「大学出てすぐにさ、連れ2人と一緒に事業を起こしたんだよね。ネット上で」
「えー? 凄い! さすがタクちゃん、冒険するね」
サッカー選手はどうしたの? とは聞かなかった。
「でも失敗した。それでハロワで職探して、この会社に」
「そっか」
グラスの中の氷が寂しげに鳴った。
「でも、挑戦しただけ凄いよ」
「ユキは結婚は? お母さんになるんだって言ってたよな?」
「まだしてないよ。したい人もいないし……」
「あ! じゃ、俺とかどう?」
お皿の唐揚げがころんと転げた。
気軽な冗談なのはわかっている。でもわたしは動揺していた。嬉しかったのか、とても嫌だったのか、よくわからない。それでも長い間心の中に深く刻まれているそのひとからそんなことを言われるのは、わたしにとって大事件だった。だから、殊更冗談に冗談で答えるように、言った。
「何を言い出すのかね、新入社員くん。わたしは君の先輩であるぞ?」
「ははっ! 大先輩」
拓海が大仰に頭を下げた。
「何卒よろしゅう。出来れば昔のように仲良くして頂けると有り難く存じます!」
気の抜けたような朝にスズメが鳴いていた。
ちょん、ちょん、ちょん、と気怠さを切り取るように。
ベッドから身を起こす。目をこすりながら下を見ると、床に敷いた布団に無造作にくるまって拓海が寝息を立てていた。
一瞬、掛け布団で身を守った。拓海は無視するように眠り続けていた。わたしは制服のままだった。
記憶を辿る。昨夜、居酒屋で一緒に飲んで━━
記憶が歪んだトンネルの向こうにあるように、肝心な部分が覗けない。
痛む頭を抑えながら、拓海に3回、声をかけた。1回目は無反応、2回目は寝言のような呻き声で答え、3回目でひっついている目を開けてこちらを見た。
「記憶が全然ないんだけど」
一大事のようにわたしが言うと、軽くへらへらと笑いながら、兄か何かのように言った。
「覚えてないんだ?」
◆ ◆ ◆ ◆
大丈夫だった。
わたしの処女は奪われてはなかった。ぐでんぐでんに酔っ払ったわたしを拓海がタクシーに乗せ、アパートまで送ってくれ、そのまま彼もパワーを使い果たし、自分で勝手にお客用の布団をクローゼットから出して寝ただけの話らしかった。
いくら小学校の頃の同級生とはいえ恥ずかしいところを見られてしまった。しかもろくに片付けをしていない部屋まで。
何か変なことでも言わなかったかとわたしが恐る恐る聞くと、彼はニヤニヤしながら「何も?」と言って、意味ありげにさらにニヤニヤとした。
彼は目立たない社員になった。
特に仕事が出来るわけでも出来ないわけでもなく、その他大勢の中にすんなり溶け込んだ。
幼馴染みということもあり、わたしが手取り足取り教えると、そのたびに本当に彼はわたしの手や足に気軽く触れて来た。払いのけると少年みたいに笑う。幼馴染みじゃなければただの爽やかなセクハラ野郎だ。
仕事帰りに拓海はわたしの部屋にたまに遊びに来るようになった。もう小学生ではあるまいに、でもわたしも彼が来たいというのを断らなかった。2人でゲームをして、お菓子を食べて、たまにお酒も飲んで、初めのうち彼はタクシーで自分のアパートに帰って行った。そのうちお酒を飲んだ日は泊まって行くことが多くなった。
お客用の布団にくるまって眠る彼を見ながら、不思議な気持ちがしていた。珍しい種類の大型犬が自分の部屋で眠っているのを見るような。しかし目で見ているものとは別に、頭の中には同時に、夕焼けを背景に屋上の手すりの上を歩く少年の姿が強烈なまでに蘇るのだった。
「籠島さん、青山さんと付き合ってるの?」
先輩の女子社員から面白そうな顔をして聞かれた。そりゃそうだろう。誰に見られたのかは知らないが、同僚の男性をアパートの部屋にこれだけ泊めていたら、そりゃ噂にもなるだろう。わたしは正直に答えるしかなかった。
