04 散

「気象っていうのは、つまり散逸構造のことなんだ。ミクロなゆらぎの選択的増幅が引き起こすマクロな共同的構造変化」

 アキのことが気になって仕事にならないので、午後、私は気象学者のカミル”ストリートキッズ”ロシュコの研究室を尋ねた。彼は三〇代半ばの恰幅のよい独身研究者だった。

「で、その散逸構造ってのは、なんなんだい?」

 私が問うと、

「オロカモノ! たったいま極めて明快に説明したばかりじゃないか」

 ストリートキッズが私に大声を張り上げた。ギョロリと睨み、

「まあいい」

 腕時計を見て時刻を確かめ、

「ちょうどよい頃合いにやってきたもんだ」

 のっそり立ち上がると、研究室の片隅に置かれた液晶テレビのスイッチをひねった。たちまち画面に光が射す。アニメーションだった。

「これは日本の古いテレビアニメだ」

 とストリートキッズが説明した。十二インチの画面の中は決闘シーン……らしい。東洋のカラテマンが西洋の巨漢を相手に、さかんに奇声を発している。

「これが、なんだって?」

「いいから黙って見ていろ」

 有無をいわさぬストリートキッズの胴間声。

「じきだ」

 二人の闘士の対決は、はじめ西洋側がやや有利だった。けれども、これは国粋主義者が多勢を占める日本で製作されたアニメーションだ。いずれ東洋側が勝利を収めるのだろう、そう思って観ていると、案の定、東洋のカラテマンがすばやい反撃に転じていた。そして西洋人の腕のある部分に蹴りを入れた。

「このあとの一瞬が重要なのだ!」

 とストリートキッズ。

「なにがだい?」

「いいから見るのだ」

 それは確かに一瞬のうちに起こった。東洋のカラテマンが蹴りを入れて約数秒間沈黙が続き、彼が静かに何事かを相手に伝え、直後、西洋人の身体が内側から爆発し、巨漢の肉片があたりせましと飛び散った。HとBの子音の入った西洋人の叫び声だけが、尾を引くようにあとに残った。

「つまり、そういうことなのだ」

 と、私に目を移すとストリートキッズはいった。

「つまり、なんだって?」

 と私。さっぱりわかりゃしない。

「いまのが東洋の神秘〈つぼ〉の概念を拡大解釈したカラテ技なのだ」

 重々しく私に顎をしゃくり、

「〈つぼ〉、知ってるか?」

 私がうなずく。つぼ、すなわち神経の結束部分のことは、以前、アキから聞いたことがあった。

「知っているならよろしい」

 いって、ストリートキッズはテレビをパチンと消した。

「実はオレも詳しいことは知らんのだが、人間の身体には約六百個所、内臓や全身の健康状態を反映する神経の結束部分があるらしい。正式の名前は経絡(けいらく)だったかな……。とにかく、腕の内側や左右の首のつけ根が頭痛に利くといった具合に、ちょっと見にはまったく関係なさそうな部分が複雑怪奇な関連を示すのが特徴だ。それが〈つぼ〉。で、その考えを推し進めれば、当然、神経結束に与えたミクロの刺激が渦を巻き、選択的に巻かれた渦が刺激を伝え、その刺激がまた選択的な渦を与え、やがて、ボン! 全身の破壊が起こるという考えも湧き出てこよう」

「それが散逸構造なのかい?」

「正確には、いまのはルネ・トムのカタストロフィー理論に近い。つまり条件を限定した見かけの散逸構造だが、ま、ベビーフェイス、あんたも学者だ。あとは自分で考えてくれ」

「ずいぶんと投げやりだな。台風とか、スコールとか、そういったところに話をつなげてくれるんじゃなかったのか?」

「では、ひとつだけ重要なことを教えて進ぜよう。本当の散逸構造理論には必然的に不確定要素、すなわち偶然が入り込む。だから、あと知恵でない理論づけは非常にむつかしいのだ!」


 ストリートキッズに煙に巻かれ、自分の研究室に戻った私は、机に向かうとそのまま寝入ってしまい、気がついたときには夢の中にいた。

 オレンジの世界が目の前で舞う。クルクルと。そしてグランドキャニオンのようなリレイヤーの原野に、オーストラリアのエアーズロックのような巨大な石筍が生えていた。

(ポリマーローズ!)

