三十、今はまだ

「どうしてあんなことをしたんだい。兵の動きがなかったとしても、あんな場面で突然『魔女です』なんて言ったら混乱を招くだけだと思わなかったのかい」

 リッドが問いかけても、ユイルはムスッと膨れたままだった。

 街はずれのあばら屋にたどり着いてからずっとそうだ。数年人の手が入らなかったというだけで廃墟のようになっているこの建物は、『正体不明の調合屋』の仮初めの住処を探していたときに見つけた場所だ。状態があまり良くなかったことに加えて少女が一人住む場所にしてはあまりに不自然な場所だったため候補から外していたが、こういうときに身を寄せるには都合がいい建物だった。

 周辺に人が住む家はなく、滅多に人も通らない。ここならば追っ手もすぐにはやってこないだろう。

 そのまま森に逃げ込んでも良かったが、別働隊に待ち伏せされている可能性を考えこちらを選んだ。

「まあ、相手が相手だから何が正解なのかまったくわからないんだけどね」

 リッドは友の顔を思い浮かべて言った。

 軽く埃を払ったベンチに腰掛けていたユイルは、不機嫌な顔のままリッドを見上げる。

「これからはずっとその姿なの?」

 人の問いには答えもせずにリッドの姿を気にかけた。

「獣人には会ったことがない?」

 ため息のあと言うとユイルは「ないわ」と短く一言答えた。

「この姿が本来の姿ではあるのだけれど、この姿では都合が悪いことも多いからヒトの姿でいることの方が多いかな」

「それじゃあどうして今はヒトの姿に戻らないの?」

 言いながらユイルがそっと手をのばした。

「長い間呪いがかかっていたせいなのか、どうもいろいろ具合が良くなくてね。戻ろうとしているんだけどうまくできないんだ」

 その手の意味がわからなくて、リッドは気づかないフリをして話を続ける。

 ユイルは「そうなのね」と返事をしながらいっそう表情を険しくさせた。どうやらリッドの態度が不満だったようだ。

「ええと、何だろう?」

 両腕はのびたまま。手のひらは上に向けられているというか内側に向けているというか。何かを受け止める形で待っている。

 心なしか、期待するように瞳の奥が輝いて見えた。

 待ちきれずユイルの指がわしわしと動く。

 それを見てリッドはようやく理解した。

「こういうこと?」

 呆れたように言って腰をかがめた。

 待ち構えていたユイルの手と手の間にリッドの顔がすぽっと収まる。ユイルはリッドの顔まわりのふさふさとした毛を撫でながら恍惚とした表情を見せた。

 ふさふさと、もふもふと。

 あまりに幸せそうに触っているものだからなかなか言い出せなかったのだが、さすがにいたたまれなくなって、リッドはユイルの手を掴んで止めた。

「あのね、見た目はこんなだけど中身は僕だからね。そんなに撫でまわされるといろいろと支障を来すというか……」

 誤魔化すようにあははと笑うと、ユイルはようやく気がついたようで慌てて手を離した。

 フイとそっぽを向く。

 今度の眉間の皺は不機嫌というよりは照れ隠しのように見えた。

 なんとなく、ユイルらしい表情だなと思う。魔女の森のあの家で薬を作りながら、何気ない話をしながら見せるユイルの顔だなと思うのだが、その頬には兵につけられた傷がしっかりとあって、それが今までの日常が戻らないことを示しているようで胸が詰まった。

 リッドはユイルの頬の傷に触れようと手をのばしていた。しかし触れる間際でやめた。この体ではさらに傷を増やしてしまいそうだった。

 ユイルはその動きを目で追っていた。

 リッドが手を引っ込めたのを見届けて、そっと目を伏せる。長くはっきりとした睫毛が小さく震えているように見えた。

「どうして私の手伝いを引き受けてくれたの?」

 ユイルは唐突にそう言った。

「どうしてって、あれは確か君がそうしないと森から出さないぞと脅かしたからだったような……」

「そういうことじゃないわ」

 おどけたリッドに、ユイルは険しい顔を見せる。

「ココンによる呪術式、あれは始まりの魔女が書き記した呪いの本よ。その多くは魔女にしか使えない術だった。あなたにかけられた呪いも、その一つだったわ」

「それなのにどうして魔女である君を助けたかって?」

「『恨んでいる、復讐してやると言うのが自然じゃないか』」

 ユイルは騒動の最中にリッドが投げかけた言葉をそのまま真似た。

 芝居がかった問答を思い出すと恥ずかしくなる。リッドは「まいったな」と笑ってから、何から話せばいいかと天井を仰いだ。まずは自分の故郷について話さなければいけないかと思うと自然とため息がこぼれる。

