妊娠しただけです。
柏木椎菜
一話
「あの、奥様、少しよろしいでしょうか」
廊下を通りかかったマデリーンを見つけ、アデルは控え目な声で呼び止めた。
「……あらアデル、どうかしたの?」
特に急ぐこともないようで、若いメイドにマデリーンは笑顔を見せて立ち止まった。
「お嬢様……ローザ様のことでお話が……」
「ローザ? あの娘に何かあったの?」
「その……」
アデルは周囲に目をやり、誰もいないのを確認してからマデリーンに耳打ちした。
「どうも、月のものが来ていないご様子で……ご体調を崩されている可能性が」
これにマデリーンは眉をひそめる。
「来ていないって、どれくらいなの?」
「二ヶ月は間違いなく」
「二ヶ月も……?」
一ヶ月に一度、女性には必ずある生理現象が二ヶ月間ないというのは、身体に何か異変が起きているという証拠に違いなく、二人には心配なことだった。
「ローザの様子は? 具合が悪そうにしているの?」
「それが、至って普段通りにお過ごししており、お辛そうなご様子は何も」
「熱があるとか、痛みがあるとか、そんなことも?」
「はい。ご不調は口にしておりません」
首をかしげたマデリーンにアデルは言った。
「ローザ様がご自覚されていないだけで、お身体では何か起きているのかもしれません。奥様、一度お医者様に診ていただいたほうが良いと思うのですが」
「そうね……わかったわ。明日、お医者様を呼んで診てもらいましょう。アデル、知らせてくれてありがとう」
立ち去るマデリーンに会釈し、アデルはそれを見送る。ローザの身の回りの世話を任されている一人として、彼女の健康に何かあってはいけない。たとえ考えすぎだろうと、心配の種は気付いた時に取り除くべきで、それがローザのためでもあるとアデルは思っていた。
だがその種が取り除かれるどころか、芽を出してしまうとは、この時アデルは思いもしていなかった。
そして翌日――評判がいいという医者が呼ばれ、ローザの診察が始まった。母親であるマデリーンは側で見守り、メイドのアデルは部屋の外で待っていた。大したことではないようにと願いながら、およそ三十分後、扉がガチャリと開き、マデリーンと共に初老の医者が出て来たのを見て、アデルは寄りかかっていた壁から離れた。
「あの、本当に、間違いないことなのですか?」
マデリーンは深刻な表情を浮かべ、うろたえた様子を見せていた。これにアデルは一気に緊張を覚える。まさかローザに重大な病でも見つかったのだろうか――心臓はバクバクと鳴り、不安は増大する。しかし次に聞こえてきた医者の言葉に、アデルは耳を疑った。
「間違いありませんな。お嬢さんのお腹には新たな命が宿っておられる。お身体に悪いところは見当たりませんから、このまま無理をさせず、静かに過ごされるのがいいでしょう」
「でも、娘は、何で妊娠を……」
「それはご本人におたずねを。私に聞かれても答えようがない」
「こ、このことは、くれぐれも――」
「わかっております。診察結果を誰かに明かすことなどいたしませんよ。そこはご安心を。では私はこれで」
廊下をやってきた医者を送ろうとしたアデルだが、大丈夫だと断った医者は一人で階段を下り、一階へ消えて行った。再び廊下へ目を向けると、呆然と突っ立ったマデリーンがアデルをじっと見つめていた。その視線に焦り、アデルは慌てて言う。
「わ、私も、絶対に口外などいたしませんから!」
「……やっぱり、聞いていたのね」
「すみません。聞くつもりはなかったのですが……」
身を縮こまらせるアデルにマデリーンはゆっくりと近付いて来る。叱られるかと思いきや、発せられたのは力のない口調の問いだった。
「あの娘を身ごもらせた相手に、心当たりはある?」
「私は、お部屋でのお世話をするだけで、ローザ様のご交友関係にはあまり詳しくないもので……」
「そう……そうだったわね……」
「お医者様の仰った通り、ローザ様におたずねになられれば――」
そう言うと、マデリーンは怯えたように顔をしかめた。
「それはわかっているのだけれど……怖いのよ。聞くのが怖いの」
「ですが、おたずねしないと、お腹のお子が……」
「わかっているのよ。でも……ああ!」
両手で顔を覆い、マデリーンは嘆く。
