第26話 ―衣蕗― The unheard voice
衣蕗は自分の喉が壊れるかと思った。喉が壊れるほど叫ぶ。
だがその声は蒼緒には届かない。
骨の折れる音がして、蒼緒から血飛沫が上がるのが見えた。
「蒼緒ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
衣蕗は蒼緒に喰いついたままの〈女王餽〉に乗り上がり、刀を振り上げた。力の限り〈女王餽〉の首を叩く。日本刀が折れた。折れた刃が頬を斬った。爪で切られた胸の痛みもわからない。
それでも折れた刀で何度も〈女王餽〉に斬りつけた。
何度も何度も何度も何度も。
〈女王餽〉の首からは止めどなく血が溢れていた。それでも蒼緒に喰らいついて離さない。
なんでだよ離せよ蒼緒を離せよ。さっき斃れたじゃないか。首を斬られて。それなのになんで。
「蒼緒おぉぉぉぉぉぉぉ!」
渾身の力を込めて、首を叩いた。骨が砕けた。
――グウゥッ!
低く唸ってようやく〈女王餽〉が口を離した。蒼緒の身体が地面に打ちつけられる。そのままぐったりと蒼緒の横にくずおれた。
だが、首の骨は断たれているはずが、死なない。
それどころか変態しようとしていた。あらゆるところから血を噴き出しながら、人間に擬態しようとする。――なんで。
なんでなんでなんで死なないんだ。
『おね……ちゃ……』
〈狼餽〉としての身体が血を流しながら崩れていく。それでいて、人間の腕があらぬところから生え始める。
それは最早、獣でも人でもなかった。
「流歌ぁぁぁぁぁぁぁ! いやぁぁぁぁぁ!」
流唯が駆け寄る。そしてかつて流歌だったものを抱きしめる。――いや、流歌ですらない。〈女王餽〉という獣の残骸だ。化け物だ。それなのに、なんで。
『おね、ちゃ……ごめ、なさい。るか……ちゃんと、るかに、なれない……』
「いいの、もういいの。いいの。……流歌っ、流歌……!」
あああ、という流唯の泣き声が響く。
……流歌? さっきの〈狼餽〉は――〈女王餽〉は流唯ではなく、妹の流歌だったのか。どういう事だ。蒼緒は流唯が〈女王餽〉だと——
いや、どうでもいい。
なんだ、これは。なんなんだよ。
衣蕗の手から、折れた刀の柄が滑り落ちた。
蒼緒に駆け寄る。瞼は開いているが、青磁色の瞳に光はなかった。あんなに綺麗だった瞳はもうどこも見てはいない。肩から首にかけて咬み傷で血だらけだった。
「あ……ぁあ、っ、ぁ、あ、あ、……ぁあっ、」
名を呼びたいのに嗚咽しか出てこない。
そっと頬に触れるが、もう冷たくなっていた。その冷たさに胸が苦しくなる。
「ゃだ……いゃだ……ぁお……っ、あ、ぁお、」
抱き締める。
冷たい。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
なんでこんな。
なんで。
「しいなちゅ、さ、おねがいっ、あ、あおを……たすけて……っ!」
蒼緒を抱き締め、椎衣那に訴えかける。その間も蒼緒は物みたいに動かない。物みたいに動かない。いつもなら衣蕗ちゃん、って笑ってくれるのに。蒼緒の身体は冷たくて物みたいで。物みたいで。
「……ああぉぉ、ぉ、ぉおっ」
「……治療は、意味がないよ。衣蕗」
椎衣那が言う。彼女も肩から腕にかけて血まみれだった。
彼女の言葉はわかる。
でも、意味がないなんて言わないで。
「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あぁあぁぁぁぁぁぁっ、」
さっきまで生きてたのに。了解って言ったのに。
今回の任務だって難しくないはずだったのに。〈狼餽〉二体を退治するだけで、命令はそれだけだったはずなのに。
帰ったら疲れたねって言って兵舎のお風呂でいつもみたいにダラダラするはずだったのに。
でも、最後に交わした言葉が了解なんて、そんなの。
そんなの。
「あっ、あぁ、あっ、あ、ぁ、ぁ、あ、ああああぁぁぁぁぁぁあ、」
*
どれほど泣いたのかわからない。
蒼緒の防刃外套は血まみれで、それがかわいそうだと思った。留金を外した。顔も血で汚れて、拭ってあげたいのに、自分の手も血まみれだった。外套が血で濡れて気持ち悪かった。その感触に嗚咽が込み上げる。
流唯は流歌だった物を抱き締めていた。抱き締めて、泣いている。
「……流歌、……流歌ぁ……っ、」
なんで。
あれは化け物なのに。
妹を喰った、化け物なのに。
なんで。
化け物は――〈女王餽〉は虫の息だった。まともな呼吸が出来ず、ヒューヒュー空気が漏れていた。それでも必死で人間になろうとしているけれど、体のあちこちから血や体液を吐き出すばかりだった。
頭の目の辺り、こぶのような塊が膿と共に浮き上がる。変形を繰り返し、やがて現れたのは流歌の顔だった。だが、半分ほど形作ったところで、大量に膿を噴き出し変形が止まる。獣の口――
かろうじて人間を模した目がぎこちなく動いて、流唯を捉えた。
流唯が巨大な口吻ごとその顔を抱き締めた。
「ああ、流歌……つらいでしょう。いいのよ。無理に流歌にならないで。……いい子ね。流歌……。ああ、ほら、お姉ちゃんを食べて? そうしたらきっと元気になれるから」
小さな子を慈しむように、撫でる。寄せた顔も手も、膿と血まみれだった。その瞳から涙がこぼれる。
〈女王餽〉の――流歌の顔が言う。
『やだ……ね、ちゃ、たべたく、な……。ごめ……、るか、たくさんにんげん、たべ、……たら、ごちそう、ちゃ……んと、にんげん、なれ……』
話しながら血と膿を吐き出す。
――ご馳走? ちゃんと?
