昇華

音槌和史-おとつちまさふみ-

第一章:上京

上京①

 枕元に転がった携帯電話が七時を報せている。鉛のように重い身体を何とか起こしてカーテンを開ける。普段なら重力に負けて布団に包まれるところだが、今日ばかりはそんな悠長にしていられない理由がある。

 そう、今日は巡春出版の文芸誌『陽春』の発売日なのだ。郊外とは言え、ここらも一応は首都圏内。朝八時の開店時には店頭に並んでいることだろう。

 のそのそとベッドから降りて、台所へ向かう。こんな時間に布団から出るなんていつぶりだろうか。なんてどうでもいいことを考えるのは良くない。

 ──がっ。

「いった……!」

 考えてみるにここは怠惰な日々を過ごす十九歳フリーターの一人暮らし部屋。日当たりの悪い西向きの狭い空間に、しわしわのシーツがいつまでも敷かれているベッドやこの部屋に越してきてから一度も読んだ記憶のない本が並ぶ棚、原稿用紙が何枚も散らばった卓袱台などが押し込められている。“通路”なんて概念はなく、ただひたすら床の至る所にあらゆるものが置かれていたり積み重なったりしているため、足元に注意しなければすぐに足の小指を傷めるか、タワーが崩れて余計に足の踏みどころが無くなるかのどちらか、もしくはその両方の未来が待ち受ける。今しがた僕がぶつけたものは扇風機だったため、最悪の未来は免れたと言っていい。右足の小指が痛いことはどうしようもないが。

 とは言え、こんなことにかまけている暇は無い。さすがにこの状態で家を出るのはさすがにまずいのである。鏡は見ていないものの、なんとなく髪の毛が逆立っている気がする。

 慎重に歩を進めて台所に辿り着く。無論、ここにも鏡はないのでなんとなくの勘で髪を濡らし、顔を洗い、髪と顔をまとめてタオルで拭く。洗濯と皿洗いだけは真面目にやっているのだ。あとは積み重なった洗濯物から適当に取り出して着替え、適当にオーブンレンジでロールパンでも温めて食べるだけだ。なんだか自分がすごくまともな人間に思えてきた。そんなことはないのだが。

 腹ごしらえを済ませ、クロックスもどきをつっかけて部屋の扉をそっと開く。梅雨時らしい低く垂れこめた黒雲からは今にも水滴が落ちてきそうである。

「一応、傘でも持って行っておくか……」

 そう独り言ちて、玄関に立てかかっているビニール傘を手に取る。骨が茶色く錆びてきている。いい加減、まともな傘を買わなければ梅雨末期の豪雨には耐えられそうにない。

 一歩足を踏み出し、吹き曝しの通路に出る。軋む。歩くたびに悲鳴を上げる。すかすかの鉄階段を慎重に下りてアスファルトに踏み出す。ここから書店までは徒歩十分程度。普段──と言っても週に一度、通う近所のスーパーよりは少し遠いが、大した距離ではない。寂れてシャッターだらけになった元商店街を通り過ぎて、この町の中では比較的賑わっている通りに出ると、そこには風情ある二階建ての風枝書店が建つ。このあたり一帯にも再開発の波が押し寄せつつあり、昭和の時代から残るというこの建物もいつか姿を消してしまうと思うと、この街に住み始めて僅か数ヶ月の人間とは言え、物寂しいものがある。

 手動の引き戸をガラガラと開け、『陽春』を探す。今日発売とあって、さすがに目立つ場所に平積みされている。シンプルな白を基調とした表紙の、けれどもその分厚さが存在感を示す文芸雑誌を手に取り、レジに向かう。表紙には大きめの字で「新人賞発表」と書かれている。スマートフォンの画面に映ったQRコードで決済し、商品を受け取りながら店員さんに小さく「ありがとうございました」と呟く。

 店を出る。右手首に掛けたビニール傘の出番はとりあえずのところ無いようだ。それならば、と僕は車が来ていないことを確認してから道路を渡り、人気のない公園のベンチに腰掛ける。そしてつい今しがた買った『陽春』を慎重に開く。そっとページをめくり目次を上から順に見ていく。「新人賞作品発表!」の文字。そして──そこに僕の名前、示坂春哉の文字は、無かった。

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