「まだ十八歳のあの娘に、男性を見る目があるとは思えないわ。このガリフェ家にふさわしい相手を探し始めようとしていた矢先なのに。一時の感情が起こした若気の至りの結果が妊娠だなんて、一体どうすれば……」
アデルもどんな声をかければいいのかわからなかったが、とりあえず無難な言葉を選んで言った。
「お気持ちはご理解できますが、まだお相手の素性がわからない状況でご判断をなさるのは性急かと。まずはやはり、ご本人におたずねになるべきかと……」
「私一人ではとても聞けないわ」
「ローザ様のことですから、ご主人様にもお伝えになったほうがいいと思うのですが」
これにはっとしたようにマデリーンは顔を覆った両手を下ろした。
「そうだわ。あの人に伝えなきゃ。こんなこと、私だけで隠せることではないもの。……ミシェルもきっと愕然とするでしょうけれど、私の代わりに相手を聞いてもらわないと」
聞くのが怖い自分はそれを諦め、代わりに夫に聞いてもらうことにしたらしいマデリーンは、不安な表情のままアデルを見る。
「外の者には知られたくないわ……ローザのことはまだ黙っておいて」
「もちろんです。言いふらしたりなどいたしません」
「あなたを、信用しているわ」
弱々しく微笑むと、マデリーンは一階へと去って行った。ガリフェ家の主であるミシェルが帰宅するのは大体夜が多い。それまでは普段通りの仕事をこなすしかない。アデルに任されている主な仕事はローザの身の回りの世話だ。部屋の掃除や衣服の管理、時にはおしゃべりの相手になったりもする。
貴族の娘でありながら、ローザはそれを鼻にかけたり傲慢な態度を見せることはなく、相手がメイドだろうと実に気さくに接してくれる娘だった。その上慎み深く、優しさもあるローザのことを嫌う者は、この館内には存在しない。アデルはそんな彼女に仕える身だが、三歳下の彼女のことを勝手に妹のように感じており、親近感を抱くほどだった。慕い、性格をよく知るからこそ、妊娠の事実には驚かされた。ローザは派手だったり羽目を外した遊びはしない印象だから、なぜこんなことになったのかアデルには不思議でならなかった。もちろんこれが遊びの結果とは決まっていないが、まだ恋人の気配がないローザだ。どうしたって悪い考えに至ってしまう。ローザと対面した時、自分は顔に出さずに済むだろうか――彼女の部屋へ向かいながらアデルはそんな心配をしていた。
「……失礼いたします」
扉越しに声をかけると、中から小さな声が返って来た。
「アデル? どうぞ」
心なしか弱い返事を聞いてアデルは静かに扉を開けた。
「……よろしいでしょうか?」
のぞくと、へやの奥に置かれたベッドにローザは腰をかけ、こちらを見ていた。
「あ、掃除の時間だったわね。今日はお医者様が来たから忘れていたわ。今部屋を出るから……」
そう言って立ち上がろうとしたローザをアデルは慌てて止めた。
「いえ、いいんです。お洗濯をする衣服を取りに来ただけですから。ローザ様はごゆっくりなさってください。ご無理は禁物です」
これにローザの水色の目がいぶかしげに見た。
「……無理は、禁物って?」
アデルは発した言葉の選択の間違いに気付き、一瞬頭を真っ白にさせた。
「そ、その……何というか……お医者様が、いらしていたので……」
「ああ、それなら大丈夫よ。どこも悪いところはなかったから。心配してくれてありがとう」
「そうですか……でも、やはりご無理はなさらないよう……」
「アデル」
「はい、何でしょうか……?」
ローザは真っすぐ見据えると言った。
「あなたは知っているのね」
「……え?」
「そうなのでしょう? 正直に言って」
息が詰まりそうな視線にアデルは迷ったが、こう指摘されては黙り続けるのも辛く、吐き出した息と共に答えた。
「……その通りです。私は、ローザ様のお腹にお命が宿っていることを知っております」
ローザは軽く溜息を吐くと、微笑みを見せた。
「私から教える手間が省けたわね。別に隠したいことではないし、側にいるアデルには知っておいてもらいたかったからよかったわ」
妊娠を知って神経質になっているかと思ったが、ローザは意外にもこの事実に前向きな様子を見せている。そこでアデルには、ふと疑問が湧いた。
