08 谱

「だめだな。ぜんぜん応答がない。きみの考え違いだったんじゃないのか?」

 ネルシアス”ピーターパン・シンドローム”ツッカーはいった。初老、やせ型の紳士で、笑うと目が深く刻まれた皺の中に完全に埋没する、リレイヤーの生物学者だった。

 コスモ・アタヴァクロン誌の特派員JJの話にヒントを受けた私は、その足でさっそくシンドロームの研究室に向かった。そして分光光度計のスリットとプリズムを利用して急拵えした装置で、緑と黄緑の単色光を、アキの無実を証明してくれるかもしれない猫蜜柑、ペローに与えたのだった。

「ベビーフェイス、きみの着想は確かに面白いとは思ったんだが……。それとも純粋の色、単色光じゃ駄目なのかな?」

 人間の目は、おおよそ四〇〇から八〇〇ナノ・メートルの波長の光を色として感じる。

  色調 赤‐橙‐黄‐緑‐青‐藍‐紫

  波長 760‐650‐585‐535‐490‐455‐425‐397

 たとえば六三〇ナノ・メートル――もしくはその近傍――の波長の光は緑色として感じられる。その場合、その色を感じるのに使われる光の波長が非常に狭い、もしくは数十のナノ・メートルの幅しか持たないので、その光は単色光と呼ばれる。しかし人間の目に色を感じさせる光は、そういった単色光ばかりではなかった。

「混色光なのかもしれませんね。猫蜜柑に刺激を感じさせる光は?」

 私がいった。

「うーん」

 とシンドローム。

「だが、ある特定の色を与える効果は、混色光も単色光と同じはずだが……」

「何です? その単色光とか、混色光とかいうのは」

 JJが尋ねた。彼の顔には不安の色が見え隠れしていた。自分が行った綱渡り的な殺人事件の取材と違い、私たちの実験が〈蛇の道は蛇〉といかないことに焦りを感じていたのかもしれない。

 JJに軽くうなずくと、私はホワイトボードに向かい、振り返ってからこういった。

「人間の感じる色の区分には、伝統的な赤橙黄緑青藍紫の他にいくつもあって、J・グリフィスが一九七六年に発表したカラーサークルも、そのひとつなんです」

 シンドロームが目で同意するのを待ってから、私はそれをホワイトボードに描いた


 ※ 「カクヨム」は画が出ないので、以下を参照してください。

    https://37368.mitemin.net/i718794/


「見てわかる通り、グリフィスのカラーサークルは円を十色の扇形に分画したものです。円周の上に書いた数値はその色を与える光の波長ですが、これはもちろん厳密なものではありません。人それぞれによって感じる色は微妙に違いますからね。……このなかで番号を振った1から9までがいわゆる色(スペクトル色=ある狭い幅を持った波長の光によって与えられる色のこと)で、10番目の赤紫色はスペクトル色ではありません。これは図の上で隣接する――波長に連続性のない――紫色と赤色を混合すると得られます。……さて、ここに描いた1から9の色光を適当に混合すると白色光となります。また白色光は1から10のどの向かい合う色光を混合しても得られます。たとえば青と黄色とか、赤と青緑とかです。そういった一対の色のことを互いに補色と呼びます。もちろん緑と非スペクトル色の赤紫も、その関係にあります」

 そこで私はふっと息をついた。JJを見ると、先をうながす仕種をしている。それで私は先を続けた。

「さて、ここからが重要なんですが、カラーサークル上のすべての色区分は隣接する、あるいは近くの色区分を混合しても得られます。たとえば2と4から3が、2と6から4が、6と8から7が、5と9からも7がという具合にです」

「ということは、緑と黄緑を得るには方法がいくつも?」

 と攻撃的な口調でJJ。

「ええ、その通り」

 と私が答え、

「つまり人間の色感能性色素が三つ、すなわち、赤、青、緑からなるため、ちょうど良い二色からなる混合色が単色光と区別がつかなくなるというわけです」

 シンドロームが二人の会話に割って入った。

「よくわかりませんな」とJJ。「もっと詳しく」

「ごく単純化していえば、緑色を得るには二つの方法があるということですよ」

 JJを受けてシンドロームが微笑しながら答えた。

「ひとつは緑色素に単色光の緑色を感じさせる方法で、そしてもうひとつは――」

「あ、そうか!」

 とJJ。

「赤色素と青色素に赤と青を同時に感じさせて緑色を得る方法ですね」

「あんたは頭がいいな!」

 とびっくりした顔でシンドローム。

「へへえ、それほどでも」

 と照れながらJJ。

「ともかく」

 と私。

「その混色光の実験をしてみましょう」

「そうだな。リレイヤーの生物が地球の生物と同じに色を感じるとは限らんからな……」

 シンドロームがいった。するとそのとき、私の頭のなかで何かが弾けた。だが一瞬のうちに、それは混濁の中に飲み込まれた。

「仕方ないな。その実験のために、もう一台分光機をバラすとするか……」

 だれにともなくシンドロームが呟いた。

 猫蜜柑ペローはザラザラの舌で気持ちよさそうに臍をなめている。


「ダメって、え、そりゃ、どういうことです」

 数時間後、ジェローム・J・ブルースの怒りを爆発させたような叫びが、シンドロームの研究室を駆け抜けた。

「だって、猫蜜柑はちゃんとのどをゴロゴロと鳴らしたんでしょう。ある光を当てたときに」

 彼が主張するように、猫蜜柑は確かにある混合色を当てたとき、のどをゴロゴロ鳴らすという反射行動をとった。その生物学的な意味は、いずれこの星の行動生物学者が明らかにしてくれるだろう。しかし、その混合色は、

「赤と緑と紫だったんですよ。緑や黄緑じゃなくてね」

 私が答えた。私たち科学者のふがいなさを責めるJJの視線が痛い。

「ちゃんと緑が入ってるじゃないですか! そりゃあ、厳密にはこちらが欲しい結果ではないかもしれませんが、ある程度は役に立つはずでしょう」

 私たちが猫蜜柑に反射行動をとらせるために見つけた色光の組合せは、かなり複雑なものだった。しかもそれは二色ではなく三色からなる組合せだったのだ。

「赤と緑と紫の三つの色が同時に必要なんですよ。単色、あるいはそのうちの二色だけじゃなくてね」

 私が答えた。

 赤と緑と紫の混合光は、強度が適当ならば、人間の目には紫か白か赤に見える。……カラーサークルから考えればよい。

 その一(紫に見える場合) 紫と緑から緑青が生じ、その緑青と残った赤から紫が生じる。

 その二(白に見える場合) 赤と紫から赤紫 → 赤紫と残った緑から白。

 その三(赤に見える場合) 赤と緑から黄  → 黄と残った紫から赤。

 つまり、そういうわけだ。

「クソッ、じゃあ駄目なんですね。この方向でいくら推してもアキコさんの見た色は立証できない、そういわれるんですね」

 ジェロームの言葉に私たちはただ黙ってうなずくことしかできなかった。

「残念だなぁ。いい方法だと思ったのに……。あたしのカンが外れたってことか……」

 誰にともなくジェロームがぼやいた。そして、

「そうとわかったからには、別の手を考えなくちゃな!」

 そう呟くが早いか、

「では、またいずれ」

 早口でいい残すと、バタン! 私たち二人の元を去った。

 ……と思いきや、再びふいにドアから顔を覗かせ、

「でも、あたしはアキコさんの無実を信じていますからね」

 最後に彼はそう呟くと、私に大きくうなずいた。

「それからペローはあなたに差し上げます。大事にしてやってくださいよ」

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