「幼馴染みなんですよ、彼。小学校の時、仲が良かったんで。だから昔懐かしい話とかいっぱいあって……」
「いや、それ、おかしいでしょ」
先輩の顔が見たこともないほどニヤニヤしている。
「いい年した男女にそんな友人関係、ありえないから」
そうだよなぁ、と思った。
気軽にボディータッチはして来るくせに、拓海はそれ以上のことは何もして来ない。わたしも男性に不慣れなくせに、あまりに気軽に彼を部屋に泊めさせてしまっている。おかしいよなぁ、とは思う。
わたしはきっと小学生の頃の続きをしているんだろう。
拓海も同じだと、そう思っていた。
その夜も拓海と2人きりでわたしの部屋にいた。
触れ合わないぐらいの距離で並んで座り、ゲームをしていた。
テレビ画面の中ではハリネズミのキャラクターが、ハイパーなスピードで駆け回り、スーパーなジャンプ力で細い鉄骨から鉄骨へと飛び移っている。
2人ともあまり喋らずに、たまに口を開いてもゲームのことだった。それでも気心の知れた珍しい種類の愛犬と並んでいるように、わたしは楽しかった。子供の頃に戻れたように、気を遣わないのが心地よかった。
「あ、冷蔵庫にプリンがあったんだ。3つ綴りのやつ。食べる?」
横を向いて彼の顔を見た。拓海はなぜか怖い顔をしていた。
「なぁ」
ゲームを中断し、コントローラーを床に置くと、怖い顔を少しだけ泣きそうにして、こちらを見た。
「俺さ、お前のこと実は、小学校の頃から好きだったんだけど」
突然の告白に固まり、プリンどころじゃなくなった。
「お前、俺のこと、どう思ってる? こんな風に部屋に上げてくれるのって、男として見られてないから?」
追い詰められたようにわたしは後ろへ下がると、壁に自分から背中をドンとついた。何か答えないといけない。言葉を探して、それを口にした。
「ごめん。そうだよね……。おかしかったよね、こんなの……」
「好きなやつでもいるのか?」
わたしはその問いには無言で首を横に振った。バカだなと思った。やっぱりこいつ、子供だ。いたらこんなことしてない。
「俺、お前と、恋人同士として付き合いたい」
本気なのは必死な目を見てわかった。
「ダメか?」
くすっと笑いそうになってしまった。可愛い小学生の男の子が必死な目をして、欲しいものをねだるのを見るように。そうしたらなんだか余裕いっぱいの心持ちになって、顔も緩んでいた。自然に口から言葉が出た。
「いいよ。わたしもタクちゃんのこと、好きだもん」
わたしは小学生の頃の気持ちを答えていた。
その夜、わたしは契を交わした男女が不思議なことをするのを知った。ふつうならするはずのない、とても人には見せられない行為だ。親にはもちろん、友達にも見せられない。目の前のタクちゃんにも見せてはいけないような気のするものだった。
抵抗は必要なものしかしなかった。タクちゃんのざらついた指や唇が触れて来るのを、いいのか? と自分に問いながら、受け入れた。ほんとうにいいのだろうか? ずっとそんな感情に囚われながら、わたしはその夜に処女を喪失した。
◆ ◆ ◆ ◆
いつの間にか職場で公認のカップルとなっていた。わたしはお弁当を2つ作るようになっていた。他に前と変わったものは自分には何もなかったが、周囲のほうが変わって行った。「結婚式には呼んでね」と先輩達に言われても、いつもの愛想笑いでかわした。頭の中にはなぜか、子供の結婚式ごっこが浮かんでいた。
平凡な毎日は彩られて行った。1人では出来なかったことが拓海がいれば出来るようになった。前から気になっていた漫画喫茶に初めて入るのにも勇気はいらなかった。会員証を2人でそれぞれに作り、それからは何度かそこへ行くようになった。ひとつの個室で静かに漫画を読んだ。彼が新しい漫画を取りに行く時、ついでにわたしを後ろから抱き締めて、軽くキスをして行くのが恒例となった。新しい平凡さが産まれ、育って行った。