「ローザ様は、お命を授かったことを、喜んでいらっしゃいますか?」
「自分の子を授かったのよ? 喜ばないわけがないわ」
笑顔を浮かべるローザに沈んだ感情はうかがえない。本当に喜んでいるようだった。
「では――」
言いかけてアデルはすぐに口を閉じた。
「……何?」
「いえ、何でもありません。……万が一体調に変化があれば、ただちに私をお呼びください。何をおいても駆け付けて参ります」
「ふふ、心配し過ぎよ。私はこれでも丈夫なほうなのよ? でもありがとう。アデルのことは頼りにしているわ」
「嬉しいお言葉です。それでは失礼いたします……」
頭を下げ、隣の部屋から洗濯する衣服を取ると、アデルは足早に部屋を出た。廊下を歩き、一階への階段を下りながら、マデリーンが聞くことをためらった気持ちを何となく理解していた。アデルもローザに、父親となる相手について聞こうとしたものの、直前で怖さに引き止められ、言葉にすることができなかった。ローザは妊娠を喜んでいるようだったが、それが本音かは誰にもわからない。心から愛する男性との子なのか……望むべく妊娠だったのか……もしそうでなかったら……それを答えるローザを想像すると、アデルは怖さに耐えられないと思った。人は予期せぬ出来事に遭遇すると、悪い心配をしてしまうものなのだろうか。それともアデルとマデリーンが臆病なだけなのか。何にせよ、今のアデルにはローザの幸せを祈ることしかできない。その祈りが届くかは、当主であるミシェルが聞くことでわかるだろう。今晩にも――
「……これで、いいわね」
日は暮れ、窓の外はすっかり闇に覆われ、遠くには街の灯りが点々と見えていた。夕食を食べ終えたローザが自室でくつろぐ隣で、アデルは衣裳部屋でローザのために明日の衣服を用意していた。これも毎日の仕事の一つで、これを終えればアデルの今日の仕事は終わり、一息つける。ざっと確認してからクローゼットの戸を閉め、衣裳部屋から出ようとした時だった。
「ローザ!」
突如部屋の扉が開けられた音と大声で呼ぶ声が聞こえ、アデルは思わず足を止めた。
「ほ、本当なのか? お前が、に、妊娠したというのは……」
アデルは衣裳部屋からそっと顔だけをのぞかせ、様子をうかがう。ソファーでくつろぐローザの前には、ひどく困惑した顔のミシェルがいた。その後ろにはマデリーンもいて、夫の詰め寄る態度を抑えようとしていた。
「あなた、そんな大声出さないで。この娘が驚くでしょう」
「今はどうでもいいことだろう! ……どうなんだローザ」
問われたローザは父親を見つめ返して答える。
「お母様から聞いたのね……ええ、私のお腹には子がいるようです」
「何て……ことだ……」
数歩後ずさり、ミシェルは頭を抱えてうつむく。見るからに衝撃を受けている。その気持ちはアデルにもわからなくはない。父親という立場なら尚更のことだろう。
「お前には、まだ相手がいない……婚約すらしていないのだぞ。それなのに、どうしてこんなことになるんだ!」
ミシェルは引きつった顔で、困惑と怒りが混ざった口調で怒鳴る。だがローザはそれに畏縮することもなく、じっと父親を見ている。
「それについては謝ります。けれど、私はこの命が宿ったことを嬉しく感じています。お父様、お母様にも、同じように喜んでほしい……」
これにミシェルの表情が険しく変わる。
「独身で身ごもった時点で、私達が喜び、祝える状況ではもはやない。こんなことが周囲に知れたら、お前の評判は我がガリフェ家と共に地に落ちてしまう! そうなれば鼻持ちならない者らの恰好の的だ!」
「そんな……私は愛する方の子を妊娠しただけです。この子を祝福してくれないのですか?」
ローザは自分の腹に手を置き、悲しげに父親を見る。
「当然だ! どこの馬の骨ともわからない男の子供など――」
「それはまだわからないでしょう。立派な方かもしれないわ。だから、ね?」
マデリーンは横から言うと、夫の顔をのぞき込み、自分の意思を暗に伝えた。……そう。今重要なのは妊娠したことではない。そうさせた相手が誰かということだ。
「そうだった……ローザ、お前を身ごもらせた男は誰なんだ。正直に言いなさい」
恐ろしくもあり、興味を引かれる瞬間――アデルは息を呑み、じっと耳をそばだてた。