「ああ、いいの、流歌。もう、いいの。ごめんね、痛いよね。ごめんね」
流唯が泣きながら優しく撫でる。流歌を、撫でていたように。――優しく愛おしそうに。自身の脚は撃たれて血みどろで、着物も〈女王餽〉の血と体液でドロドロなのに。
『ごめ、ね。おね、ちゃ……』
流歌を模した目から、血ではないもの――涙がこぼれた。
「いいの……いいの、流歌。ありがとう」
そう言って流唯が抱き締めた。
姉と同じ空色の瞳から涙があふれ、呼吸が浅くなる。
――そして、
〈女王餽〉がようやく息絶えた。
流唯は化け物の死を哀しむように、肩を落としたまま動かなかった。
彼女に椎衣那が近づく。歩きながらハンドガンをホルスターに戻した。最早彼女に抵抗の意志はないと判断したのだろう。
「流唯……と言ったかな。撃って済まなかったね。止血しよう。……君は、自分の妹が〈狼餽〉に食われ、その〈狼餽〉が妹の姿に擬態していると知った上で、共に生活していたのか」
椎衣那の問いには答えない。椎衣那が
だが――、
「さあ、〈狼餽〉から離れるんだ。死んだ〈狼餽〉は焼く決まりになっているから」
椎衣那がそう言った瞬間、肩を震わせた。そして椎衣那を突き飛ばすように言った。
「いや……、流歌に触らないで!」
「駄目だ。それにそれは妹じゃない。妹に擬態した〈狼餽〉――」
「違う! この子は流歌よ! 私の流歌なのよ!」
訴えた声は金切り声となり、悲鳴のようだった。
椎衣那が冷静に言う。
「違う。これは、〈狼餽〉だ。君はこれが、人間に見えるのか?」
〈狼餽〉でもなく、人でもないものを指す。流唯が激しく首を振った。
「違う違う違う! この子は流歌よ! 最初は……最初は、悲しかった……お父さんもお母さんも……お爺ちゃんも伯父さんも、た、食べられて……こ、怖かった。でも……あの子が流歌になって……言ったの。お姉ちゃんは食べたくない、って。一番大好きだから、自分の中の流歌が食べたくないって。……流歌の顔で、流歌の声で、大好きって」
……それは、人を化かすためだ。化かして利用するために、一番効果的な嘘をつく。それが〈狼餽〉の習性だ。
「だから、この村に人をよびき寄せて、喰わせていたのか」
「っ、で、でも、人間だって兎とか食べるでしょう? 同じよ。流歌だってお腹を空かせて泣くの。お姉ちゃん、お腹が空いたって! し、仕方なかったの。そ、それに、この子が言ってたわ。もうすぐ本当の人間に――本当の流歌になれるって!」
それを聞いて、椎衣那が彼女の耳元で囁く。
「……――――――――」
だが、なんと言ったかは聞こえなかった。
「そ、そうよ! ちゃんと流歌になれるはずだったの! それなのに……っ」
興奮して流唯が言う。
どういう事だ。
――本当の人間? 流歌? ちゃんと?
そんな話は聞いた事がない。人間を喰えば喰うほど擬態は上手くなっていくが、獣である事には変わりない。椎衣那は何を知っているのか。
ここからでは、死角になって彼女の表情は見えなかった。彼女が言う。――諭すように。
「……さあ、夜が明けたら病院に行こう。それまで休むといい」
「いや……この子は流歌よ。……流歌なの。私にとっては、流歌なのぉ……」
流唯の声は、最後は嗚咽となって言葉にならなかった。そのままくずおれる。
衣蕗はその姿から目を逸らした。
ちゃんと、本当の人間になる? 何を言っているんだ。人を喰った化け物のくせに。蒼緒を喰おうとしたくせに。
〈女王餽〉は蔵で首を斬った時に、死にかけていたはずなのに。その時死んでいたら、蒼緒は死ななかったはずなのに。
なんで。
なんで死ななかったんだ。あの時。なんで死んでくれなかったんだ。
衣蕗は蒼緒の、――蒼緒だった遺体を抱き締めた。冷たくて、固い。それが死後硬直だとわかると、全身が震えた。
震えて、涙があふれる。泣きたくない。泣きたくないのに、勝手にあふれる。泣いたら蒼緒の死を認めるみたいで嫌なのに。
もっと強く抱き締める。
「……蒼緒、……蒼緒ぉ、」
でも、返事はない。
外套は血で濡れ、手も脚も固くて冷たくて、動かない。
蒼緒は――
その時、声がした。
「衣蕗、蒼緒から離れるんだ」
淡々とした声だった。
それから足音が聞こえた。何かを拾い上げる音も。
衣蕗はゆるゆると顔を上げた。
――え?
椎衣那がこちらへサブマシンガンの銃口を向けていた。蒼緒が落とした物だ。
「衣蕗、蒼緒から――そいつから離れるんだ」
椎衣那が繰り返す。その目はガラス玉のように冷たかった。
衣蕗は背筋が寒くなるのを感じた。
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