02 剥

「ボス・ベビーフェイス、聞いたわよ!」

 とメアリー”ドロシィ”ザラマネックが、カブキと別れて色素化学研究室に入ったところで、私に叫んだ。

「フローラが戻って来るんですってね」

「……らしいね」

 私は胸の中で舌うちした。ジェントリィ・ギタァのおしゃべりめ! 愛称をメドラーに替えちまうぞ!

「うれしい? それとも、うれしくない?」

「なんともいえんな」

「あたしがいると、やっぱりこまるかしら?」 

「うーん、たぶん。きみには悪いが、おれがもし逆の立場だったら、いい気はしないからな」

 肩をすくめて私は答えた。

 そもそもドロシィとのたった一夜の過ちがアキ・ザ・フローラの沈着冷静な仮面を剥ぎ、あっというまの離婚に結びつける原因となる出来事だったからだ。

 クレイジー・フリーク・サイケデリックス(CFP)が人体、あるいは感情に異常を誘き起こすという実験結果は、ついに出なかった。それは本格的な移民を控えたリレイヤー側の受け入れ検査だったが、あのときの自分の状況を思い返すと、実験を担当した心理学者がボンクラだったとしかいいようがない。私はいまだにドロシィを気に入ってはいるが、愛してはいない。それだけは断言できる。私が愛しているのは、いまだにアキだけだ。けれどもあのとき、めずらしく夜で、ロマンチックな月はマゼンダに輝き、アンソニー”フィッツジェラルド”パターソンの子供が生まれたパーティで、ベランダの風はワインに火照った頬に心地よく、アキはすでに家に帰っていて、いきさつは忘れたが私がドロシィを家に送り届けることになり、送り狼になるなよと集まった科学者仲間から声を浴びせられ、帰りの夜道でいよいよ月はロマンチックに輝き、突如、暗い空に色が氾濫し、赤橙黄緑青藍紫が――なぜかそのときばかりは――優しく入り混じって私たちを包み込み、お互いの目が「愛しているよ!」と言葉を交わし、気が狂ったように唇を求めあい、互いの服を脱がせ、脱ぎ、脱ぎ捨てるのももどかしく身体を合わせ、FUCKし、彼女が叫び、私がふるえ、夜道を転げまわり、ドロだらけになり、宇宙全体にたった二人しかいなくなり、私が果て、同時に彼女がいき、月の照り返しの色素微生物たちが放つ色彩で歌をうたって二人を祝福し、私の持ち物がすばやく回復し、彼女がそれを愛撫し、咥え、私が吸われ、ふたつがまたひとつとなり、ヘトヘトでグッタリするまでお互いに挑み続けた。

 そして翌日の朝、ほとんど同時に目を覚ました私たち二人は、とまどいや後悔ではなく、はだかの身体ぜんたいに羞恥心を感じて、お互いを見もせずにそそくさと服をつけ、わずか数ブロックしか離れていない二人の住み処へ、それぞれ向かった。

 残念ながらその経験は私のなかで理想的な形に整理されて、あまりにも強烈に居ついてしまった。だから、いまのドロシィにあのときのドロシィを感じることは金輪際ないのだが、まるで子供の頃のなつかしい夢精か、幼いガールフレンドを頭のパレットに描いて行ったマスターベーションのように、私のなかで完全に幻想化してしまったのだ。だから理性ではあの経験が半ば夢で、それゆえ二度と体験できず、私の現実生活とはなんら関係を持たないものと知りつくした上で、忘れえぬ想い出となったのだった。

 アキが地球に去ってやもめとなった私は、その後、何度かドロシィと身体を重ねた。けれども味わったのはお互いの――実は相互に何の関係もない――失望だけで、私はなかなか果てず、彼女はいきもせず、お互いがまったく別人に思えて、二人ともそれぞれ勝手な理由から理想の想い出の方を選びとり、そして、私たちの関係は主任化学者(一人しかいない)とそのアシスタント(一人しかいない)に戻り、今日に至った。