「あたしのこと、どこが好きだったの?」
ベッドに並んで寝転んで、中世ヨーロッパのような雰囲気のイラストが描かれた立派な天井を見つめながら、わたしは拓海に聞いた。
「なぜに過去形?」
拓海が笑う。
「いや、小学校の頃」
「ああ」
ようやく意味のわかった拓海が答える。
「あれ、嘘」
「嘘?」
「お前のこと女だって意識するようになったのは再会してから。ガキの頃は色恋とか興味なかった」
「じゃ、なんで告白の時、『小学校の頃から好きだった』なんて言ったし?」
「勇気がいるだろ、告白の時って。だから、あれが言いやすかったから」
「ふうん?」
「あ、でも」
「ん?」
「小学生の頃はさ、色恋には興味なかったけと、思い出したらなんか、女の子の前ではカッコよく思われたいみたいなとこは、あったな」
「あ。それで?」
わたしは咄嗟に聞いた。
「屋上の手すりの上を歩いたのは、あたしにカッコいいとこ見せるためだったの?」
もしそうなのなら、なんだか残念だった。神聖なもののように胸に残っているあの光景が、不純なもので汚されるようだった。
「何の話?」
拓海が不思議そうな顔をこちらに向けた。
「屋上? 手すり? 何?」
「覚えてないの? 転校する3日前にさ、タクちゃん、あたしの目の前で……」
わたしはあの時のことを、客観的に、つまらない物語をするように、彼に話して聞かせた。それを見た時のわたしの驚きや感動、ふたつの願いがいっぺんに強く動いたあの時の、自分の気持ちは秘密にした。
「よくそんなつまらないこと覚えてるなー」
彼はくだらない物語を笑い飛ばすように、言った。
「自分じゃ覚えてねーけど、たぶんそうなんじゃね? あの年頃の男の子ってほら、女子の前でわざと危ないことして見せたがるじゃん」
「そうだったんだ……」
拓海が悪いことをしたわけでもないのに、わたしはぶすくれた。とても大切なものを壊した犯人が隣にいるように、顔をそむけた。ロマネスク調の安っぽい壁紙を見つめながら、その向こうにまたあの光景が甦った。わたしには絶対にできないことをやるヒーローのように、そのひとは夕陽の中を歩いていた。
「あ! それのことか」
突然、拓海が言い出した。
「何が?」
わたしは仕方なく聞いてあげた。
「初めてお前と飲んだ日、酔っぱらってお前の部屋に初めて泊まったろ?」
「うん」
「あの時、お前、へんな寝言を言ってたんだ」
「やっぱりへんなこと言ってたんじゃん!」
確かにあの時、拓海は必要以上になんだかニヤニヤしていた。
「……で、なんて?」
すると拓海はわたしの真似をして面白がるように、言った。
「タクちゃん……。イって! 飛んで!」
自分の顔が真っ赤に染まるのがわかった。心の中にある、自分だけの大切な宝物を暴かれたような、そんな気持ちにさせられた。
「いや~……。俺、てっきり、お前が夢の中で俺とえっちなことしてるもんだと……。それのことかぁ」
「ばっかじゃない? あたし、タクちゃんと違って、頭ん中そればっかりじゃないんだから!」
ぷいと背を向けると、彼が後ろから抱き締めてきた。
「俺だってそればっかじゃねーよ。ユキ……。愛してるよ」
目の前に回された腕を、わたしは触りもせず、払いのけもしなかった。誰か知らない人が後ろにいるようだった。2人でいるのに孤独を感じていた。再び安っぽいロマネスク調の壁紙を見つめながら、遠くにそのひとを思い描いた。
◆ ◆ ◆ ◆
拓海と付き合いはじめて3年が経った。
わたしは彼と会うごとに笑顔が多くなっていった。記憶のなかの屋上の手すりを歩いたひとの姿はだんだんと遠くなり、今そばにいる彼の姿がわたしの中で大きく育っていた。
