凪に還る

倉名まさ

凪に還る

 海はいでいた。

 波と呼ぶには微かすぎる揺らぎは静寂しじまを乱すことなく、遠目には鏡面のように制止して見えた。

 見渡す限り広がる水の世界。船や港はおろか、島影一つあたりには存在しない。


 そんな絶海の真ん中に、人間の女が二人浮かんでいた。

 水着すらまとわない、まったくの裸身だった。

 泳ぐでもなく、溺れるでもなく、二人は岸辺に舫う小舟のように互いの指をわずかに絡め、ただ漂っていた。


 そこには、いかなる生物的営みも感じられない。

 手足を動かすこともなく、顔をめぐらせることもなく、感情のうかがい知れない顔は上方を向いていたが、何も見ていなかった。


「あったかいね、かずみ」


 海の静寂を壊すことのない、静かな、とても静かなつぶやきがぽつんと水面に落とされた。


「つめたいよ、のぞみ」


 同じく、調和を乱すことのない小さな声が返る。


「そうかな」

「どちらもおなじことだけどね」

「そうだね、かずみ」

「そうよ、のぞみ」


 それきり二人は再び黙って漂い続けた。


 ✶✶✶


 どれほどの時が流れただろう。

 広大すぎる景色にあって、人間世界の時間感覚は意味をなさなかった。

 分や時はおろか、年単位の思考もそぐわない。

 地球が歩んできた何億、何十億という歳月に想いをめぐらせるのにふさわしい光景だった。


 原始大気の中から有機物が生まれ、酸素を産む緑へと変じ、やがて脊椎動物が陸へと這い上がっていくのを尻目に、海ははるか太古から変わらぬ営みを何億、何十億と繰り返していた。


 いまもまた、生物が生まれるはるか以前とおそらく変わらぬ姿で、西日が海へと沈みゆこうとしている。


 広大無辺の海に溶けた夕陽が水面を染め上げる。

割れた半熟の卵から黄身が染みだすように、空の茜と、それより少し濃い水の橙色が混じりあった。

 二人はほんのわずかだけ目線をめぐらせ、橙色の光源たる眩い西日を眺めた。


「おっきいね、かずみ」

「それにすごく赤いよ、のぞみ」

「うん。こんなに赤い赤、はじめて見たね、かずみ」

「そう。これが本物の赤よ、のぞみ」


 拙い表現だったがこの光景を言い表すのに、他に適切な修飾語が思い浮かばなかった。

 それに、それで十分に、互いに伝わった。


「ここれでよかったね、かずみ」

「そう。それにいまでよかった、のぞみ」


 ✶✶✶


 のぞみとかずみ。

 二人は無名の舞台役者だった。

 無名ではあっても、生活の中心には常に舞台があった。


 数多くの劇団を二人で転々としていた。

 学生演劇に毛が生えたような、幕を上げられるかどうかすらぎりぎりのトラブル続きだった劇団にも、皆で一つの作品を懸命に形作る喜びがあった。

 難解な脚本に苦しみ、芸術家肌のワンマン演出家に怒鳴られつづける毎日だった公演も、自分に求められているものが少しずつ肌に感じられ、新しい地平が開けていくような感覚を味わえた。はじめて二人そろって演技を褒められた時は、思わず涙がこぼれた。