「彼女、まだ怒ってるかしら?」

「さあ、おれには見当もつかんね」

「愛してたんでしょ?」

「そりゃ、そうだ!」

「なんで戻って来ることになったの?」

「わからんな」

「いまでも愛してんの?」

「そりゃ、もちろん……」

「ベビーフェイスのそういう煮えきらないところって好きよ。もちろん恋人じゃなくって、友人としてですけどね」

「ありがとう、ドロシィ」

「でも、あんたって本当に馬鹿なやつだわ!」

「オーケイ、それ以上いうな。充分、自分で知ってる!」


(中略)FLB、すなわち空中浮遊性蛍光色素微生物(フローティング・ルミネッセント・バクテリア)は、リレイヤーの生物相が産み出した傑作生物なのかもしれない。リレイヤーの二つの太陽、B2とF8は、いずれも地球の太陽と比べて紫外線を多く放射する。炭素型生物にとって致命的な紫外線をだ(少し復習をしよう。恒星のスペクトル型はMKGFABOの順で表面温度が高くなる。地球を照らす太陽のそれはG2で表面温度は約六〇〇〇度。M5、O5でそれぞれ二八〇〇度、四〇〇〇〇度で、表面温度が高くなるに従って、その放射光中に含まれる紫外線の量も多くなる。復習終わり)。さて、リレイヤーの生物も――ポリマーローズを除けば――基本的に炭素型の構成だった。それが、その昔デニケンが唱えた『宇宙人はみな人間』説の現代版なのか、あるいはケルビンやアレニウスが主張した胚種広布説(パンスペルミア)、すなわち『生命は地球外から渡来した』説の証拠なのか、筆者には皆目見当がつかない。たぶんリレイヤーの存在が――筆者たち、リレイヤーを訪れ、それに慣れてしまった者たちにとって――決して想像の産物ではなく、日常生活を営む場=〈現実〉になってしまったからだろう。


「で、昨日の色素の発光測定の結果なんですが……」

 いって、ドロシィは、それまで後ろ手に隠し持っていた研究データを私に差し示した。

「どれどれ……」

 と私が受け取る。うすっぺらいチャート紙にFLBから抽出した蛍光色素の分光学的データが、青、赤、緑色の線で描かれていた。

 しばらくしてから私が答える。

「ふーん。三四〇ナノを吸収して、六五〇ナノにメインの蛍光があるな。サブの蛍光は四六〇と五三〇ナノか? めっけもんかもしれんな」

 ナノとはナノ・メートル、すなわち、10^-9メートル(十億分の一メートル)(筆者注 ^n はn乗を表す)のことだ。三四〇ナノは紫外線の波長。六五〇ナノはだいたい赤で、四六〇、五三〇ナノは、それぞれおおよそ青と緑の波長である。

「雇い主にレポートを書くかなぁ。ひさしぶりに。免疫試薬に使えるかもしれんし……」

 顔を上げて彼女を見ると、私はいった。

 生体内の蛍光もしくは発光物質は四〇〇~五〇〇ナノ・メートル範囲の光を放射するから、三四〇ナノで光を受け、六五〇ナノでそれを放出すれば、生体内の蛍光によるノイズを受けないことになる。生体物質の微量定量法である蛍光免疫法では、生体内のノイズによる妨害が馬鹿にならない。それゆえ、そういったノイズを避ける蛍光試薬――延いてはその元となる蛍光色素――の発見が、試薬開発の決め手となるのだった。

「じゃあ、もう一回データを取り直しましょうか? 実は、追試、まだなんです」

「大丈夫だとは思うが、そうしてもらおう。ま、ほっといたって、わかるやつにはわかるからな……。許可が出たらペーパーにしよう。あとは応用のやつらの仕事だな」

「了解しました、ボス!」

 とドロシィは答え、

「さっそく測定します」

 いって、その愛称の元になった子役時代のジュディ・ガーランドのように、軽くスキップをしながらその場を去った。表情は夢を夢と知る理知的な子供。長い髪には、わずかにウェーヴがかかり、身体の線はとても細い。運動神経が発達しているのか、それともただの道化なのか、歩くときには必ずスキップを踏むメアリー”ドロシィ”ザラマネック。そんな彼女も今年二十六歳になる。