 ユイルは座り直し真っ直ぐにリッドを見つめていた。どんな話でも聞いてやると伝えてくれているようだった。

「あの兵隊長が言っていた彼方の大陸というのは僕の故郷のことだ。僕の生まれた国は五年くらい前に魔女の侵攻を受けた。今も獣人の王が統治しているということになっているけれど、すっかり魔女の傀儡となってしまっていてね。僕がいたときにはもう国の風景も空気も何もかもが、獣人の国だったときとは大きく違っていたんだ」

 国の変化を受けて国民はいくつかに別れた。

 魔女を受け入れた者。国を取り戻そうと蜂起する者。そして争いに巻き込まれたくないと早々に国を脱出する者。

「あなたは」

「僕は、逃げた者だね。大人たちに逃げた方がいいと言われたから」

 だけど最後に決めたのは自分自身だと、あの日の景色を思い浮かべながら言った。

 逃げる途中、街を見渡せる高台に立ったとき、一緒にいた大人たちは涙を流し悔しさを滲ませた。祖国を捨てることに、絶望と後ろめたさを感じているようだった。それを振り切るようにして国を出る決心をしていたのだが、同じ所に立っていてもリッドには彼らのような感情は起こらなかった。

 その場ではまだ引き返すことができた。

 だけどリッドにはそうしたいと思えなかった。すっかり変ってしまった街を眺めたところで、胸をかき立てるような何かは感じられなかった。どうしてもここに残りたいという気持ちは、リッドの中にはなかった。

「それで逃げ出したわけだけれど、そのときに魔女の呪いをかけられた。きっと蜂起した者たちに合流するのを防ぐためだったんだろう」

 けれどしばらく過ごしてみたらそれで困るということは案外無いもので、たまに不便に思うことはあったが、旅はできるし頼まれ仕事だって問題無くできた。

 故郷を出ることも獣人の姿に戻れないことも、リッドにとっては何も苦にはならなかった。

「だから、僕らの国を変え僕に呪いをかけたあの魔女たちを恨んではいないし、すべての魔女を『魔女だから』という理由で恨んだことなんてないよ。まあ、それなりに苦い思い出の元にあるものだから、積極的に関わりたいとは思わないけれど」

 そういうものだろ、と尋ねると、ユイルはしばし考えたのちぎこちなく頷いた。一部には同意するが、全てに同意するのは難しいということなのだろう。

 ユイルは自分たちを追いやったファブールの人々とその子孫である現在の住民たちを恨んではいない。そこまではリッドと似たようなものだ。しかし彼女は、できることならそのファブールの人々と関わりを持ちたいと――共に生きたいと思っている。

 それはもちろん、相手が、元々生活を共にしていた人か、余所から突然押しかけたものかという違いがあるわけだから、ユイルとリッドとでは境遇が異なるということは彼女も理解しているだろう。

 それでも納得いかないことがあるようで。

「どうして私に手を貸してくれたの」

 初めの質問に戻ったようでいて、今度のは少し意味合いが違う『どうして』だった。魔女を恨んでいないのかということではなく、積極的に関わろうとは思わないものを何故助けたかということだ。

「それは、だから君が森から出さないと――」

「そういうことではないでしょ」

 二度目はいっそう険しい顔つきで突き返される。

「きっかけは確かにそうだったんだから嘘や誤魔化しではないよ」

 リッドは苦笑交じりに答えた。

「きっかけはそうだったし、乗りかかった船だから、更新審査が終わるまでと思ったのも嘘じゃない。でも、それなら、更新審査がうまく行くように手伝うだけだった。……どうして君を街に連れていったのかと、そういうことを言っているんだろ」

 リッドが付け足した台詞にユイルはこくりと頷いた。

 積極的に関わりたくないものに手を貸したその理由の他に彼女が知りたいのは、故郷に執着できなかった者がどうしてユイルのようなものの背中を押すようなことをしたのかということだ。

