福禄谷探偵事務所

牧場 流体

第1話 薄暮

 京都唯一の村である南山城村みなみやましろむらの秋は、木津川きづがわと山々がもたらす圧倒的な自然の迫力に触れることができる。

 都会から移住してきて本当に良かったと思わせる瞬間だった。


 余田徳久よでんとくひさは前を走る娘、一華いちかの成長を思う。春には6歳になる一華は体が小さく病気がちだったが、日増しに活発になり今は元気に走り回れる様になった。


 最初はただただ必死で、こいつにはもう俺しか頼れるものがいないという使命感にも似た焦りが俺を動かし、仕事も、子育ても何とかやってこれた。そして今、全てが軌道に乗り始めた気がする。

 西日に照らされた一華がこちらに手を振っている。


 その瞬間、一滴の墨汁が水面に落ちた様な不気味な違和感が徳久を包んだ。紅葉こうようし始める木々の影が一華のそれに並行して伸びており、それは路面のアスファルトに溶け込む程に薄く、


消えてしまいそうにか細かった――――。




『第一話 薄暮』




 部屋は異様な雰囲気だった。

 壁際に並ぶ水槽や飼育ケースになぜか和装の二人組。

 部屋の中央のソファに腰掛け、テーブルを挟んだ向かい合わせの席に着席を促すのは、おそらくこの事務所の主人であろう男はボサボサの髪に眼鏡、精気の感じられない見た目であるが、細面ほそおもての眼光は鋭く対称的で不気味だった。

 奥の流し場からこちらに会釈をするもう一人は

「助手のしずくです。」

とだけ名乗り流しにまた身を向けた。

 大正ロマンを感じさせる臙脂えんじに白の絣着物かすりきものを着た高校生くらいの少女で、黒髪のショートヘアーにキュッと吊り上がった猫目、能面のような表情からは何とも言えない美しさと、周りを拒絶するオーラを漂わせていた。

「どうも、福禄谷です。一階のレストラン行ったことあります?」

「いえ……」

「行かない方がいい、店主の態度が最悪だ」

 はは……と苦笑いする私に福禄谷と名乗る男は冗談ですよ、と軽く微笑む。

「ささ、どうぞお掛けになって。話聞かせていただけます?」

 疑心暗鬼の中で私は事の大略あらましを伝えた。娘だけでなく私の影も薄くなっていることも――。


 しばらくの沈黙があった。何しろ影が薄くなるなどあまりに非科学的だ。寺院や病院でも納得のいく答えを貰えず、ネットで『 非科学的相談 関西 』というありえない検索の末、ここに辿り着いたのだ。かなり胡散臭さはあったが、相談料無料・完全成功報酬制だということに加え、府内という好条件に惹かれてここまで来てしまった。

 たまらず湯呑みに手を伸ばす。

 太陽が南中しているのか、日差しで卓子たくしに私の伸びた影が映る。男はそれを見て相好そうごうを崩した。


「仕事がうまくいっていると言われたのですが」

「師匠知らないんですか? 草薙柳くさなぎやなぎさんですよね、『薄暮はくぼ』の。水槽ばっかり見てないで少しはテレビを見てください」

 後ろで少女が呆れた、と言わんばかりのため息をつく。


 そう、私は小説家だ。

二〇代の時、文学賞に入賞したきり鳴かず飛ばずだったが、最近の連載でやっと長いスランプを抜け、今ではテレビ番組でも度々たびたび取り上げられるほど有名になった。

「ちなみに今日、娘さんは」

「今は小学校に行ってます。体調は問題ないようなので」

「そうですか。影はいつぐらいから薄くなったと気づかれました?」

「先月です。川を散歩している時に娘と周りの影を比べて初めて気づきました」

「その前後くらいに何か身の周りに変わった事は無かったですか」

 ……確か影に気づいたのは小説の連載が決まったあたりか。その時は一華もずっと家にいて異変と言うよりは好調になっていた気がする。

「例えば水に関係することで」

 考え込んでいる私を見て、男は意味ありげに付け加える。

「……そういえば、季節外れの豪雨で木津川が増水して家が水浸しになりましたね」

「なるほど……」

 男が顎に手を当て考えている様子に今まで相談した人間とは違う、次のステージに運ばれる予感がした。藁にも縋る思いだったが、実際に影を見せた時のあの医者たちとは違う男の表情に解決の糸口が見つかるかもしれないと少し期待する。

