二十六、もうひとつだけ
これでもかと五感に緊張感を持たせる。
そんな状態はそれほど長くは続けられないもので、自分の心身にいつ限界が来るだろうかとリッドは気が気ではなかった。一刻も早く無事に審査が終わってくれればと願うのは、今となってはユイルのためだけではない。
ユイルが作る審査用の薬は手間と時間がかかるものだった。審査員たちはもちろん承知の上でこの場所に来ていたが、観衆は違う。
昼過ぎまでは優にかかると知ると、大半は「またその頃に」と立ち去った。
それでもそれなりの人数が残りユイルの作業を見届ける。
商魂たくましい店主たちは大慌てで散らばったかと思うとたちまちのうちに会場に舞い戻り、飲み物や軽食などを売り始めた。
ユイルが煮込む薬の匂いと広場のあちこちから立ちのぼる美味しい匂いとが混ざって、なんとも言えない匂いを生み出しているのだが、他の誰も気にならないようで、リッドはそのことも含めて眉をしかめた。
匂いと、続く緊張で胃の辺りがムカムカした。
会場に漂うおかしな気配に意識を向けながら、同時にユイルの作業を見届けるというのはなかなかに神経がすり減るものだ。
目を離した合間に、いつの間にかラパスはいなくなっていた。
しかし兵たちは相変わらず広場を警戒している。その目は、たまに観衆の方に向いたりもするが、明らかにユイルを注視しているようだった。
「この会場でそんな顔してるのはあんたくらいのもんだよ」
昼近くなって、サージュが広場にやってきた。宿の一階にある食堂はちょうど忙しくなる頃合いのはずだが。
「みんなこっちに取られちまって、どこの店も閑古鳥が鳴いてるってさ」
苦笑いで言ってリッドの隣りに並んだ。
「もっと肩の力抜きなよ。あの子のことだもの、こんな審査なんてちゃちゃっと合格してみせるだろ」
「まあ、そうなんだけれど」
リッドは歯切れ悪くそう返す。
「何か心配ごとでも?」
「いやあ、ちょっとね」
自然と兵士の方に視線を向けてしまった。勘のいいサージュはリッドが何を見たのかを理解したようだ。
「なんだか、ずいぶんと物騒だね」
ただ事ではないと思ったのか、リッドに身を寄せ小声で問いかける。
「王様が街に来るときだって、こんなにはしないよ」
「シャルムの住民からしても、この景色は異常だと?」
「異常とは言わないが、……そうだな、何かあったのかとは疑りたくなるな」
「でも誰も気にしていないみたいだ」
「そりゃあ、お祭り気分が強くてそんなこと気にしちゃいられないんだろ」
気持ちはわかるとサージュは言った。サージュ自身もリッドに会うまで気にも留めなかったという。
「でも気づいたからって『何かおかしいな』くらいのものだろ。あんたみたいに深刻な顔で考え込んだりしないさ」
「そんな顔をしていた?」
「ああ。それはもう、ひどい顔だ。そんな顔をしていたらあの子が不安になるだろ」
サージュに言われてリッドはユイルの様子をうかがった。幸い、調合に集中しているようでこちらに視線を向けるようなことはなかった。言われてみれば、ここに至るまでユイルと目があったのは二度ほど。審査が始まってからすぐと、集中し過ぎるあまり鼻歌を歌いかけたときだ。
「ちゃんと見守っているとか、少しくらい気にしてくれたっていいのにね」
「いるって信じてるんだろ」
サージュがリッドの体を小突いた。
「そうかな」
リッドはユイルの姿を見つめた。
大きな釜を煽る火は轟々と猛く、その様を見れば薬づくりが佳境に差し掛かったのだとわかる。
ユイルが教えてくれた気の遠くなるような工程の中では、あれほどに火力を上げることは終盤のタイミングにしかない。このあと鍋の中身が沸き立てば作業はほぼ終わりだ。
ほっとしたはずなのに、ますます緊張感が増した。
何か動きがあるとしたら、薬が完成したときだろうか。それともその直前に阻止するようにだろうか。
リッドが考えを巡らせていると、審査員の一人が声を上げた。
「ここまでに何も不審なことはないようだ」
他の二人と顔を見合わせ確認し合う。いずれも表情を緩ませてウンと頷いた。
「調合屋ユイル、このあと薬の効き目を見て後日合否を伝える」
