第22話 ―澪― A Fake

「お優しいこと」

「うるさいな」


 衣蕗いぶきの口答えに、みおは威嚇射撃を続けながら口の端を上げた。


 けれど椎衣那しいなの元に蒼緒あおをついて行かせたのは、正しい判断だと思う。

 彼女は擬態について衣蕗のようには割り切れていないようだった。万一無意識にでも、攻撃の手をゆるめられては困る。火傷で鈍くなったとは言え、巨大な爪の一撃でも喰らったら、簡単に動けなくなってしまうだろう。

 

 改めて見上げた〈女王餽じょおうおに〉は、体高だけでも一間――一・八二メートル――はあった。立ち上がったら二間は越えるだろう。その分、腕のリーチも長い。油断したら即アウトだ。澪としては距離を取り、動いて止まらずに三点射撃スリーポイントバーストを続けるしかない。

 奴は全身が焼けただれていたものの、すでに回復が始まっていた。溶けた肉片が落ち、その下から新たな肉が盛り上がり始めていた。グルグルと低く唸っては、こちらを威嚇する。いるだけで、なんという威圧感だ。

 しかし、衣蕗の一撃は効いているようだ。なかなか傷が塞がらずに失血している。火傷の修復に相当エネルギーを消耗しているのだ。

 

 なるほど。最初、椎衣那が自動車をぶつけると言った時は、大した攻撃にはならないのにと思ったが、彼女は〈狼餽〉の足元にあったランタンに気づいていたのだ。澪を自動車から下ろすと、自分は自動車ごと〈狼餽〉に突っ込んで行き、飛び降りた。澪に燃料タンクを撃たせ、ガソリンが漏れたところにランタンを投げ込んだ。

 火だるまになった〈女王餽〉は、動きが鈍いし、銃槍の修復も遅い。太刀傷は出血が止まりにくい。

 勝機は十分にある。

 

 しかし。不安材料はある。

 実を言えば、澪は実戦経験がなかった。

 澪が〈花荊〉になったのは、椎衣那が大怪我をして第一線から引いてからだ。椎衣那が『出張』と称する現地調査のため、『娑婆』には出るので訓練は欠かさなかったが、初めての実戦がまさか〈女王餽〉退治とは。

 座学は得意だ。戦術理論ならすっかり頭に入っているが、いきなりの実戦でどれだけ対応出来るか。正直なところ、澪は背筋が寒くなるのを感じた。


 それに、他にも不利な点はあった。


「……刀で闘う人の後衛なんてした事がないんだけれど」

「悪いな」

 

 衣蕗はまさかの日本刀使いだ。接近戦になる。後衛でサポートするにしても同士討ちになっては元も子もない。今だって、素人みたいな威嚇射撃など衣蕗にとっては邪魔だろう。

 

「――けど、お前は自分の身を守る事に専念してくれ。もし隙をつかれて逃げ出すような事があれば、足止めしてくれればそれでいい」

「……了解」

 

 ずいぶんと自信があるようだ。

 確かに衣蕗の噂は枚挙に暇がない。配属されてからの彼女の討伐数は目をみはるものがあった。

 ……あと〈花荊〉人気もすごかった。

 

 イケメン新人〈吸血餽〉が配属されたと、兵舎では噂でもちきりだった。〈吸血餽〉なんてお綺麗どころばかりなのだから、美人なんて見慣れてるだろうに。とは言え民間との接触を原則禁じられている特務機攻部隊は、いつだって娯楽に飢えているのだ。

 実際会ってみた衣蕗は確かに綺麗ではあった。――好みではないけれど。

 そのあまりのイケメンっぷりに、「私の血を吸って」と迫る〈花荊〉がいたらしいが、彼女はすげなく断ったらしい。――まあ実際に、他の〈吸血餽〉の〈花荊〉を吸血したら、降格レベルの懲罰ものだが。

 なんにせよ、彼女の実力はその討伐数が雄弁に物語っている。

 

 そう。彼女は強い。


「……よそ見するなよ。お前の獲物はこっちだ」


 〈女王餽〉が椎衣那たちの去った方に視線をやったのを見て、衣蕗が口の端を上げた。

 すらりと刀を構える。

 ――と、次の瞬間には奴の胸に太刀傷が開いていた。


 〈女王餽〉が目を瞠った。

 既に距離を取った衣蕗が笑う。

 