「ごめんね、拓。お弁当にタコさんウィンナー入れ忘れかけちゃって」
「おう。それ忘れてたら一大事なとこだったからな。しょうがねーよ。それにしても今日は10分しか待たなかったぞ。やるじゃん」
2人は同じ部屋で生活していた。初めて2人で一緒に寝た時と変わらない、わたしの部屋だ。いつも出掛ける時には準備に時間のがかるわたしを、彼は優しい笑顔で待ってくれる。駐車場に車を停めると、張り切ったように運転席の彼が言う。
「さ、行くぞ」
ふふふと笑い合い、腕を組み、恋人繋ぎに切り替えて、動物園に入って行く。正直3年も付き合うことになるなんて思っていなかった。初めの頃のあの、本当にこれでいいのだろうか、彼でいいのだろうかという戸惑いは、どこかへ消えていた。
「動物園なんて、いつ振りかな」
それは記憶にないほど前だった。はしゃぎながらわたしが言うと、拓海は微笑ましい子を見るような顔で、少し馬鹿にするように言った。
「ユキは子供だからな。こういうところ、似合うよな」
「ど、動物が好きなだけなんだからねっ! こ、子供じゃないわよっ!」
動物園に行きたいと言い出したのはわたしだった。動物が好きなのはほんとうだが、なんとなく彼と、どうしても来てみたかったのだ。昔、子供の頃に好きだった音楽を、2人で聴きに来るように。
「見て見て! 拓にそっくりだよ」
金網の向こうからこちらをじっと見ているマンドリルを指さしながら、言ってあげた。
「どこがだよ! 俺、どっかの部族かよ? あ。あっちのあいつ、ユキにそっくりだ」
拓が指さした先には大きな鳥小屋があり、止まり木の上でメンフクロウがこっちを見ながら首を傾げていた。
「うーん。かわいいし、色白だけど……、あたしあんなにのっぺりとした梨の断面図みたいな顔してないよ」
2人はずっと笑顔だった。周りは家族連れが多くて、笑顔の子供達と、疲れたような顔の大人達が、たくさん歩いていた。わたし達はまるで子供達の同類のように、はしゃいで園内を歩き回った。
「はい、あーん」
わたしがお箸で差し出したタコさんウィンナーを、嬉しそうに拓海が口で受ける。とても平凡だけれど、そんなことがこの世の天国みたいに幸せだった。彼もわたしももう28歳。そろそろ結婚のことを彼が言い出して、わたしは子供を何人か産んで、自分が子供だった頃は自然に遠く、後ろへ流れて行くのだろう。屋上の手すりを歩いたひとを見たあの日は遠い過去になり、彼との愛も次第に醒めながら、わたしの人生は終わりに向かって静かに流れて行くのだろう。それもいい、それでいい。そう思うようになっていた。
金網の向こうに細長い小型の生き物が3匹いた。タヌキみたいな柄をしており、まん丸い目に好奇心を浮かべてこちらに近寄ってくる。わたしは説明書きを読んだ。
「ヨーロッパケナガイタチだって」
「ペット用の動物にフェレットっているだろ? あれの原種だよ」
拓海がいつものように蘊蓄を語り出す。
「フェレットは性質の大人しいヨーロッパケナガイタチを固定して、臭い屁を出す臓器や獰猛さの元になる生殖器を去勢してペット向きにしてるんだ。あと、メスは交尾ができないと自分の身体の中から出る毒で死んじゃうんだって。ペット用に改良したフェレットをさらにスーパーフェレットっていうんだけど、だからメスはすべて避妊してから出荷されるんだ。避妊してあれば交尾できなくても死ぬことはないから」
「へー、すごい! 物知りだよね、拓って」
わたしが褒めると拓海はいつも気分がよさそうにする。わたしは彼のことをてのひらの上で転がしているつもりはないが、可愛いやつめと思うと同時に少しイラッとするところもある。彼を嬉しがらせること、上機嫌にさせてあげることを今はしたいと思うのだが、そのうち関係が長く続けば、これが彼の嫌なところになるのだろうか。
