第二章:旅
出立
旅に出ようといっても、そんなすぐに出られるものではない。夕方にも一つアルバイトを入れて旅の資金を貯める。一日の労働時間は多い日で十時間になった。時給の高さも相まって一日当たりの収入は一万円強だ。家から持ってきた通帳にはほとんど手を付けていないから、一部はそれを取り崩すとして、それでも貯金を使うのは三割に抑えたい。
そうして、もともとの貯金も合わせておよそ三十万円の資金が貯まったところで僕はすべてのアルバイトを辞め、半年分の家賃だけ大家さんに渡しておよそ四ヶ月住んだ部屋を出た。いつまで旅を続けるか分からない。来週にはこの街に帰ってきているかもしれないし、もうこの街には帰ってこないかもしれない。月に一度送っている自宅宛ての手紙にも旅のことは記した。
外に出ると窓越しに聞こえていた蝉の大合唱がますます大きく聞こえた。世間では海の日とやらで道路も飛行機も電車もバスも大混雑だというが、鄙びた街落窪にその喧騒は届かない。一乗車百円のコミュニティバスは空気を運んでいるし、昼下がりの商店街は猛暑の影響もあってかひと気がない。
僕はシャッター通りを抜けて駅前の小さなロータリーに辿り着く。街路樹の根元には暑さを嫌ったトラ猫が四肢を伸ばし、その横に止まったタクシーの中では人当たりの良さそうな運転手のおじさんがまどろんでいる。
あまり時間を気にせずに家を出てきたため、運悪く電車はしばらく来ないようだった。これ幸いとのんびり切符を買い改札を抜ける。ちょうど一本の快速電車が通過していく。青春十八きっぷを使いたいところだが、あいにく快速電車にも見放された落窪駅は立派な駅舎を持つにもかかわらず、無人駅でみどりの窓口や指定券券売機などあるはずもない。一度、主要駅に行かざるを得ないのである。どうせなら行先の選択肢が多い東京駅に行こうと考え一番線ホームのベンチに腰掛ける。水道を止める直前に満たしてきたペットボトルをリュックから取り出しキャップを捻る。まだ少し冷たさのようなものが残っている。
フォロワーのほとんどいないTwitterのアカウントを開き、旅に出る旨を呟く。半ば日記のようなものだ。フォロワーは現実世界の知り合いとは無関係であり、何故自分なんかをフォローしているのか理解に苦しむが、別に見られて減るようなものではない。どういうわけだかすぐにいいねが付き、僕はアプリを閉じる。ふとLINEを開くと、親友からメッセージが届いていた。『旅に出るんだって?』とだけ書かれている。Twitterのフォロワーは現実世界の知り合いと無関係だと言ったが、一人だけ例外がありそれがこの親友──遠川卓だ。こちらに越してきてから契約したスマートフォンで最初に連絡を取った友人であり、唯一の友人である。ご想像の通り僕は友達が少ないが、仲の良い友人が一人いれば十分なのではないかと思ってしまうのだ。
『そうだよ。行先は未定』とだけ返信してスマートフォンを閉じた。東京方面に向かう普通電車の入線を報せるアナウンスがホームに響いた。
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