「………」
しかしローザは口を開かない。目を伏せ、静かに瞬きをするだけだった。この様子に視線を向ける三人の中に悪い予感がよぎらないわけもなかった。
「ロ、ローザ、なぜ、黙っているの?」
マデリーンが上ずった声でたまらず聞くが、ローザの答えはない。アデルの頭には彼女が答えない理由が様々浮かび、緊張を高まらせる。
「……まさか、名前も素性もわからない男などというのではないだろうな」
それはアデルの頭に浮かんだ一つではあったが、とても聞けない質問で、それをミシェルははっきりと聞いてくれた。後ろに立つマデリーンも緊張に表情を固まらせ、娘を凝視していた。
「違います」
視線を向けたローザは、これには力強く答えた。ということは少なくとも名前や素性を知っている相手ということで、アデルは小さな安堵を得た。そこまでローザは見境のないことをする娘ではない。
「では一体誰だ」
「………」
ローザはまた黙り込んでしまった。するとミシェルは娘に近付き、両肩をつかんで揺さぶった。
「ローザ、言いなさい! 誰なんだ!」
怖い顔で聞く父親からローザは顔をそむける。その態度にミシェルの揺さぶる手にはさらに力が入る。
「私を無視する気か? なぜ言わないんだ! やはり言えないような男なのか?」
がくがくと揺らされるローザの表情は苦痛に歪む。それを見てマデリーンが止めに入った。
「あなた、手を離して。この娘は妊娠しているのですよ? 優しく接してあげて」
この言葉で我に返ったのか、ミシェルはすぐに手を離し、ローザから離れた。
「す、すまない……だがローザ、お前が言ってくれなければ、私達はお前とお腹の子をずっと疑い続けることになるんだ。それでもいいのか?」
また黙り込むかと思ったが、何か考えるような表情を浮かべたローザは父親を見て言った。
「それは嫌だけど……でも、私は言いたくありません」
両親は瞠目し、娘を見つめる。
「……言えないのではなく、言いたくない、のか?」
「ええ……言いたくない。けれど、決して言えないような方ではありません。それだけは信じて」
「ならば教えてくれてもいいだろう。胸を張って紹介できる男ではないのか」
「………」
ローザは黙った。それを見てミシェルは大きな溜息を吐く。
「そうか。わかった……お前は疑われたままで構わないというのだな」
「そんなことは言っていません」
「そう言っているのと同じではないか! それが嫌だと言うのなら男の名を明かせ」
強く言われたローザは唇を噛み、うつむく。どうしても言いたくないようだ。
「……もういい」
残念そうにそう呟くと、ミシェルは踵を返して部屋を出て行ってしまった。それをマデリーンはおろおろしながら見送る。
「お母様、ごめんなさい。私のせいで怒らせてしまって……」
娘の落ち込んだ声にマデリーンは戸惑いながらも優しく寄り添う。
「あなたのせいではないわ。ただ、あまりのことに驚いて……ミシェルも私もローザのことが心配なだけなの」
「ええ。それはわかっているわ。それでもやっぱり、言いたくないの……わかってください」
「何か、事情があるの?」
「それも含めて……ごめんなさい」
頑なに口を閉ざす娘に、マデリーンは成す術がなく表情を暗くする。
「……アデル、こっちに来てもいいわよ」
ローザに不意に呼ばれたアデルはビクッと肩を揺らした。これにマデリーンは視線を巡らせる。
「アデル? 一体どこにいるというの?」
「隣の部屋です。……さあ、来て」
マデリーンが去った後に出ようと思っていたが、呼ばれてしまっては仕方がなかった。衣裳部屋からおずおずと現れたアデルは、すぐに二人へ頭を下げた。
「も、申し訳ございません。盗み聞くつもりはなかったのですが、お部屋を出る機会を逸してしまい……」
「お父様とお母様が突然来て話し始めたのだもの。出られなかったのも仕方がないわ。私が早く呼んであげればよかったわね」
「いえ、私が出なかったのがいけないのです。以後気を付けますので」
「けれどまあ、話を知っているあなたでよかったわ。仕事を終えたのなら私と一緒に出ましょう。ローザを休ませてあげないと」
マデリーンに促され、アデルは部屋の扉へ向かう。
「お母様、おやすみなさい」