「……家、直接見たいんですが、今日はまだいけます?」

 私は二つ返事で返した。

「詳しくは車内で話します」

 道案内ということもあり私の車で向かうことにした。


 〇  〇  〇


 細い山道を白のステーションワゴンが滑るように走る。

「売れっ子小説家って言っても意外と車は普通なんですね」

「売れ出したのも最近ですし、それまではずっと貧乏暮らしでしたからね」

 後部座席に福禄谷と並んで座る、雫の無遠慮な質問にも徳久は謙虚に答える。あまり他人に関心のない雫が珍しく饒舌だったので、無理に割り込まずこのまま聞き役に徹した方が良さそうだと、影光は顔を車窓のほうに向け、まだ青々しさが残り美しい樹木が作る緑のトンネルを眺めた。


「――娘は母親を知りません。そんなあいつに貧乏暮らしばかりさせて……ずっと辛い思いをさせたと思います。良い編集にも巡り会えて小説も認められてやっと長いトンネルを抜け出せた、そう思っていたのに……。福禄谷さん、あの薄い影の原因は一体なんなんですか」

「……恐らくあやかしの影響でしょう」

「妖……ですか?」

「言葉にするのが少し難しいのですが、我々の世界とバランスを取るために存在している物です。世のすべてのものは流れを守るために存在している。植物は光を空気に変え、動物は他者の糧となり命のかたちを変える。そして大地や海がまた命を創る。負の感情も陽の感情も、ただ容を変えるという本能で動かされている。あなたの影を別のものに変える妖が原因だろう」

 話を聞いた徳久は訝しげだった。

だが、という超常現象を起こす何かに、すでに巻き込まれている。

そして景光はその原因を唯一知る人物だ。

徳久は景光に弱々しく尋ねる。

「……影を失ったら、娘はどうなるんですか。」

「それは妖の正体を見ればわかるはずです。その解決法も。」


 〇  〇  〇


 ステーションワゴンが停車したのは、山裾に佇む二階建ての日当たりの良い、広い古民家だった。玄関前の広場に無造作に駐車され、景光は車を降りて思い切り伸びをし、深く息を吐いた。築年数はかなり経っていそうだが、重厚で丁寧な手仕事があった時代を感じさせる造りの家だ。


「随分と立派な家ですな」

「祖父から相続しました。何分不便な所で独りだった祖父が亡くなってからは誰も貰い手がなかったんですが、その頃は文学賞に入賞した頃で煩わしい都会を出る口実が欲しく妻の意見も聞かずに飛びつきました。辛いこともたくさんありましたけど、今はとても居心地がいいんです」

