二十八、跳ぶ!
リッドが生まれた国では、賢いということよりも体が大きいだとか腕力が強いだとかそういうことが評価された。
兄たちとは違って体がなかなか大きくならなかったリッドは、それだけでぞんざいな扱いを受けたものだ。
自分の体の成長の鈍さを呪ったこともある。
しかし今は小さくて良かったと心から思っていた。きっと兄たちの体躯ではこうはできまいと、リッドは野次馬の陰に身を潜め声を張り上げた。
「もう諦めたらどうだい?」
声の出処を探して誰もが辺りを見回した。
後ろの方で声がしたぞと、周辺の者が振り返ったときにはもうリッドはそこにはいなかった。次の人陰へと移り何食わぬ顔で群衆に紛れる。
諦めたらとは、どちらにかけた言葉か。
名指ししてみせなくても、どちらが諦めるべきなのかは誰の目からも明らかだった。
肩で息をしていたユイルは、ついに片膝をついた。ユイルと兵士との攻防はそれほど長くは続かなかったのだ。
大勢の兵士を相手に怪我をさせないよう加減をしながら魔法を使うということは簡単なことではない。ただでさえそうであるのに、この二百年のうちに彼女にはどれくらい魔法を使う機会があっただろうか。少なくとも敵を想定し風や水を瞬時に、自在に扱うという類いのものはそれほど使っていないはずだ。
不慣れで高度な魔法をこの状況で発動させ続ければ、訓練された兵士たちより先に体力が尽きてしまうのは当然の結果だった。
兵隊長を中心に、数人の兵士が前に出てユイルを取り囲む。何本もの刀剣の切っ先がユイルに向けられる。兵たちは、あと一歩踏み込めばその刃がユイルの身を突き破るという距離に留まり身構えている。
すぐさま止めを刺すというような命令は出ていないようだ。
兵隊長はユイルよりも声の主を気にしてそちらに目を遣った。
しかしすぐにその視線は他の場所へと向けられることになる。
「誇り高きファブールの魔女よ、君はこんな国のために、こんな国の民のために何かをしたいと言うのかい?」
リッドが次の場所で声を発した。
兵隊長がすぐさま方向を突き止めて複数の兵に指示を出す。しかし彼らが駆けつけたときには、そこには戸惑う民衆の姿しかない。何人かがあっちにいったと指を差したが、その方向はてんでばらばらで、兵たちは民の体を押し退けてその場に留まり次の指示を待つ。
「二百年前にはひどい言いがかりで仲間と住む場所を奪われ、今は今で真実を語っても信じてもらえず武器を向けられている。だというのに君は、そんな奴らとまた手を取り合いたいなどと寝ぼけたことを言うのか」
兵が向かってくる。
リッドは身を低くして人々の間を駆ける。途中で、酔いが回った男に軽くいたずらして余計な騒動を作り出すと、それを隠れ蓑にして兵の目から逃れた。
「恨んでいる、復讐してやると言うのが自然じゃないか! こんな国は捨てて、もっと素晴らしい国で生きてやろうとは思わないのか!」
言ってリッドはまた動いた。
物騒な単語に、周囲に悪意が走る。
それを感じてユイルがすかさず声を上げた。
「そんなこと考えるわけないでしょ」
「どうして!」
リッドはまた動く。
「だって……私はここで生まれて、ここで育ったから」
しぼり出すように、しかし届いてくれと張り上げた声は誰に向けたものだったか。
馬鹿げたことだとリッドは嘲笑った。
しかしユイルは毅然とした態度で言葉を投げ返した。
「何が悪いの! ここは私が生まれ育った国よ。それだけの理由でここに居続けたいと願ってはいけないの? ひどい人もいたけれど、優しい人たちもたくさんいた。思い出もたくさんある。それだけの理由でこれからもここにいたいと望むのは、そんなに愚かなことだと言うの! 私が生まれ育った国を、そこに生きる人たちを信じてみたいと思うのは、そんなに愚かなことなの!」