「可愛いなー……」
わたしがイタチさんと金網越しに見つめ合っていると、少し離れたところでコチンと何かがぶつかる音がし、金網がかすかに揺れた。
「やめろよ!」
突然、すぐ隣のほうでした男の子の大声に、2人で振り向いた。
見ると小学校二年生ぐらいの男の子が金網の前に立って、両腕をいっぱいに広げてヨーロッパケナガイタチを守っている。その前では同い年ぐらいの別の男の子が、ニヤニヤしながら拾い上げた小石を手に持っていた。
その脇にはこれまた同い年ぐらいの可愛い女の子がいて、オロオロするように2人を見守っているのだった。
小石を持った子が面白がるように、それを投げる真似をする。守るほうの男の子は怖がるように顔をそむけながらも、広げた両腕は引っ込めない。
「やめろ! コイツはおれが守る!」
男の子は見ているこちらが恥ずかしくなるほどの真剣さで、きょとんとした顔で後ろにじっと立って覗き込んでいるヨーロッパケナガイタチを身体を張って守っていた。
「ひひひひ!」
もう一人の子が執拗に小石を投げる真似をする。
女の子は何も言えないのか、固まってじっと見つめている。
「はーい! 小石を投げないようにー!」
そう言いながら係員の人がやって来て場を収めた。
小石を持っていた子はそれを地面に投げ捨てると、笑いながら逃げるように駆け出した。彼がいなくなってもヒーローの子は鼻息を荒くしてしばらくその格好のまま立っていた。
わたしは女の子を見た。このヒーローは、彼女の心にずっと残ることになるのだろうか、そう思いながら。
しかし女の子はどうやら『イタチさんがかわいそう』としか思っていなかったのか、ヒーローのほうはあまり見ていなかった。係員の人が場を収めると、彼女ももう一人の男の子と同じく、どうでもよくなったように駆け出した。
拓海が言った。
「けしからん子だなぁ。石を投げるなんて」
金網の目が細かいので、小石が通ることはありえなかったが、それを投げられているというだけで、確かにイタチさんは可哀想だった。
「守った子はえらいよね」
わたしが言うと、拓海は腕組をしてうんうんとうなずく。
「えらい。あれは男の鑑だよ」
目の前の彼を見ながら、わたしはまた昔を思い出していた。
犬をいじめる3人の悪ガキを前に、拓海が立ち塞がっていた。
鎖に繋がれた犬は、飼い主の戻りをスーパーマーケットの前で待っていたのだった。3人の悪ガキに本気でいじめる気はなかったのだろう。しかし犬は怯えていた。殴りかかる真似を大袈裟にして見せると耳を垂れ、弱い目をして顔をそむける。それを面白がって彼らはしつこくその動きを繰り返していたのだった。
わたし達は確か3年生だった。アイスクリームを買って2人で自動ドアを開けて出るなり、その光景が繰り広げられていた。
相手の3人は他の小学校の4年生といった感じだった。拓海は躊躇なく駆け出すと、犬の前に両手を広げて立ち塞がった。
「やめろよ、お前ら!」
遅れてわたしも一緒になって立ち塞がった。相手は笑いながら逃げて行った。それだけだったのだが、彼と一緒にスーパー戦隊になったような気分が爽快で、今でもよく覚えている。
「昔の拓みたいだったよね、あの子」
「え、何が?」
「覚えてないの? あたしと2人で犬を守ったこと」
「犬?」
また覚えていないようだ。もうこれから昔の話はあまりしないようにしよう。他愛もないエピソードだから覚えていないのも当然なのだ。わたしにとっては今でも記憶に残っているほど印象に残った出来事でも、彼にとっては日常の中のほんの些細な出来事で、今は記憶にすら残っていないのだ。
