第40話 フェミニンを救った1枚の絵

 前日の既述の中で、山発産業の山本清雄がカネボウから、資材を投じ自社株を買い戻した件について記述した。ここでカネボウが山発産業の株式を保有していた約5年間について記すこととする。


 山発産業は明治中期に、綿紡績の山本商店として大阪で創業した。初代社長山本發次郎は才覚に溢れた人物で、山本商店を関西地方最大手紡績会社に育て上げた。

 その後、明治政府が掲げる富国強兵政策により、紡績会社はいくつかの企業に集約されることになり、山本商店はカネボウ(創業時は鐘淵紡績)と富士紡の基となった。


 大正時代、二代目發次郎は江戸時代から続く毛染め企業、瑠璃羽本舗を買収し、新たに山本商店を起こし、頭髪化粧品メーカーとなった。

 戦後、山本商店は山発産業と改称し、染毛剤「パオン」を発売した。1960年代後期、世界初のシャンプー式ヘアカラー「フェミニン」を発売し、黒髪が美しいとされていた時代に「栗色の髪」の美しさを定着させることなり、以後各国から、ロレアル、ウエラ、ミス・クレイロールなどが日本市場に進出した。

 山発産業は日本に、ヘアカラー、と言う文化をもたらした企業であった。


 二代目發次郎は美術愛好家としても知られ、芦屋の広大な私邸に約1万4千点以上の美術品を所蔵し、山本コレクションと呼ばれていた。

 ことに絵画は名だたる画家の作品を所蔵する、当時としては国立美術館を凌ぐ規模を誇っていた。


 若手芸術家の育成にも尽力し、芦屋の芸大とも呼ばれていた。

 ことに佐伯侑三の作品を認め、本人から直に140点の佐伯作品を購入した。

 しかし、戦災により、14,000点の半数以上が失われ、残ったのは約6,000点であった。

 佐伯の作品も残ったのは43点であった。

 發次郎の遺産を相続したのが、山本清雄であった。清雄は京都大学を卒業後、住友本社に入社、その後1946年に山発産業の代表となった。


 既述の通リ、山発産業にとって80年代は、価格破壊の波にのまれた時代であった。

 このころ、スーパーの多店舗化と、ドラッグストアの出店ラッシュが続き、知名度の高いフェミニンは格好の目玉商品であった。


 やがて山発産業は高級路線に舵を切った。そこに立ち塞がったのがフランスのロレアルとドイツのウエラであった。


 ことにロレアルは小林コーセーと提携し、着実に地歩を固めていた。

 またロレアルは業務用向けにも進出し、ロレアルサロンと言う看板を掲げた美容室が全国に誕生した。このころロンドンで「サッスーンカット」と言うショートカットスタイルが生まれ、考案者のビダル・サッスーンは時代の寵児となり、コンコルドに乗って、ロンドン、ニューヨーク間を往復していた。

 日本でもロンドンのサッスーンサロンを経験した美容師が、原宿周辺から全国に散らばり、大サッスーンブームが起き、このサッスーンブームに乗ったのがロレアルサロンであった。


 山発産業は大手電機メーカー、シャープと組み、YSP(シャープ山発プロシリーズ)をもって挑んだが、山発産業がトップの座に帰り咲くことはなかった。


 ◇◇◇


 カネボウが資本参加しても、山発産業には何も変化は起きなかった。

 小倉は相変わらず、茨城の担当で、偶に栃木、群馬を応援に行くのも以前のままであった。


 違いといえば、営業部長兼東京営業所長になった黒田を後ろに乗せ、問屋に挨拶に行くくらいであった。


 黒田は会長 伊藤淳二に近く、カネボウの本流を歩いた男で、カネボウの全盛期しか知らない男であった。

 カネボウの黒田が来たとなれば、回りの者は取引先も含め、実状とは異なる上辺の顔で接していた。問屋に行けばカネボウと言う名前の威光で、丁寧なもてなしを受けた。


 黒田が訪れるのは、山発産業に好意的なところばかりで、末端の実状を見る気は全くない男であった。

 小倉が営業に使用していたのは。トヨタコロナバンと言う車であった.