 その周囲は何キロもありそうだった。すると、その中央部に影が射し、小さな人間の女の姿が浮き上がった。

(アキ、なのか?)

 私は叫んだ。とたんに私の身体は緑の宙をすり抜けて、ポリマーローズ中腹の不気味な斑紋が描かれた空洞にいた。

「ずいぶん久しぶりね、ベビーフェイス」

 アキがいった。

「ああ、そうだね」

 私が答える。いつのまにか二人は日本の民族衣装、キモノを身につけていた。アキが着ているのは黄色い地に黒い井桁模様の入った柄で、私のは渋い青色のキナガシだった。

「会いたかったわ」

「本当かい?」

「わたしがいないあいだお利口さんにしていた?」

「ああ、たぶん」

「わたしがいないあいだ、淋しくなかった?」

「淋しかったよ」

「わたしがいないあいだ、ちゃんと食べてた」

「なんとかね」

「わたしがいないあいだ、生きていられた?」

「生きてる気がしなかったよ」

「私がいないあいだ、セックスはどうしてたの?」

「ひとりで始末してたよ」

「まあ、かわいそう」

「それより、きみは、なぜ戻ってきたんだい?」

「わからない?」

「ぼくに会いにきてくれたのか?」

「さあね、どうでしょう」

「答えを教えてくれ? お願いだ」

「なにが知りたいの?」

「もちろん、きみが、もう一度ぼくを愛してくれるかどうかをだよ」

「ふうん」

「ふうんって、きみ?」

「ねえ、ベビーフェイス。わたしに教えてくれる」

「なにをだい?」

「あなたがいまでも色気狂いかどうかを」

「めっそうもない」

「本当に?」

「もちろんだ」

「じゃあ、見て」

「ん、なに?」

「わたしのからだよ」

 帯が解かれ、衣摩れの音がして……。

「きれいでしょ」

「ああ」

 のどがカラカラに渇く。

(違う! これはアキじゃない)

「どうしたの?」

「きみは何者なんだ?」

「ベビーフェイス、あなたのきれいで気立てのよい奥さんよ。いっしょうけんめい練習したのに。何人もの男の人に抱かれて、色気狂いのあなたに相応しい奥さんになろうって……。ねえ、見て。わたし、きれいでしょ。わたし、おいしそうでしょ。わたし、すてきでしょ」

「お願いだ! もう、やめてくれ。きみはそんな人じゃない」

「どうして?」

「どうしてって、きみはそんな人じゃないからだ!」

「なぜ? なぜ? なぜ?」

 口許がだらしなく垂れて、アキ・ザ・フローラの顔が好色に変わる。


   み      多

   好き心 尻軽 淫乱

   色      蕩


(やめてくれ! 冗談じゃない)

「ふふふふふふふ」

 空が紫と黄色に変わり、彼女の顔が突如般若の面になり、全身が蝋人形に変わり、溶けて流れて私の身体を這い上がり、私の全身を埋め尽くし、私の息を止めにかかり、私は噎せ返ることもできず、もちろん言葉も発せられず、ただ、ただ、ただ、驚きに目を見開いて、叫んでいた。

(そんな馬鹿な!)


「ボス・ベビーフェイス、どうしたんです? うなされて……」

「ああ、きみか」

 背中をさすっていたのはドロシィだった。

「どうもありがとう」

「悪い夢でも?」

「いや、悪いのは私の方だ。私の方だったんだよ」


 その夜、私はジェントリィ・ギタァに映話を入れた。

「ハロー。私だ。……うん、残念だけど、彼女の出迎えは、きみたちだけでやってくれ。そう、はい、うーん、でもねえ、だからさ勘弁してくれよ。……では、そうだ。じゃ、よろしく」

 ガチャリ

 十三月(ウンデセンバー)六日の夜九時半。私はつくづく自分を情けなく感じた。


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