リッドは一度足を止めた。
立ち止まって天を仰ぎ、ははっと笑った。
「なんだ、サージュの言った通りじゃないか」
あまりに単純で、理解しがたい馬鹿げた理由だった。だけど笑いが漏れたのは、嘲るためではけっしてない。
「困ったことに、そんな風に言う君は嫌いじゃないんだ。だから――」
ひとり呟いて、前を見据えた。
喧噪の中を再度走り出す。
リッドの通り道にいた人々が悲鳴と怒号を響かせる。その声の動きは人垣の外へとまっすぐ走った。それを見つけて兵があとを追う。
リッドは人垣を駆け抜けた。
急ごしらえの露店の並び。そこでリッドは立ち止まり振り返って兵たちを待ち構えた。
「ユイル、それが君の理由か?」
「これじゃあ……理由にならない?」
「僕にはやっぱり理解できないよ」
兵らが人垣をかき分け現れる。
リッドは彼らと向き合ったまま、一歩、二歩、後退った。
「だけど、」
兵の一人としっかり目があった。
彼は一瞬怯んだが、負けじと視線をぶつけてくる。
リッドの次の一言は、彼や民衆に向けて発せられた。
「僕には理解できないけれど、この国に暮らしこの国を愛する人ならば、君の言うことを理解できるんじゃないだろうか。少なからず心に何かを感じたんじゃないだろうか」
視線をぶつけ合っていた若い兵士の構えに隙が生まれた。他の兵も似たように武器を構える角度が甘くなっている。
「君たちも『ねっとり派』かい?」
リッドはニヤリと笑ってから、ある一箇所を目指し不意打ちのように駆け出した。一拍出遅れて、兵士が悔しそうに地を蹴った。
お目当ての露店を見つけてリッドは叫んだ。
「コレール! 頼みがある!」
どこからでも見つけられる大きな体。
「な、なんだよ」
突然のことに慌てふためく。
「ユイルの方を真っ直ぐ向いて、それで堪えて!」
「堪える? 何をだ?」
「いいから! 早く!」
リッドは言いながらコレールの後方へ回り込む。そこから彼を信じて一気に加速した。
「少しだけお辞儀!」
「こうか?」
戸惑いながらも言われたとおりにするコレール。
「上出来! それじゃあ背中借りる――よっ!」
『る』で踏み切って、『よ』でコレールの背中に乗った。一瞬わずかに足もとが沈んだが、さすがは筋肉自慢のコレールだ。ぐっと力を入れた背筋は堪えるだけでは飽き足らず、その弾力でリッドの足の裏を押し返した。
その力を借りて、リッドは大きく宙に駆け出した。兵らが槍を突き上げたが、それが届く前に街路灯を足場にしてさらに高く跳ぶ。
上空から、ユイルの顔がはっきり見えた。
まんまるの目をこちらに向けていた。
その顔に向かってリッドは呼びかける。
「ココンによる呪術式、百四十五ページおよび百四十七ページおよび二百十二ページ!」
会場にいた人々にはリッドが何を告げたのかまったく理解できなかっただろう。理解するどころか、聞き取れもしなかったはずだ。
何だ何だと声が飛び交う。
しかしユイルだけは違った。
驚くだけだったまんまるの目に光が差す。
何かに気がついたのだ。
皆がリッドに注目しているその
子守歌のようなゆるやかな抑揚で発せられる、ヒトのものとは異なる言葉。始め細かった声が次第に力強くなり、最後には真っ直ぐ射貫くような声となってリッドに届く。
ユイルを囲んでいた兵士たちが彼女の体を掴んでやめさせようとしたが遅かった。
「受け取った!」
重力に従い下降を始めたリッドの体。
ぶかぶかの外套が落下傘の役割をしていくらかスピードを緩めてくれたが、落下は止められない。
間に合えと、リッドは両腕を前方に突き出した。その先にリッドの肩幅ほどの径の円が現れ魔女の使う文字が浮き上がる。
「魔法陣か!」