 家に入ると続き間の襖は開けっぱなしで縁側からの採光のみであったが、古民家特有の薄暗さは無かった。大黒柱には娘の成長の記録が彫刻刀で刻まれていた。

「ただいまー」

 娘の一華が小学校から帰ってきたようだ。影が薄いという先入観もあるが、長い黒髪に白すぎる肌がどこか物憂げで薄命な印象を受けた。

 徳久は我々を紹介し挨拶するように言うが、訝しげな目でぺこりと軽く頭を下げ早々と自分の部屋に立ち去り、徳久が追いかけた。


「不躾ですみません、人見知りなもので……」

 戻ってきた徳久の困りながらも優しく微笑む姿に、娘に対する実直さと優しさを感じた。この居心地のいい家は父と娘で築き上げてきた軌跡で溢れている。

「では早速ですが、少々お部屋を探索させてもらいます。雫ちゃんは床下を――」

「もう見つけました。庭の井戸です、来てください」

 雫は勝手口を横切り真っ直ぐ山手の庭に向かう。草刈りの適度に行き届いた庭の端に剥き出しの井戸が地面から六十センチほど伸びてそこにあった。

「雫ちゃん、今日は鼻が効くなぁ。余田さん、この井戸使ってます?」

「枯れてはいないはずですが、増水の時に濁ってしまって今はほとんど使っていません」

 井戸の淵に手を掛け中を覗き込む。深さは六、七メートル程で底にたまる湧水に濁りはもう感じなかった。

「居ますな。余田さんも見ます?」

 慌てた様子で徳久は井戸の底を見つめる。

「師匠、眼鏡」

「あぁすみません。この眼鏡かけてください。右側水面あたりの壁です」

 影光は眼鏡に息を吹きかけ軽く擦り、徳久に渡す。

 暗い井戸の底に水面とは明らかに違う、艶めかしい光の反射が見える。それまで見えなかったが、そこには背骨を感じさせない程に湾曲する背をした物体が井戸の壁にじっとしがみついていた。暗さに目が慣れて来るとそれはかなり成長した大山椒魚おおさんしょううおであった。

 徳久が唖然とした様子で影光を見つめる。


「しかしでかいな、八十センチはありそうだ。もう濁りは取れていますがこのままじゃ使えませんね。一旦中に入りましょう」


 〇  〇  〇


影喰かげはみです。」

 家の中に戻り影光は説明を始める。

「見ての通り外見は山椒魚だがこいつは妖で、普段水辺に住んでいて水を飲みにきた動物の影を喰う。そして喰われた生物には幸運が訪れるという。ただそれは等価交換で、宝くじに当たるとか石油を掘り当てるといった規格外なことは起きません。本人が気付くか気付かない程度のことだ」

「……待ってくれ、信じられない。まさか今までの幸せも与えられたものだったというのか」

「それは分からない。だが、その幸運が今の生活のきっかけを作ったのかもしれない」

「だったら妻を――」

「亡くなった人は戻らない」

 影光は言葉をかぶせる。部屋に少しの間、沈黙が流れたが影光は話を続けた。

「あと、小説のことに関しては影の対価として釣り合ってない。きっかけは影喰の幸運のおかげでもそれを形にしたのは余田さん、あなた自身の力でしょう」


「…………ありがとうございます、そう言われると少し救われた気がします。影自体は喰われても問題はないんでしょうか……?」

「影を少々喰われても全く問題は無い。……ですが、全てとなると話は別です。影を失えば法則の外に弾き出され、見えなくなります。」

 見えなくなる?景光の言葉に不安がる徳久に、影光は付け加える。

「ただそれは短期間に喰わせ過ぎた場合で、影は時間と共に元に戻るから安心して欲しい。影喰は今日引き取ってあるべき場所に帰す。元々は人の入らない山奥の川に住んでいるものだからな」

「娘の影の方が薄いのは……」

「単純に井戸に近づく時間があんたより長かったんだ」


 ――影光が一気に説明したが徳久には胸の内に僅かな葛藤があった。

 確かに一華は井戸の付近で本を読んでいることが多く、夕方頃に夕飯で一華を呼びに行くことが日課となっていた。現状はこの影喰とやらがもたらした幸運が影響しているのだろう。思い返せば連載が好調になるまではとんとん拍子だった。ずっと思い描いていたテーマを形に出来たのも、現編集者と出会えたのも、連載が決まった時も……。

 引き取ってもらうべきだと訴える思考の片隅で、徳久は比べてしまう。どん底だった過去と幸運がもたらした穏やかな今を――――。



 話し終えた影光は徳久の葛藤を静かに見守る。今の話をいきなり飲み込むのは難しいが、問題の解決方法は提案した。今、徳久が悩むことは手にとるように分かる。人は昔から妖を利用しようとする。だが妖は人に懐いたり恨みを持つことは無く、ただあるようにそこにあるだけだ。そして人は幾度もそれを扱いきれず失敗する、そういったを何度も見てきた。

「影喰とやらに近付かなければ、これ以上影が薄くなることは無いのですね……?」

 徳久は結論を出したようだ。

「あの井戸に近づかなければ大丈夫ですね」

「……では、引き取りは結構です。娘にはあの井戸に絶対近寄らせないようにします。今は小説が大詰めで、話が本当ならまだ必要だ。あの暮らしを、もう二度と娘にさせる訳にはいかないんです」