 大手のミュージカル劇団に端役で出演したこともあった。プロの世界の凄みを間近で感じられる公演だった。


 けれど、二人は“その先”を求めた。

 自分達が、本当に心の底からこの舞台に立つために役者を続けていたのだと思えるような公演。自分達に「ふさわしい」などという言葉を遣うのはおこがましいかもしれない。


 けれど、世の動きに捉われない自由な意思を信条とする舞台という世界に生きる者として、なしくずし的に、しがらみからどこかの劇団におさまってしまいたくはなかった。


 そして、二人は見つけた。

 脚本を読んだだけで、肺の奥底が震えるという経験をはじめて味わった。

 互いに意見をたしかめあう必要もなかった。

 この場所に役者人生の全てを賭けよう。そう決めた。

 規模にすればそれは二百人の劇場を埋めるのがやっとの小劇団だった。けれど、そんなことはなんの問題でもなかった。


 稽古が進むにつれ、予感は確信へと変わっていった。

 脚本だけではなかった。演出家も、他の役者も、作曲も全て二人が夢に想い描いた理想通りだった。


 それは、稽古期間半年、公演に一カ月も使う、ロングラン作品だった。

 舞台に携わる誰もが、その公演に全力を注いだ。

 この次、はないことを皆気づいていた。この公演が終わった時、演出家が劇団を解散させる腹積もりなのは明らかに思えた。

 日を重ねるにつれ、劇団員皆が一個の生命体となって、魂の絆とも呼ぶべき強い紐帯ができあがっていくのを感じていた。


 二人が担ったのは準主役という役どころだった。

 だんだんと、自分の存在が透きとおるように澄んでゆき、役と自身が混然一体となってゆく。

 自分達が生まれついての舞台役者であることを、これほどまでに実感したことはいままでになかった。


 この公演が幸せの絶頂であることを二人は悟っていた。

 劇団が解散したのち、これ以上舞台を続ける意味を二人は持っていなかった。


 後ろ髪を引くものはなにもない。

 過熱する稽古の日々と並行して、二人はひっそりと身辺整理をはじめた。

 共同で住んでいるアパートには元より家具の類は多くない。あるいは売り払い、あるいは知人・友人に譲り、生き場のないものは捨てた。

 千秋楽の日に合わせた部屋の解約の手続きも済ませた。

 家族は元より、友人達皆を連日の公演に招待して、会うべき人間には全て会い、終演後には心ゆくまで話もした。


 ✶✶✶


 二人の住まう国よりはるか南、島影一つない絶海に自らの身を捨てる。

 それはなかなかお金も手間もかかる計画だった。

 しかし、稽古日の合間に二人で話し合い、予定が具体化していくにつれ、不思議と心が弾んだ。一生に一度の計画、悔いは残したくなかった。

 

 二人は最期に長い手紙を遺した。

 登場する固有名詞こそ違えど、その内容は酷似していた。


 父母、家族、友人達、数々の劇団で出会った仲間達にあて、感謝の念と幸福を祈る想い、出会えた幸運をつづった。

 役者として生き抜き、悔いなく舞台に立ち続け、望みうつ最上の形で幕を引くことを決意した、自身の心情を余すところなく吐露した。


 理解されなくても仕方ないが、と前置きしたうえで、自分達が幸福であることを何度も何度も強調した。

 この行為には悲しみも恨みもない。だから水面悲しまないでほしい。そう願った。


 それでも、二人のことを嘆き悲しむものもあろう。あらぬ噂が立つかもしれない。 

 劇団に迷惑がかかる可能性もあった。

 けれど、それは仕方のないことだった。

 胸の内を伝えるべく、自分達のできる限りのことはしたのだから……。


 ✶✶✶


 西日に染められ、赤く燃え上がってゆく海原。

 どこまでも広がりゆく水面に抱かれる恍惚感は、スポットライトを浴びて立つ舞台の浮遊感にどこか似ていた。


 生まれる前からこの光景を知っている、そんな気がした。


 すべての生命が海から生まれた、ということがなんの根拠も必要なく本能的に理解できた。

 母胎の海から生まれ出でた生命が、また母なる海へと還ってゆく。

 それはどこまでも自然で、そして幸福なことに思えた。


「そろそろいいよね、かずみ」

「ええ。日が沈んでしまう前に、のぞみ」


 二人はつないだ手に力をこめ、互いの身体を引き寄せあった。

 腕と腕、脚と脚が絡まりあう。

 ぴったりと折り重なった二人は、交互に上になり、下になりながら、凪の海の静寂を壊すことなく、


 ―――静かに静かに沈んでいった。

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凪に還る 倉名まさ @masa_kurana

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