 ある日小倉は黒田を後ろに乗せ、館林市の小川屋と言う問屋を訪れた。

 実は山発産業は黒田のため、営業用には必要がない、トヨタクラウンと言う車を

 用意していた。

 東北自動車を走り、館林インターを降りると、とりせんと言うスーパーがあった。

「ここをちょっと見て行こう」と珍しく黒田が言い、車を降りるとスタスタと店内に入って行った。

 小倉は焦った、スーパーにメーカーや問屋の者が入店する場合、通用口を利用し、入店目的を記入した上、入店証を胸に付けるのが原則である。


 そして棚にフェミニンとパオンがないのを見て「小川屋に言ってすぐに入れさせなさい」と言った。


 黒田は問屋に一言いえば、どこの店でも、「ハハー」と言って、自社の商品が並ぶものと思っているようだった。


 小倉は呆れた。スーパーの棚に並べてもらうため、日夜努力している者のことを分かっているのだろうか。カネボウではそれが普通なのだろうか、


 小川屋では例により、丁寧なもてなしを受け、意気揚々と車に乗り込むと「茂林寺に行ってくれ」と言った。

 館林市にはぶんぶく茶釜の舞台で有名な、茂林寺と言う寺があった。


「なんだこんなものか、来るんじゃ無かったな、ズボンが土で汚れちゃった、坊主にブラシを持って来させなさい」と言った。


 帰りの車中で黒田は「君はもっと一所懸命にゴルフをやって、店の主人と付き合いなさい、そのためのクラウンだから」と言った。

 化粧品店の主人は毎日、ゴルフをしているのだろうか、メーカーの社員はゴルフ用の車を与えられているのだろうか。営業用にクラウンに乗っているのだろうか。

 お寺の住職はブラシを持って客をもてなすのだろうか、


 何から何まで世間とかけ離れた、黒田の感覚に、小倉はただ、ため息をつくしかなかった。

 大企業病と言う言い方がある。組織が大きくなると風通しが悪くなり、意思決定までのプロセスが複雑になり、事態の対処が出来なくなることを言うが、黒田の場合、もはや、宮廷病と呼びたくなる状況であった。


 これで山発産業が回復する訳がない。


 清雄はカネボウから、山発株の買い戻しに動いた。

 その額は定かではないが推察できる資料がある。

 バブル期に佐伯侑三の絵が、約200億円で取引されたことがあった。


 そのころは、倍々ゲームと言われるほど、美術品が高騰する時代であった。

 この絵が山本コレクションの一枚であったことは、作品目録から見ても明らかで、清雄が売りに出したと思われる。この絵を最初に清雄から買ったのは西武グループの堤義明氏であった。


 これも噂ではあるが堤氏は売った後「2倍まではいかなかったな」と親しい人に話したという。

 その絵はさらに転売され200臆円になった。その時堤氏は「やっぱり2倍は無理なんだな」と言った。

 逆算すれば、清雄が堤氏に売った額は最低でも50臆円以上と推察できる。


 これが金部カネボウからの、株式買い戻しに使われたかは、不明である。

 ただ言えるは、清雄が売った美術品がこの1点だけであったのは、財産目録から見ても明らかで、あとは全部、大阪市に寄贈された。


 清雄の決断によって、貴重な美術品は分散を免れ、公共の財産となった。

 もし、会社立て直しのため、清雄が美術品を手放していたら、そのほとんどは外国などに散らばり、我々が見ることは不可能だったに違いない。


 ここで大胆な予測をしてみたいと思う。

 もし仮にこれら美術品をカネボウが所有していたら、結果はどうなったであろうか。

 もしあの時、株式の買い戻しをせず、山発産業がカネボウの一部になっていたら、後の山発産業の経営者次第では、美術品はカネボウの物になっていた可能性は否定できない。因みに山本清雄は生涯独身で、財産を相続する者はいなかった。


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