それでいいな、と背の高い男が言った。その顔の穏やかさから結果はわかったようなものだった。
さぞ安心した顔をしているのだろうとユイルの方に目を向ける。しかしリッドの予想はまったくはずれていた。
ユイルは険しい顔をしてこちらを見ていた。
しっかりと目が合った。それがどうしようもなく不安に思えて、リッドは人ごみの一歩前に躍り出た。
整然と並んでいた人垣の最前列が崩れたことに人々の視線が集まる。ざわっと空気が波立ったように感じた。そしてそれは最前列だけではとどまらず、それこそ波のように伝播するのだ。
だけどリッドはユイルと視線を合わせたままその場に立ちつくした。
会場を取り囲む兵たちの目的は、人が集まることにより生じる不足の事態に対処するためではなかったようだ。その証拠にリッドの動きにも、人々の困惑にも微動だにしない。
そんな彼らの鎧がカチャリと揃って音を立てたのは、ユイルが一言目を発したときだった。
先に『何か』を起こしたのは、ラパスや兵ではなくユイルだった。
ユイルの口もとが小さく笑んだ。
かと思うと次の瞬間には、目の前のものを圧倒するような眼差しで皆を見据える。会場に集まったものたちに、そして三人の審査員に自分の存在を知らしめるように、視線をぶつける。
初めて会ったあの夜の顔だと思った。
気高い魔女の顔で、ユイルはそこに立っていた。
リッドは逡巡した。声を上げるべきなのか。上げるとするならば、なんと言うべきか。リッドが想像する通りのことを彼女がやろうとしているのなら、止めるべきか、それとも背中を押すべきか。
考えているうちに、彼女は彼女の答えを出していた。
そっとポケットから取り出したのは、小さな花の冠だ。調合の邪魔になるからとしまっていたその冠に手首を通し、きゅっと口を結んだ。
きっと覚悟したのだろう。
「もうひとつ……もうひとつだけ、見ていただきたいものがあります!」
ユイルが声を張り上げた。
その声に潜む必死さが会場に困惑と緊張をもたらす。
広場を取り囲む兵たちが一斉に身じろぎすればなおさら。祭りの気配は薄れ緊迫感が人々を包む。
「他の薬もということか? それならば一つで結構。この薬だけで充分な結果が出るはずだから、どうか安心して欲しい」
合否に不安を感じての発言ととったのだろう。審査員たちは優しい笑みと共にユイルに告げる。
しかしユイルは首を横に振り続けた。
「薬ではありません」
「では何か。申請内容には薬以外の記述は見当たらないが」
「それは――」
ユイルはもう、リッドの方を見なかった。
嫌な予感が現実となる。
ユイルは隠し持っていた二本の採霊管を手にすると堂々と自分の名を名乗った。
「私はユイル。迷いの森に棲む誇り高きファブールの魔女の生き残り」
舞うように両腕を大きく動かして空中に円を描いた。その動きに呼応するように辺り一帯の空気が動く。
風が生まれ、会場内を駆け巡った。
それは何かを奪うような苛烈なものではなく、頬を優しく撫でつけるそよ風のようであった。生命の息吹を促すかのような優しい風のうねりは人々の間をくまなく巡って、やがてユイルの足もとへと届く。
ユイルの足先が地面から離れた。体がゆっくりと宙に浮き上がり、人々を見下ろす高さにとどまる。
それはつまり、人々の側からすれば、広場のどこからもユイルの姿を目にすることができるようになったということで。
今まで場の雰囲気を楽しむだけだった人垣の外の外にいた観衆たちは、手に持っていた肉や何かをぽろりと落とし、突如現れた『魔女』の姿に見入っていた。
皆、何が起きたかわからず様子をうかがっているようだった。
そんな人々の顔を順に見て、それからユイルは高らかに言った。
「薬だけではなく、この魔法も審査対象に加えてはもらえないでしょうか」
困惑は、度が過ぎると静寂へと変わるようだ。
彼女の訴えを聞いたシャルムの者たちは誰一人言葉を発することができなかった。
会場にはただ風の音と、それを潰すように鳴り始めた兵たちの足音が響くだけだった。
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