「どうして君を手伝っていたかという問いに答えるなら、僕自身のためというのが正しいのだと思う」

「あなた自身のため?」

 ユイルはきょとんと目を丸くする。

「そう。初めは間違いなく成り行きでしかなかったんだけれど、次第にね。次第に僕のためになっていった」

 リッドは言って頭を掻いた。

「つまり僕は、君を手伝っていくうちに、君のことを知っていくうちに、君を手伝っていればねっとり派の人たちの気持ちを理解できるかもしれないと、そう思うようになったんだ」

 ふたつの疑問にいっぺんに答えるのならこれが適当だろうと思った。

 しかし当然のごとくユイルの反応は芳しくない。

「ちょっと待って。まったくわからないわ」

 思った通りの言葉と表情が返ってくる。

 それはそうだろう。

 リッドはサージュに言われたことを掻い摘まんで説明した。ホクホクとねっとりと。二つは相容れなくて、だけど一緒に食事をしたいと思っていて。そのためにはどうしたらいいかと、そんなことを淡々と並べた。話が進むにつれユイルの眉間の皺が深くなっていったが理解はできているようだ。

「ようするに」と言って情報を咀嚼すると、リッドと視線を合わせてひとつ瞬きをした。長い睫毛が上下して、鋭い眼差しがリッドを射貫く。

「あなたは、故郷に執着する人の気持ちを理解したかったということなのよね」

「そういうことみたいだね」

 リッドは素直に頷いた。

「そしてそれは、その人たちと『一緒に食事する』ため」

「サージュが言うには、そういうことらしい」

 言いながら、リッドはシャルムの路地裏の風景を思い出していた。ユイルと共に街を巡ったあの日。すっかり変ってしまった景色の中に立ちぐるりと辺りを見回すユイルは、戸惑ってはいたけれど、故郷を感じ懐かしんでいた。そこにはいくらかの歓びも内在しているように見えた。そして、その景色の一員でありたいと望む強い意思が潜んでいるようだった。

 それは、場所も経緯も違うというのに、あの日の高台の景色に似ていて――大人たちの姿に似ていて、リッドを心細くさせた。

 故郷を前にした自分の姿を思い描いてみても、ユイルや大人たちやラパスの姿とぴたりと重なったりはしない。同じ高台に立っていたって、大人たちと自分とでは一緒ではなかった。

「共にありたいと願っていたって、僕と彼らでは同じではないんだ。どうして『故郷』に執着するのか、それがわかれば何とかなると思ったんだけど……君がファブールにこだわる理由はまったく理解できなかったし『それ、理由になってないよね? もしかして何も考えていないの?』くらい思ったし、」

「ひどい言われようね」

 耐えきれずユイルが言葉を挟む。

「だけど、そんな君は嫌いじゃない。そう思う理由は僕には説明できない。君や僕の仲間たちが故郷を思う気持ちもそういうものなのだとしたら、いったいどうしたらいいんだろうね。何か他の方法を考えなくちゃいけないのかな」

 あるかなあ、と続けて言うと自然と笑みがこぼれた。自分でもわかるほどに、苦々しい笑みだった。

 だがその苦みを、ユイルはさらっと取り除く。

「重ならなくても、隣りにいてくれるのなら、私は嬉しいわ」

 ユイルが真っ直ぐな視線をぶつけてくる。すっと伸びた両の手のひらがリッドの頬に添えられた。先程のようにわしわしと無遠慮に掻き回すのではなく、恐る恐る触れるように、そっとやわらかくユイルの手のひらが頬の毛に当たる。

「好みが違ったって『一緒に食事したい』って言われたら嬉しいものでしょ。だからあなたはまず、そう言えばよかったのよ。ねっとりを好きになれないということではなくて、一緒に食事したいんだって伝えればよかったのよ。サージュさんが言う、その前にやらなければいけないことって、そういうことなんじゃない?」