なぜわたしは過去ばかり見るのだろう。拓海がそんなことを覚えていなくてもどうでもいいはずだ。拓海は、拓海なのだから。未来だけを見よう。これからどんなことが起こるのか、それだけを期待してワクワクしよう。そう思いながら、帰りの車の中で話をした。
「ねぇ、拓。お店とか開いてみるつもりない?」
「店ぇ~?」
ハンドルを握りながら、冗談話に付き合うような調子が返ってきた。
「うん。なんでもいいからさ、拓がやってみたいこととか、ない? あ、拓はサッカー好きだよね? サッカーカフェとか、出来ないかな」
笑われた。
「サッカーカフェって何だよ。店の中でサッカー出来るとか? おもしれーな、それ。料理とかにボール当たって、すげーことになりそう」
「拓は……ずっと今の会社に勤めるつもり?」
「まぁ、気楽だからな」
そう言ってから、考え直したように言葉を取り繕う。
「事業に失敗したって言っただろ? あれで懲りたとこあって、さ……。でも、お前が何かやりたいって言うなら、付き合ってもいいぜ?」
『付き合う』という言い方に少し引っかかったが、それは表には出さず、夢を語るだけなら自由だとばかりに、わたしは色々とアイデアを出した。
「居酒屋は? あたしが料理作る! 拓はお客さんの相手して」
「おう。イケメン店主に俺はなる」
「昔ほどイケメンじゃないよ、拓は」
「小学生の俺に負けてんのかよ、俺?」
「だって昔は女子にモテてたじゃん」
「モテたほうがいい? 俺」
「そういうわけじゃないけど」
確かに昔の爽やかイケメン小学生は落ちぶれていた。爽やかさだけはいくらか残すものの、どんな木に育つかを楽しみにされていた未知の緑の若葉は、今や庭に鬱蒼と生い茂るハーブという名の雑草のごとしだ。もちろん自分も彼のことを言えたものではないが。
未来図を描いて遊ぶ会話。これに付き合ってくれるということは、彼にも結婚の意思があると思っていいのだろうか。彼は何もそんなことは言わないけれど。
わたしはといえば、もう平凡なお母さんになる準備は出来ているつもりでいた。小学校の時からの付き合いである拓海1人しか男性を知らずに、子供を産んで、育て、知らずに年老いて行く。それでいい、それがいい。
拓海は優しく、じゅうぶんにいい男だ。何の不満があるだろう。平凡な自分なのだから、平凡に生きるのが似合っている。そう思いながらも、なぜか頭の中には屋上の手すりの向こう側にあった、燃えるような夕陽がちらついて仕方がないのだった。
「おいしかったね」
そのイタリアン・レストランの料理は特別おいしいということもなく普通だったが、社交辞令のようにわたしはそう言って、機嫌のいい顔を拓海に見せた。
「よかった。ネットで下調べしといてよかったよ」
拓海の喜ぶ顔が見られればオーケーだ。彼が幸せそうならわたしも幸せだと思えた。日々は穏やかに流れて行き、楽しいことばかりではないだろうが、後から振り返ってみればすべてが楽しかったように思えるのだ。キラキラした過去を眺めながら、前へ進む。思い出を作るために今がある。いつかわたしは綺麗な思い出のたくさん胸にあるおばさんになって、おばあちゃんになって、消えて行くのだろう。
車の助手席を自分で開ける。真新しくはないが、拓海が丁寧に磨き上げ、ピカピカに保っているパールホワイトのミニバン。今はとても新しいもののように見えるこの車もいつかセピア色の思い出になって、写真を見れば懐かしいと思うようになるのだろう。
ふと、車のドアを開けた手が止まった。
不穏な物音を耳にしたのだった。それは人間の声だというのに、まるで獣の唸り声のようだった。夜の空気を揺らして、木々の葉までも揺らしそうなほどにピリピリと、こちらへ届いて来ていた。店に隣接している公園があり、声はそこから聞こえて来るのだった。
「何、あれ?」
わたしが聞くと、拓海は構わず車に乗るよう促した。
「関わるな。ろくなことがないよ」
