01 呼
「なんだいこれ?」
口に入れたその薄いオレンジ色の物体を思わず吐き出すと、沢村博二は叫んだ。
「妙な味だな」
「あら、おいしいのに」
うれしそうに、西田承子が答えた。
「それはホヤよ。マボヤ。いまが旬なの」
承子の目は、本当にうれしそうに笑っていた。
「数ある水性動物の中でも生物学的、そして化学的にとっても面白い生物。分類学的には脊椎動物と無脊椎動物を繋ぐ接点にいて、そうね、わかりやすくいえば、魚の前段階生物っていうところかしら」
「こいつがかい?」
そういわれて沢村は、盛鉢の中に横たわるその奇妙な酢付けの物体を、再度、神妙な顔つきで眺めた。箸で摘んでみる。どこかゴムのような印象だ。焼餅をゴムに感じるアメリカ人の感性? 沢村の脳裏に、ふっと、そんな言葉が浮かんだ。すると次の瞬間、そのゴムを膨らましてボール状にし、海藻を巻き、さらにフジツボを張りつけたような奇怪なイメージが、彼の右脳に射出された。
(無脊椎動物デアリナガラ、限リナク脊椎動物ニ近イ原索動物。全世界ニ二千種以上知ラレ、日本ダケデモ二百七十種ガ生息シテルワ)
沢村の右脳を共鳴させて承子がいった。頭の中で画が蠢く。マボヤ、ナツメボヤ、スジキレボヤのイメージが、入れ替わり、立ち替わり流動し、やがて養殖用のコンクリートや岩底に付着して、プランクトンを食餌するマボヤの生活史に移り変った。沢村は悲鳴を上げた。
「おい、承、勘弁してくれよ」
沢村が遮蔽フィールドを発生させる前に、そのイメージは、すうっと、けれども名残惜しそうに、彼の超能力認識部位(サイ・エコーノ・パルト)から消えた。彼は、ほっと、ため息をついた。
(トランス‐2、シス-7‐デカジエン‐1‐オール
CH3CH2CH:CH(CH2)3CH:CHCH2OH)(筆者註 小文字は下付)
承子が超能力言語(サイ・リングヴォ)でいった。頭の中で、その示性式が構造式に姿を変えて、踊りまわる。
「これが臭いの主成分。時間が経つと加水分解されるから、せっかくアイスパックで送ってもらったのにね、可哀想なホヤちゃん」
そう呟くと承子は、沢村が箸をつけなかった盛鉢の残りを摘み上げ、ペロリと一口で平らげた。
「うん、やっぱり、わたしはおいしいと思うわ」
そのとき、映話のベルが鳴った。東大・時間計測研究所の関谷典正助手からだった。
二〇三七年八月二十日。過ぎゆく夏の午後七時。それはまだ明るく、そしてまだ充分に和やかさが溢れていた。
「沢村です」
これ幸いと食卓を逃げ出すと、沢村はいった。
「あ、沢村さん。よかった。ご在宅でしたか!」
嬉しそうに関谷が応じた。日頃は落ち着いた男なのだが、今日の彼の声は、どこか浮き足立って聞こえた。
「急な話で申し訳ないんですが、沢村さん、現在、何か一日たりとも抜けられないプロジェクトに関わっておられますか?」
「いや、とりわけないですが……」
沢村は答えた。
「もちろん、関谷さんもご存知のように、いくつかのプロジェクトは担当していますが……」
「うん、それは好都合だ」
映話の中で関谷が指を鳴らした。
「じゃ、行けますよ、ぼくたちと一緒に。奈良丸先生も喜ぶだろうな」
「何の話なんです?」
沢村は訝しんだ。いくら最上級の機械感能力(サイ・マシーノ)が備わっていようとも、映話機の向こうの人間の相手の心の中までは読めなかった。
浮かれ上がった、それこそ天にも登ってしまえそうな声で関谷が続けた。
「時間風が発生したんですよ。それも、ものすごい規模なんです。中心のパイ(一瞬現在)を取り巻いて、パースト(過去)とフューチャー(未来)が一〇〇キロ以上もゆらいでいる」
「ということは、時間三量子(クロノトリオン)の観測計画?」
「ええ、沢村さんがこのところ組んでおられるブラック・ハムの推薦です。最初、この時間風観測のニュースは、彼の所にいったんです。機械知性は耳が速いですからね。そして、ぼくの上司、奈良丸に伝わった」
「奈良丸さんに?」
「ええ、奈良丸先生は、還暦はとうに過ぎたといえ、まだまだ時間風に関しては権威ですからね。日本政府もそこを信頼したんでしょう」
そういうと、関谷は心持ち声をひそめた。