 ユイルは言ってから自らの言葉に深く頷いた。宝物を見つけた子どものような顔をしてリッドに同意を求める。

 ユイルの言うことは理解できる。

 しかし、

「そんな簡単なことでいいのかなあ」

「考えていないで、言ってみればいいのよ。あなたは私にそうしろって言ったじゃない」

「そういえば言ったね」

 リッドは宙を仰いでそのときのことを思い出す。昼間のシャルムの街に行くことを渋っていたユイルに確かにそんなことを言った。

「そのあとになんて言ったか覚えてる?」

「『何かあったなら、そのときは一緒に考えよう』かな。あとは」

「『何とかなるよ。僕がついている』」

 ユイルの手がリッドから離れた。

 真っ直ぐ見つめる視線は変らず。しかし神妙な面持ちでいたはずが、あっという間に不敵な笑みへと入れ替わった。

 リッドから離れた両手を腰に当て、そして胸を張る。

「何とかなるわ、私がついているもの」

 ユイルは言った。

 そのふてぶてしいまでの態度にリッドは思わず笑ってしまった。笑ったついでなのか、胸が少し軽くなったような気がした。

「考えてないで言ってみる、か」

 案外悪くないように思えて「そうだね」と言いかけた。しかしリッドは言いかけてやめた。

「まさか、それであんなことをしたのか?」

 すぐには反応できなかったユイル。まずいと思ったのか、いたずらをたしなめられた子どもの顔つきへと変っていく。

「どうしてあんなことをしたんだという質問に君はまだ答えていないんだよ」

 ユイルの不機嫌の理由を掘り返してみせる。

 さすがに今回のことに関しては『考えていないでやってみればいいんだ』とはいかない。もっとやり方があっただろうと言うと、ユイルはバツが悪そうに返した。

「仕方ないじゃない。だって次にみんなの前に立つときに私は魔女だと言えたら素敵だろうなって、そう思ってしまったんだもの」

「それでやったの?」

 ユイルは渋々頷く。

「そんな理由で?」

「『そんな』って。立派な理由でしょ」

「あまりにも馬鹿げていて、思わず笑ってしまうくらいだよ」

 ほら、と自分の口もとを指差してみせるがユイルは不満そうに「その顔じゃわからないわ」と言うだけだった。

「いいかい、ユイル。本気で願いを叶えるつもりなら、もっと慎重にならなければいけなかったんだ。森を育てるように膨大な時間をかけてやらなければいけなかった。君はさ、せっかく蒔いた種を――もしかしたら芽が出かけていたかもしれない種を、自ら踏みにじってしまったんだよ。今回したことは、そういうことだ」

 言うとユイルの顔は紅潮した。

 彼女自身も理解しているのだろう。図星を指されたようで悔しさを滲ませている。

 しかし反省はしていても後悔はしていないと言わんばかりに鋭い視線をぶつけてきた。

 その態度にリッドもつい苛立ってしまう。

「今はまだ、そのときではなかったんだ。わかっているだろ? 『ファブールの魔女』はふたたびこの国の歴史に姿を現したわけだけど、今回はすっかり悪者になってしまったんだよ。そうなってしまっては、もちろん調合屋として仕事をすることはできないし森に留まるのも難しいだろう。……しばらくこの国を離れるしかないと僕は思う」

 残酷な現実を、淡々としかし冷ややかにならないように告げた。

「しばらくって、どれくらい」

「これまでと同じくらいか、もしくはそれ以上かな」

「二百年? そんなに離れてしまったら私は戻れるの?」

 ユイルの問いは問いかける調子ではなかった。

 諭すようにそう言って、自らの言葉に首を横に振った。

「戻れたとして、そこには誰がいるの?」

 言って手もとに視線を落とす。小さな花の冠の花びらの一枚を指の腹でそっと撫でる。

 美しい顔にきっと悲しさを滲ませているのだろうと思った。

 そんな顔で弱音を吐いて、どうにもならない悔しさをリッドにぶつけてくるのだと思っていた。

 しかしそうはならなかった。

 ユイルはぐいと顔を上げるなり力強い眼差しをリッドに向けた。

「国を離れるとかどうとかそういうことを決めるのは、もっと足掻いてからよ。だって私はまだみんなと何も話せていないもの。諦めるのにはまだ早いでしょ?」

 そうは思わないかと答えを求める声に、リッドはけっして同意しない。タイミングを誤れば逃げることすら難しくなることもあるのだ。長く旅をしているうちに何度もそういう状況に遭遇した。

「見切りをつけるべきだと僕は思う」

 リッドが言うとユイルはふうっと息をこぼした。その吐息はそのまま笑みへと変わる。

「少しくらい優しい言葉をかけてくれてもいいのに、リッドってば、どうしたってはっきり言うのね。……でも、あなたのそういうところ、嫌いじゃないわ。誠意を感じられるもの」