「言ったろ? よそ見するなって」


 澪には太刀筋すら見えなかった。

 なるほど、彼女が日本刀を持つ理由がわかった。彼女にとっては、銃より速いのだ。

 衣蕗は決して筋骨隆々ではない。だがしなやかな筋肉をしていた。白く美しい背中が動いた。

 次の瞬間には、衣蕗のいた場所の地面がえぐれていた。〈女王餽〉が爪で攻撃して来たのだ。その前肢を跳んで避け、次の一太刀を浴びせる。

 ――グギャ!

 〈女王餽〉が短く吠えた。

 今度は頬に血の花が咲く。

 月夜に咲く赤い花も黒髪も、美しかった。

 

「……はっ、さすがに、〈狼餽〉みたいにはいかないな」

 

 恐らくただの〈狼餽〉相手なら、もう首を落としていた、というのだろう。

 愚鈍になったように見えて、速い。

 澪にはどちらの動きも――太刀筋も爪の一閃も――目で追う事さえ出来ない。

 澪の放ったサブマシンガンの銃弾は避けられなかったのではなかった。撃たれたところで豆鉄砲程度の被害でしかないし、何より最初から衣蕗を警戒していたのだ。

 

 再び衣蕗へと爪を振る〈女王餽〉。地面がえぐれる。それをかわし、素早く転がっては奴の懐に入り込み、刀を振り上げる。下っ腹が裂けた。衣蕗は返り血を浴びる事すらなく、既に距離を取っていた。

 美しい黒髪か翻る。

 速い。

 それに美しかった。

 放つ太刀筋はひとつも見えやしないが、緩急をつけて残像のように現れる姿には無駄な動きがなく、ただただ武人として美しかった。

 白刃が閃く。

 

 ――グギャァァアア!

 

 〈女王餽〉は悲鳴だか威嚇だかわからない咆哮を上げた。いや、怒りだった。その咆哮でさえ澪を震え上がらせるというのに、衣蕗は笑っていた。

 〈女王餽〉が腕で衣蕗を薙ぎ払う。――が、その一撃はかすりもしない。即座に距離を取り、まばたく一瞬でかわしてしまう。

 そして相手が体勢を戻す前に、今度は死角に入り込み、腹を斬り上げる。踏みつぶそうと後脚を上げるが、またもすんでのところで転がるようにして距離を取る。

 

 しかし〈女王餽〉はしきりと椎衣那と蒼緒の去った先を気にしていた。獲物の数が減る事を気にしているのか、何か理由があるのか。

 だが衣蕗が進路を阻む。

 苛立つように〈女王餽〉が巨大な咆哮を上げた。

 その隙を衣蕗は見逃さなかった。

 長く伸びた首筋に白刃を振り上げる。


 赤い血の大輪の花が咲いた。

 

 黒髪がふわりと舞う中、巨体がずしりと地面に落ちた。


 澪は息をする事も忘れ、その美しさに魅入っていた。

  

 だが――。

 その時悲鳴にも似た声が聞こえた。


 「流歌、逃げて!」

 

 ――流歌?

 それは母屋からだった。子供の声ではない。女性の――姉の方の声だ。

 どういう事だ? この〈女王餽〉は姉の流唯のはずだ。澪だって女性が獣に変わるのを見た。――いや、一瞬月明かりが陰っ――


『おね……ちゃ……』


 獣が、鳴いた。獣の口の脇に、小さな歯の、人間の口が現れた。

 濁った目が、人間のそれになる。

 

「なっ……?」

 

 衣蕗が動揺した。――その瞬間、〈女王餽〉が立ち上がり、衣蕗の胸を切り裂いた。


「ぐはっ」


 鮮血が飛ぶ。澪は恐怖した。

 だが〈女王餽〉がこちらに向かって来る事はなかった。駆け出す。首から血が噴き出すのもいとわない。

 向かった先は――

 

「母屋よ!」

「わかってる!」

 

 衣蕗が胸を押さえながら追う。澪も撃ち尽くした弾倉を捨て、慌てて追いかけた。

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