「……そうですか。これからこいつは冬眠の準備をする。喰う量も段違いになる筈だ。くれぐれも間違いのないように」

 影光は開けっ放しの襖の端に一華の気配を感じた。


「では今回はこれで失礼します。探索費とアドバイス料、あっ交通費は事務所まで送っていただければサービスしますよ。明細と請求書は後日郵送いたしますので」

「あとサインしてもらっていいですか?」

 後ろから食い気味に雫が出る。こいつにも人間らしいとこあるんだと、秋晴れに流れる雲を見送りながら景光は黄昏たそがれた。今回の依頼はこれで解決だ、とはとても思えなかった。


 〇  〇  〇


 夜の山道をベレットが走り抜ける。影光はよく真夜中に愛車の調子を確かめながら当て所もなく徘徊する趣味があった。この季節にしては生ぬるい外気を感じながら、外付けのラジオから流れる一本のニュースに意識を奪われた。


『今日未明、作家の草薙柳さん、本名 余田徳久 さんが自宅で死亡しているのが確認されました。付近には争った形跡がなく、警視庁は自殺とみて捜査を進めています。余田さんは生前――』


 影光はラジオを消した。

 車を山道の路肩に停め、煙草に火を着ける。せせらぎが聞こえ、下に川が流れていた。

 一年前の冬、徳久の慟哭どうこくを思い深く息を吐き出す。



 一華が消えたと連絡があったのは十二月、徳久は裸足で庭に座り込み、呆然と井戸だけを見つめていた。

 一華が行方不明になった後、大規模な捜索隊が組まれたが、見つかったのは井戸付近に落ちていた一華の衣服だけであった。

 徳久は縋るように一華を元に戻す方法は無いかと尋ねたが、説明の通り自然の理は変えられない、娘さんはもう見えなくなって、こちらからはどうにも出来ない。と言うと、徳久は恨みでも嘆きでもない独り言をぶつぶつと言い始めた。それは妻と娘と三人で一緒に暮らす幸せな物語だった――――。


 夜闇の空に消える煙草の煙をぼんやりと見ながら、やりきれない後味と湿った風に不快を感じ、火を揉み消した。


 〇  〇  〇


 ――――私の最初の記憶は生まれてからすぐで、細くなっていく母の息遣いと嗚咽を漏らす父を覚えていた。言葉を理解し始めた時、私には父しか家族がいない事を理解した。父は夜遅くまで泣く私の声にずっと付き合い、いつも私の側にいてくれた。眼鏡の奥の優しい目と声を聞いていると心地よくなってうとうととしてしまう、それは幾つになっても変わらなかった。貧乏だったけど大きな声で怒鳴ることは決して無くて、時に厳しく落ち着いて諭してくれて、たまに独りになりたい瞬間はあってもいなくなって欲しいなんて一度も思わなかった。

 ある時、夜中に一人でお酒を飲みながら、母の写真に向かって静かに泣きながら幸せな物語を話しているところを見たことがある。そこには母と父と、私がいた。とっても幸せな物語だったのでいつか父にそれを実現させてあげたいと強く願った。

 チャンスは本当に訪れた。あの大人の言うことは本当だ。だって井戸の前で祈れば願ったことが本当になっていったのだから。だけどその日からは井戸は危ないから近付いてはいけないという事になった。後少しで幸せな物語が実現するのに……。

 あの井戸の力が無くなったら父に幸せは訪れないかもしれない、そう思った私は父の目を盗んでは井戸にお願いした。

 どうか父の幸せな物語が完結しますように。そしたらやっと父の本当の人生を二人で歩んでいける気がしたから。

 父の小説はもうすぐクライマックスだ――――。


 〇  〇  〇


「雫ちゃん網取って!」

 影光は隱草を吸いながら左手を向ける。

「師匠絶対こっちにそれ近付けないでくださいよ! ほんとに爬虫類はダメなんです!」

「なら安心じゃないか、山椒魚は両生類だから」

 雫は無視して三メートルは離れる。

「しかし、初めて見た時より大分デカくなったな。一メートルはあるかもしれないぞ」

 影光は御札が貼り付けられた水槽に影喰を入れるとトランクにそっと置いた。

「それ、どうするんですか?」

「帰すよ、ここにいても影は殆ど喰えないだろうし。こいつ自体に罪はないからな」

 

 トランクを閉め、影光は車を走らせた。

 持ち主を失った家にあの時感じた居心地の良さはもう無く、柱に刻まれた印が今はいない親子の面影を主張するように、そこにはあった。


終わり

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