 ありがとうとユイルは言った。

 その上で「それでもやっぱり私は足掻くわ」 と続けた。それはけっして譲らなかった。

「もう一度街に戻るということかい」

「ええ、そうよ」

「今度こそ捕まるかもしれない。ひどければ、その場で命を落とすことになるかもしれない。兵だけじゃなく、今度は街の人たちからも石を投げられるということだってあり得るんだ」

「そうだとしても、私は行くわ」

「君は本当に馬鹿だな」

 今度はリッドが大きなため息をこぼした。

 ユイルのように笑みになりはしない、ため息らしいため息だ。

 もう一度、深く重たく吐いた息は「ああ」と嘆きの声に変わった。

「まいったな。そんな風に言う君も嫌いじゃないし、どうなるか見届けたいと思ってしまう。本当に馬鹿なのは僕の方かもしれない」

 三度目のため息はグルルっと喉が鳴り、獣の声を響かせる。何を言おうとしているのか察知したユイルは、リッドの言葉よりも早くぱあっと期待を咲かせた。

「そうだね。君との約束もあることだし、最後まで――君の気が済むまで付き合うよ。まあ僕が役に立てるかどうかはわからないけれどね」

「役に立てるかどうかなんて、そんなこと言わないで。あなたが協力してくれるというだけでとても心強いんだから」

 ユイルは何の躊躇もせずリッドの手をしっかり掴んだ。

「お世辞だとしてもそれは嬉しいね」

 リッドは言って荷物を担いだ。ショルダーベルトの調整はしたものの、この体ではどうしても窮屈だった。いっそユイルに背負わせて、自分はそのユイルを背に乗せて四つ脚で駆けた方が早いだろうかなどと提案してみたが、ユイルが全力で拒絶する。

「鞍がついていない動物には乗れないとか、そんな贅沢を言うつもりかい?」

「そういうことじゃないわ。そんな見た目をしていたって、あなたはリッドだからよ」

「それが何か?」

 そう尋ねると、ユイルは耳の先まで赤くしてぷいと顔を背けた。

「あなたに跨がるなんて――」

「ああ、そういうことか」

 何でもないことのように言うとユイルは驚いた顔を見せる。

「あなたは、平気なの?」

「人が人に跨がるなんてよくあることだと思うけど」

「……いったいどういう環境で生きてきたのよ?」

「いや、そういう人を少なからず見かけたことがあるというだけで――」

 リッドは言いかけて、くんと鼻を動かした。

 どうしたの、と発したユイルの口もとに手を当てる。しーっと人差し指を立てるような仕草をして、建物の外に意識を向けた。

「誰か来る」

 動物の匂いがするとリッドは小声で言った。おそらく馬か。向こうもリッドの気配を察知したようで、怯えたような高いいななきがかすかに聞こえた。距離はまだある。

 数は三頭ないし四頭。いずれも人を乗せているようだが、追っ手にしては少ない。

「どうするの?」

 ユイルが声をひそめた。

「まだ魔法は使える? 今ここを抜け出しても外でかち合う可能性が高いから、待ち構える方がいいと思う。僕らを目的としているかもわからないし」

 どれに対しての返答なのか、ユイルは一度だけこくりと頷いた。

 まあいいやと、リッドは扉の脇に身を置いた。その背後にユイルが寄りそう。

 二人はときどき顔を見合わせ、耳を壁の外に向けながらじっと待った。

 音がやって来る。

 ユイルの耳にも届いたようで、緊張のせいかわずかに体が動いた。

 通り過ぎてくれればいいと願ったが、そううまくはいかなかった。

 あばら屋のすぐそばで馬は止まった。すぐに人が降り立つ物音がした。三人だ。一人は冷静にゆっくりと。他の二人は慌ただしく、しかし統率のとれた動きで扉の両脇に控えたようだ。

 さほど厚くない木の扉を挟んで互いをうかがう。

 呼吸すらも憚られる状況で、外の何者かが大きな音を立てた。

 ドンドンドンと、強く扉を叩く音。

 三つ目の音のあとやや間をとったのは、こちらの出方をうかがったのか。返事がないと見るやは落ち着き払った声でリッドの名を呼んだ。

「リッド、いるんだろ? 開けてくれないか」

 よく知った声。しかしリッドは警戒を解かず、細く開いた扉の隙間から彼の顔を確認した。


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