 そわそわしながら午前中を過ごした。アキ・ザ・フローラのことが気にかかったからだ。なぜ、彼女は戻ってくることを決めたのだろう。私とよりを戻すために? 自惚れれば、そんな言葉が頭で舞った。だが、それも詮無い。アキの性格を知り尽くしているのは、私をおいて他にはいない。彼女は前言をひるがえさない。そして、もう二度とあの堅い能面を外すこともないだろう。たとえその行為が、彼女の感情に相反するものであったとしても……。

 リレイヤーでの私の仕事はFLBから抽出した蛍光色素の分析にあった。面白いといえば面白いが、慣れてしまえば単調な仕事だ。リレイヤーの空は色気狂いだから、蛍光色素には事欠かない。大型の掃除機みたいな機械と組合せたコバルト鉱の超伝導磁石で捕獲したFLBをすりつぶし、含有される色素に合わせた溶媒で、水素イオン濃度(pH)などを調節しながら抽出する。あとはその蛍光、もしくは発光色素を分光機や蛍光光度計やその他さまざまな装置にかけて分析する。色特性や構造その他の性質を調べるためだ。そんな環境だから、本来ならばリレイヤーにはもっと多くの色素化学者が集まって来ても良いはずだ。けれども実際には七つの宇宙港にそれぞれ二人か三人ずつしか集まっていない。島流しの場? あるいは、そうかも……。いろいろあって賃金が安く、その昔のソビエト連邦みたいに労働条件が劣悪だからか? 欲しい機械はまず買って貰えない。ろくな成果も出てこない。微生物学や気象学の方がずっと面白いって?

 そして思いはどうどうと巡る。

 ではなぜ、そんな活気の失せたリレイヤーにアキ・ザ・フローラは戻ってくるのか? 

 鉛筆を噛みながら報告書の構成を考えた。けれども気持ちが落ちつかない。ため息をつき、コーヒーと紅茶を交互に飲み、狭くて乱雑な主任化学者室の中をうろつきまわり、またため息をつき、ふと二階の部屋の窓から外を見下ろすと、リレイヤーの支配種族の猫蜜柑(タンジェリン・キャット)の群れが、さもオレたちは偉いんだぞとでもいわんばかりに、長い髭をピンと伸ばして、威勢よくゾロゾロと移動していた。

 猫蜜柑!

 その名の通りの生き物だった。スイカ大のオレンジボールで、短い足を六本持ち、ときどきコロコロと転がった。地球の猫のようにミャアニャアと鳴き、性格は比較的温厚だが、怒ると全身の毛を逆立ててフーッと唸った。そんなところも地球産の猫そっくりといえた。主食は主に植物で、ときたま昆虫を食べては腹をこわす。愛らしく、私と同様オロカナ生物。けれども威風堂々と行進しているとき、彼らは何物にも替えがたく頼もしい。

 コンコン

 と部屋のドアがノックされた。

「追試分のデータを持ってきました」

 入ってきたのはドロシィで――他にだれが私の部屋に来るというのか?――手に、朝、私が頼んだ蛍光色素のチャートを持っていた。

「ありがとう」

 と私が答える。するとドロシィはそのまま部屋の奥に入り、窓下を行進する猫蜜柑たちを見つけて、

「あら、かわいい!」

 と叫んだ。私に振り返り、

「ねえボス、あの子たちを見ながらお昼にしませんか? ちょうどいい時間でしょう」

 いわれて壁の時計を見ると十六時五分前、すなわちリレイヤーの正午近くを示していた。

「わかった。そうしよう」

 彼女からチャート紙を受け取り、机の上のさらに乱雑な書類の上にのせると、私は答えた。

「気晴らしにはいいかもしれんな」

「あんまり気にしない方がいいですよ、ボス・ベビーフェイス」

「うーむ。きみは、助手としては最高だな」

「あら、あたりまえでしょ」

 いってドロシィは私に微笑んだ。笑顔がまぶしい。

「よーし、じゃあ、今日の昼メシは私のおごりだ」

「サンキュー、ボス」

 そして二人で部屋を出ると、一階の食堂に向かった。

 そのときの私には、群れをなすリレイヤーの小動物が、いずれアキ・ザ・フローラのアリバイを証明してくれようとは知りようもない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る