娘の声にぎこちない笑顔を返し、二人は廊下に出る。
「……あら、あなた」
廊下の先を見ると、先に出たミシェルが窓際で突っ立っている姿があった。マデリーンが歩み寄る後をアデルは付いて行く。
「何も、話さなかったか?」
小さな声の問いにマデリーンは首を横に振って答えた。それを見てミシェルは溜息を漏らす。
「そうか……私はあの娘と、この家の将来を暗いものにはしたくない。そのためには、手段を講じる必要が――」
「ま、待って。手段って、何か考えていることでもあるの?」
するとミシェルは、どんよりと曇った眼差しを向けて言った。
「問題なのはローザの腹にいる子だ。それを取り除きさえすれば、状況は元に戻る」
不穏な言葉に、マデリーンもアデルも表情を硬くさせた。
「取り除くだなんて……そんなこと、どうやって……」
「決まっているだろう。堕胎薬を使うんだ」
二人は同じように息を呑む。ローザの意に反し胎児を殺すなど、彼女を大事に思う者なら言えるはずがなかった。
「な、何を馬鹿なことを……ミシェル、あなた正気で言っているの?」
「もちろんだ」
「ローザは命を授かったことを喜んでいたわ。そんなあの娘からそれを奪うつもり?」
「ローザの将来のためだ」
「将来を思うのなら、堕胎薬なんて発想はしないはずよ。知らないわけではないでしょう? あれは母体にも悪い影響を及ぼすものよ。子を産めなくなったり、最悪の場合は死ぬことだってあり得る危険なものなのよ? そんなものをローザに使わせるなんて、私は絶対に認めませんから」
「ではこのまま産ませるというのか? 父の知れない子を」
「殺すよりはましでしょう。どうしても不満があるというのなら養子に出せば済むことです」
「成長した後に、ガリフェ家の当主の座や、財産を要求されるような面倒を起こされたらどうするつもりだ。父親の素性はわからないんだ。子を使い、地位や金を奪い取るやからかもしれない。もしそうなったら、苦労するのはローザ自身なんだぞ。私はあの娘の親として、そんな目には遭わせたくない。だから――」
「失礼ながらご主人様……」
勇気を出して割り込んだアデルを、ミシェルは怪訝そうに見る。
「……なぜメイドがいる」
今さらアデルの存在に気付いたらしい夫にマデリーンが言う。
「彼女はローザの世話係で、妊娠についても知っていますから気になさらずに……それで、何かしら?」
気を取り直してアデルは口を開く。
「ご主人様、ローザ様のことをなぜ信じて差し上げないのですか?」
「何を言うか。血を分けた娘なのだぞ。信じていないわけが――」
「そう仰るのであれば、堕胎薬などという危険なものに頼る必要はないと思うのですが」
「話を聞いていなかったのか? 私はローザの将来を心配しているんだ。あの娘に問題が降りかからないよう――」
「ローザ様はお相手の男性について、言えないような方ではないと仰っておりました。それをお信じになれば、金目当ての狡猾な男性とはお考えになれません」
「ローザにはそう見せているだけかもしれない。裏の顔を隠してな」
「ではご主人様は、ローザ様が騙され、そういった男性をお選びになったと?」
「可能性はあるだろう。あの娘はまだ若い。社交経験も浅く、人の性質など短時間で見極められるはずがないからな」
これにはマデリーンも小さく頷いた。
「信じてあげたいけれど、そこだけは私も同じよ。信用に足る相手を本当に選んだのか、不安は拭えないわ」
ローザは安い誘惑になびいたり、甘い言葉に騙されるような女性ではない――アデルはそう信じているのに、両親は強い疑いを抱いている。他人であるアデルのほうが信じているなど、何だか滑稽であり、皮肉でもあるが、それよりもアデルはローザの言動が疑われていることが悲しく思えた。たった一人の娘なのに、どうして信じようとしないのか。貴族として体裁を気にするのもわかるが、そんなことよりもっと大事なのはローザの身ではないのか――面と向かっては言えない疑問を頭の中で叫んでいるうちに、アデルの中には次第に怒りのような感情が湧いていた。
「相手の男など、どうせろくでもないやつだ。危険はあってもやるしかない。それがあの娘のためだ」