「いや、ほっとけないでしょ?」
「行こう」
わたしは少し迷ったが、すぐに助手席のドアを閉め、駆け出した。後からそこで死人が出たなんてニュースを聞くのは嫌だった。
「ユキ!」
拓海が止めるのも聞かず、一人で公園へ駆けて行く。後ろから彼が追いかけて来てくれる足音を聞きながら。
駆けつけると、公衆電話ボックスの灯りがあった。そこに追い詰められるようにホームレスのおじさんが尻餅をついており、2人の怖い感じのお兄さんが、怒鳴り声を上げているのだった。
「舐めとったら承知せぇへんぞぉ! ワレェ!」
「こんなところで寝とったら足引っかけて転んで怪我してまうやろがァ!」
「ひっ……! すいません! すいません!」
おじさんは幾つも年下の2人に完全にびびり上がり、ぺこぺこと謝っていた。
「おい。ヤクザだよ、どう見ても……」
後ろから拓海が言った。
「しかもろれつが回ってない。ヤバいよ、これ」
「助けてあげて」
わたしは拓海に言った。
「おじさんを助けてあげてよ」
「関係ねーじゃん。関わったらろくなことにならない。行こう」
大人の判断だ、と思った。
薄情なのではない、賢明なのだろう。
見知らぬホームレスのおじさんを助けることで自分に火の粉がふりかかるようでは、平穏な家族など維持はして行けないのだろう。
でもわたしは、拓海はヒーローでいてほしかった。
彼を振りきって、前に出た。怖いお兄さん2人がわたしのほうを向いた。
「おじさん! 今、警察呼んだから!」
それだけ言うと、後ろから拓海に引き戻された。自分の身体がガチガチに硬直していることに気づいた。腕を掴んで引っ張られると、カニみたいに四肢がバラバラに動いたので。
「なんじゃ、おどれらァ!?」
「部外者が何チャチャ入れて来よんじゃァ!? 警察ゥ!? 被害者はこっちなんじゃボケェ! ええ格好しようとしてからに! カップルで海に沈められたいんかァッ!?」
「おっ、お巡りさーんっ!」
裏返った声で叫びながら、拓海は逃げた。わたしを守って、逃げてくれた。
舌打ちをしながら怖いお兄さんが2人とも、反対側へ逃げて行く音が聞こえていた。
2人で息を切らして足を止めたところは、綺麗な町の夜景が見下ろせる高台だった。
「こんなところまで……逃げること、なかったなっ」
拓海が笑った。
2人ともバカみたいにドキドキしていた。
「アハ、アハハハッ」
わたしも、笑った。
「面白かったあ~」
「バカっ。相手はヤクザだぞ。しかも酔っ払ってるかなんかしてた。お前、捕まってたら何されてたか……っ!」
「綺麗……」
わたしは夜景を見下ろしながら、言った。
「こんな綺麗な景色、久しぶりに見た気がする」
「どうしたの、ユキ」
心配するように拓海が聞く。
「なんか不安なのか? なんか今日は変な気がする。急に考え込んだりして……」
わたしの目の前には柵があった。高さ1メートルもない、木製の柵だ。上部を少しだけ平らに削った丸太が寝かされ、それを下から何本もの柱が支えている。
そのすぐ向こうは崖の下だ。
「ねぇ、拓」
「ん?」
「すごくバカなことしていい?」
「は?」
言うなりわたしは丸太の柵に手をかけ、その上に飛び乗った。
太めとはいえ3センチヒールを履いた足がふらつく。構わず両手でバランスを取りながら立ち上がると、暗い林の上を滑り降りるように視線は横に飛び、宝石のような町の灯りを視界の端に映し出した。そのままわたしは暗い崖の向こうに、落ちて行こうとする。
「バカっ!」
左手を拓海に掴まれた。
わたしは笑った。怖いのが楽しかった。丸太の上をフラフラと、彼に手を支えられて歩き出す。
「拓海もおいでよ。一緒に歩こう」
「何考えてんだ! 向こうに落ちたら死ぬぞバカ!」
彼は常識的なことを言った。