「じつは、急を要するわけというのがあるんです。この時間風――性格には時間球かな、きれいな半球上らしいですからね――の観測について、新東西両陣営の雲行きが怪しいんですよ。詳細はわからないので、推測の域を出ませんが、軍が介入しているらしいんです」
「発生場所は?」
「リチアです。アリゾナ砂漠南西のリチア地区。なんでも、近くに合衆国のミサイル・サイロがあるらしい」
「だが、時間風に関しては、批准された条約があるでしょう。その観測のためなら、なん人、いや、どんな国でも、施設団を送ることができるという」
「はい、たしかに国際条約があります。で、ロシア側がそれを盾にとって、すでに、アメリカ入りしているんです。それも、立憲アフリカ連合総裁の、強力なゴリ押しによって……」
「危険だな」
「ええ、それが合衆国国防長官の癇にさわったらしいんですよ。いまの大統領、こういっちゃなんですが、前の大統領のスキャンダルで当選したようなものでしょう。こんな様子じゃ、再選は危ういですね。……ええと、で、そんなわけで、日本とか、その他の国の施設団がリチアに乗り込むには、いましかないというわけなんです。公明正大な平和愛好主義者の合衆国大統領が、国防長官を牛耳っているあいだにです」
「わかりました。で、いつ立ちます?」
「明朝。メンバーが集まり次第、ということになっています」
「他のメンバーは?」
「ぼくと奈良丸先生と電総研の橋本さん、それから通産省の役人が二人――これはどうも、内閣調査室の人間らしいんですが――あと、パデュー大学の新庄先生が、現地で合流することになっています」
「それにぼくですね」
沢村はいった。目を細めて、食卓の承子を見やる。
「超能力者(サイ・パースン)はぼくだけですか?」
「ええ、あ、いい忘れましたが、ブラック・ハムが遠隔操作装置(ドローン)の形で加わります」
「もうひとり、超能力者を参加させませんか? 専門は海洋生物学なんですが、計算機のオペレーターとしては最適ですよ」
関谷が戸惑った表情を浮かべた。
「それは、私の一存では何とも……」
「では、脅しましょうか? もし彼女の同行を認めて貰えないのでしたら、ぼくも参加しませんよ」
「ずいぶん強引なんですね」
関谷は若干表情を曇らせた。考え込んでいる。
「で、その方のお名前は?」
しばらくしてから、関谷が尋ねた。
「あなたも知っている人間ですよ。西田承子。ときどき、ぼくとブラック・ハムの時間三量子解析プログラムを手伝ってもらっています」
そして心に遮蔽フィールドを張って、沢村は思った。いま、承をひとり残していくわけにはいかない。この二日、彼女は出かけていた。そして、昨日は、彼女の十三回忌だった。いくら明るい表情を繕おうが、遮蔽フィールドを張ろうが、そのずたずたになった心の呻きは漏れてくる。
「わかりました」
関谷が答えた。
「しばらく待っていただけますか? 奈良丸先生と相談してみます」
だが、そういう関谷の表情は明るかった。
「たぶん、大丈夫だと思いますよ。実は、奈良丸先生、西田さんのファンなんです」
白い歯を見せてニコリと笑うと、
「では、五分後にもう一度かけます」
関谷は映話を切った。
(承のファンねぇ……)
沢村は関谷のまっ白な笑顔に、ふと、『特A一級の超能力者も人の子なんですねぇ』という彼の語りかけを聞いたような気がした。そして、『やっぱり、お仲間はお仲間同士、肩を寄せ合うんですか?』そんなふうに憐れまれているようにも感じた。
食卓に戻ると沢村は告げた。
「いま聞いた通りだよ。出掛けることになった」
「相変わらず、強引なこと」
「承のそばを離れたくないのさ」
「まあ、ありがたき、歯の浮きそうな台詞ね」
「そのお陰で、こないだ、親知らずを抜かれたよ」
「バカ!」
「まあ、そういいなさんな」
「わたし、まだ行くともなんともいってないのに……」
「じゃ、やめるかい」
「五分間考えさせてくれる」
「オーケイ」
そして五分後、関谷は西田承子の同行を認める映話をかけてきた。
沢村は彼女の同意を得るために、新しく冷蔵庫から供給された奇怪な薄オレンジのマボヤをふた切れ食わされた。
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