「危険だとわかりながら使わせることはできません。ローザが死んだらどうするつもりだというの? 簡単に責任がとれることではないのよ? 失えば二度と戻らない命だとわかっているの?」
「確実に死ぬと決まっているわけではないだろう。問題なく終えることもある。だから詳しい医者を呼んで慎重に、二十四時間経過を診させ――」
「お医者様を側に付ければ安心ということではないでしょう。たとえ命に別状はなくても、後遺症が残ってしまうかもしれないわ。そうなればそれこそローザの将来が――」
「ご提案がございます」
アデルが上げた声に二人の顔が同時に向く。
「……何なの? アデル、提案って」
怪訝な表情の二人を見据え、アデルは口を開いた。
「お二人がローザ様に抱かれる疑いや不安の原因は、お相手の男性の素性がわからないから、だと思うのですが」
「ええ、まあ、そうね……」
「わかったところで、好転するとは思えないがな」
すでに諦めてしまっているミシェルの声は無視し、アデルは続ける。
「では解決方法は単純ではございませんか」
「あの娘は貝のように口を閉じてしまっているわ。聞き出せそうにはないけれど」
「ローザ様からお聞きできないのであれば、こちらで男性を捜し出せばよろしいのです」
マデリーンの怪訝な表情がさらに深まる。
「簡単に捜すと言っても、私達には予定もあって、そんな時間はないわ。調査員でも雇えというの?」
「外部の人間を雇ったら、妊娠の事実が外へ漏れるかもしれない。私は許可しないぞ」
「雇う必要はございません。その役目は私に引き受けさせてください」
これに二人の目が見開く。
「あなたが? 捜して、見つけるというの?」
「はい。ローザ様のご交友関係を調べさせていただき、そこから――」
「はんっ、時間と労力の無駄だ」
否定するミシェルにマデリーンが言う。
「けれど、知れるものなら知りたいと、あなたも思うでしょう?」
「む、ううむ……」
否定的な考えでも、やはりそこは気になるらしいとわかり、アデルは言った。
「お相手が判明すれば、責任を取らせることも可能になります。ご主人様はそれをお望みではございませんか?」
「責任、か……」
眉間にしわを寄せ、長いこと考え込んだミシェルだったが、おもむろにアデルを見ると言った。
「……いいだろう。捜し出せる自信があるのなら捜してみろ。だが、そう長くは待てないぞ。腹の子が大きくなっては薬が使えなくなってしまうからな」
「あなた!」
マデリーンの非難の視線を無視し、ミシェルは続ける。
「せいぜい頑張ることだ。私は期待などせずに待っているとしよう」
廊下を歩き出したミシェルは、そのまま真っすぐ奥へと立ち去って行った。
「……アデル、本当に捜してくれるの?」
「もちろんです。奥様とご主人様のためにも捜させてください。ですが、必ず見つかるか、お約束はできませんが……」
「困難なことはわかっているわ。だからできるところまでで構いません。私も、必要なら手伝いましょう。その時は遠慮なく言いなさい」
「ありがとうございます、奥様……」
「では、あなたの仕事を他の者に代わってもらわないとね。信用しているから……頑張るのよ」
励ますようにアデルの肩に触れると、マデリーンも廊下を立ち去って行った。その後ろ姿に会釈し、アデルは見送る。優しい言葉をかけてはくれたが、マデリーンもミシェル同様、本当に男性を捜し出せると期待はしていないだろう。それをアデルは表情や口調から感じ取っていた。ローザの世話係とは言え、彼女がいつ、どこへ出かけ、誰と会っているかなどまったく知らないのだ。そんな状態からたどり、捜し出すことは、素人では難しいと誰でもわかる。だがそれでもアデルは見つける気をみなぎらせていた。表向きはミシェルとマデリーンのためだが、本心はローザのためだった。なぜ相手を言いたくないのかはわからないが、彼女は決して恥じるようなことはしていないと証明してあげたかった。男性との間には、疑いようのない愛が確かにあったのだと。その結果、素晴らしい命を授かったのだと。
「……よし」
息を大きく吸い込み、そして吐き出したアデルは、翌日からの調査に独り気合いを入れるのだった。
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