「自撮りで死んじゃうやつみたいなことすんなよ! 降りて! ほら!」
彼が手を引っ張ろうとするのに合わせて、わたしが体重を向こうに傾けるので、拓海がそのたびにオロオロするのが面白かった。
「アハハっ!」
「何考えてんだよ、もう!」
「拓も一緒に歩いてよ。そうしたら降りてあげる」
「そんなこと出来るかよっ! いい大人が……」
「出来ないんでしょう? 大人になったら運動神経鈍くなっちゃった?」
彼の足が丸太の上にかかり、スローモーションのように、上へ動いた。
表情は見えなかった。きっと子供のように、ムキになった顔をしていると思った。そのひとはわたしの手を握りながら、同じ場所に上がって来た。
それは一瞬だった。
永遠のように思えた。
月が死の匂いと優しい微笑みを同時に投げかけて、わたし達を照らしていた。宝石のような町の上空を2人で飛んでいた。向こう側へ、向こう側へ。強くそれを意識することで、わたしの心臓は激しく揺れ、全身を血液が音を立てて駆け巡るのがわかった。
彼がわたしを抱き締めてくれた。1メートルもない高さの柵の上が、雲の上のようだ。
「拓……、タクちゃん!」
わたしはあの日に帰っていた。屋上の手すりの上で、初めての恋を、彼に抱き締められて、叶えていた。
そのまま、2人で炎の海へ、落ちて行った。
「大好き……っ」
気がつくと、頬が涙で濡れている。
「タクちゃんっ……、大好き」
「いや……。本当、いい加減にしろよ」
拓海の声が頭上で聞こえた。
「死にてーの? 意味わかんねぇ……。お前のことがわからなくなった」
見ると地面の上だった。拓海はわたしを抱きかかえて、すぐにこちら側に飛び降りたのだった。
平凡が戻って来た。
とても落ち着きがあり、どこかしらけていて、誰もが愛すべき平凡だ。
わたしには絶望のように思えた。
◆ ◆ ◆ ◆
「忘れ物、ない?」
「うん。ないはずだ」
2人で約2年暮らした部屋を出て行く拓海を、笑顔で送り出す。彼も清々しいような笑顔で、大きく膨れたボストンバッグをひとつ、意外に少なかった彼の荷物をぶら下げて、世話になった民宿を出て行くように、ひとつよそよそしいお辞儀をする。
名残惜しさは、あった。それが気に入るものであれどうであれ、拓海と生きる未来は描いていた。
「元気でね? 何か変わったことあったら、知らせて?」
「うん、ユキも」
そう言って彼は固まったようにわたしを見つめ、荷物を提げたまま、嗚咽を漏らすように言う。
「俺……、お前のこと、愛してる」
「わたしもだよ?」
にっこり笑って、わたしもそう告げる。
そして拓海は何かを言おうとして、黙る。『お前の好きなやつに勝てなかった』──そう心の中で悔しがっているようだ。
そう。あなたはわたしの一番好きなひとに、どうしても勝てないの。
あのひとは、わたしの胸に、どうしようもない自由を刻み込んでしまったの。
あのひとは、あなたとなって、またわたしの前に現れた。わたし達の運命は、繋がっていると思っていた。でも違ってた。それだけのことだ。
ごめんねは言わなかった。彼も何も聞かない。わたし達は再会したばかりの頃のように、明るく、よそよそしく手を振り合うと、それきり別れた。
角を曲がり、彼の姿が見えなくなった。
一生忘れられないことって、ある。
わたしの胸の奥にはいつも、炎のように燃え上がっていた、あの夕焼けがある。こちら側にはいつも通りの平凡がある。その間を、黒い影になりながら、燃えるように、そのひとが歩いている。もうどこにもいない、屋上の手すりの上を歩いたひと。わたしはそのひとが、好きだった。
わたしはそのひとが、好きだった 田中アネモネ @chameco_k
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