兵隊長がユイルの顔を睨みつける。
ユイルはちょうど最後の仕上げとばかりに頬の傷を右手の親指でぐいと拭ったところだった。
その指で宙に己の名を書き記す。
同じ動きで、リッドの目の前の魔法陣にも仕上げの一筆が記された。
眩い光。
その一瞬の威力は太陽の光よりも強く、誰もが目を覆った。
リッド自身も光に耐えきれず目を閉じた。重力と風を感じながら落ちていく。しかしそれを感じるリッドの肌の感覚はいつもとはまったく違っていた。
太い四肢には厚い筋肉が付き、その表面をフサフサと白い体毛が覆う。
指先に大きく鋭い爪があるのを見つけてリッドはにいっと笑った。
笑ったつもりだったのだが。
口もとの違和感に喜びを感じながら、リッドは着地した。ユイルがとらえられているその場所だ。寸前に兵士も民衆も血相を変えて散り散りになるのが見えた。
あれほどの高さから降りたのに、四肢には支障がない。やはりこの体はいいなとリッドは口もとを緩ませる。
しかし目の前にいた逃げ遅れの兵士の顔を見て咄嗟に口を閉じた。
「こんな立派な牙だけど、ヒトを食べたりはしないから安心して」
友好的な表情を作ったつもりだったがどれくらい伝わっただろうか。兵士はすっかり腰を抜かしてしまい「ひいっ」と悲鳴を上げた。
「まいったな」
いつものように頭を掻こうとしたがうまくいかない。
「リッド、なの?」
へたりと座り込んでいたユイルがリッドを見上げた。
「そうさ。君を助けに来たんだよ」
「何、その格好」
驚いた顔。しかし兵士とは違って恐怖の色は見えない。
「正体を隠していたのは君だけじゃなかったということかな。まあ、僕の場合は呪いのせいだから自分の意思ではないのだけれど。」
「呪い?」
「さっき君が解いてくれただろ?」
「あれ、あの日あなたに勧められて読んだ呪いの本に書いてあった術でしょう?」
更新審査で作る薬を探す流れでリッドが棚から選んだ本だ。審査の対策そっちのけであやうく読み耽ってしまいそうになった。
「私が続きを読んでいると信じていたの?」
「君のことだから」
「読んでいなかったら、どうするつもりだったの?」
「それは、まあ」
「それにあの呪いは魔女の――」
「詳しい話はあとで! 何にしても君のおかげで僕はもとの姿に戻れたというわけさ。どう? こっちの姿も悪くないだろ」
リッドは本来の自分の姿を最後に目にしたときのことを思い浮かべた。
五年の歳月が経っている。しかしこの姿はそれほど変わっていないだろう。白い毛皮に黒い縞模様が走り、強靱な爪と牙を持つ。だというのにヒトのように立ち、前脚を手のように器用に使う。
「これがもとの姿って、つまりあなたは、獣……人?」
ユイルが言った。
リッドは深く頷いた。いつもの体よりも一回りも二回りも大きくなった体はまだ感覚が戻らなくて、ひとつひとつの動作が自分でもぎこちなく感じた。
「僕は西の大陸にある獣人の国で生まれた、
言いながらリッドは後方を振り返った。
剣を振りかぶった兵士と目が合う。奇襲を狙ったようだ。
「獣人を相手にするのなら匂いと音には気をつけた方がいいよ」
言うと兵は一瞬怯んだが、構わず武器を振り下ろした。
その攻撃を大きな爪で払い落とす。
すかさず兵士が反撃に出ようとしたが、リッドは威嚇するように牙を剥き出しにして雄叫びを上げた。
ビリビリと辺り一帯の空気が震え上がる。
「ああ、久しぶりの体は加減がわからないな。ということだから、君たちも迂闊に攻撃してこない方がいいよ。やり過ぎてしまうかもしれないからね」
丸みのある大きな耳をぴくんと動かし、リッドは照れくさそうに笑った。
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