お年玉

マツ

お年玉

 おろかに生きなさい、というのが母の教えだった。言葉ではなく、生き様で、そのことをわたしに示した。母は50を超えても新しいサービスにためらいがなかった。鉄道会社がカードタイプの多機能決済ICサービスを開始すれば即座に契約した。ポイントでどれくらい得をしたかを、無邪気に私に報告した。スマートフォンを持つのも早かったし、わたし以上に使いこなしていた。定額のコンテンツ配信サービスがいかに便利で充実しているかを力説し、わたしが、TSUTAYAで間に合っているからとそっけなく返すと、黙った。でもすぐに、TSUTAYAなんてそのうちなくなっちゃうわよ、と言って母が加入している配信サービスのパンフレットを引っ張り出してきてわたしに差し出した。わたしは母に、サブスクリプションサービスが、目先の利便性と引き換えに、わたしたちにとってもっと大切なことを毀損していることについて、話そうとして、でもやめた。わたしの知識は乏しいから、論理的、というより情緒的な話し方になってしまい、結局は母に敗れてしまうことが、容易に予想できたから。

 母のおろかさは即物的で、単純で、その分だけ強かった。母からは、非正規雇用で厳しい生活を余儀なくされているくせに、低価格のサービスやクーポンなどの割引サービスを利用しないわたしの方が不合理で不可解に見えているに違いない。そして、昔から変なところで意地っ張りな子だったから、で片付けられてしまう。そうじゃない。そうじゃないのよ母さん。あなたが便利だお得だと何の疑いもなく利用しているサービスを作っているのは資本主義と呼ばれるもので、その資本主義が、わたしを貧しくしているの。そのことについて、もっと勉強して、理論武装して、母を説得したい。母と同じように、PayPay便利よ、ユカリも使いなよ、と笑顔で勧めてくる友達に、疑うことを教えたい。でも、日々の生活に追われていることを言い訳にして、わたしは結局勉強なんてしないし、母や友人を説得したいとは思っても、本気で実行には、たぶん、いやきっと、移さない。それどころか、最近わたしは、おろかなのはわたしの方ではないか、という気がしてきている。確かにわたしは昔から意地っ張りだった。一体わたしは何に、意地を張ってきたのだろう。考えたって、疑ったって、いいことなんて何もなかったじゃないか。

 母から手渡された配信サービスのパンフレットをデイパックに入れながら、考えとく、と言って実家を出た。5分ほど歩いたところにある私鉄の駅で切符を買う。4つのうち、1つだけ切符が通せる改札機があり、そこを通ってホームに立つ。電車を待っているのがわたし一人だったせいか、真冬の風が、よけいに冷たく感じられた。ダッフルコートのポケットに手を突っ込むと、母から預かったポチ袋が右手に当たる。もういい年なのに、お年玉なんてもらえないよ、と断っても、おばあちゃんにはあんたはいつまでも孫なんだからと言われ、結局今年も母を介して受け取ったのだった。わたしはもう一度、ホームに誰もいないことを確かめて、ポチ袋をポケットから取り出し、中を覗いた。数枚の千円札が入っている。わたしはポチ袋の口を鼻に押し当て、匂いを嗅いだ。新札の匂いがする。子供の頃から、この匂いが大好きだった。わたしは、電車が来るまで、何度も何度も、お札の匂いを吸い込んだ。

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お年玉 マツ @matsurara

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