争えない血(2800文字程度の短編)

夕奈木 静月

第1話

「ふふっ……。ところでこの写真に見覚えありますよね、石神いしがみ課長?」


 嘉美子かみこのほっそりした白い指が悩まし気に組まれては解かれる様子をいつの間にか目で追っていた石神は息をのんだ。


 古いプリント写真には若き日の自分が笑顔でカメラを見つめて微笑む姿があったのだ。


 そしてその隣には忘れもしない、高校の時に始めて交際した少女の姿が。


「――! えっ……?」


「先月末、実家の掃除をしに帰っていたら、たまたまお母さんの古いアルバムを見つけて……。気になったので拝借してきちゃいました!」


「お母さん!?」


 そういえば当時、付き合っていた同じクラスの女子がいた。石神は必死で名前を思い出そうとした。いや、でも結婚で苗字が変わっているじゃないか。慌てる自分に苦笑いをする。


 いやいや、それにしてもだ。どうしてそんなに元気よく報告できる? 石神は嘉美子の神経が分からなかった。


 でも、これだけあっけらかんと言われたことで、逆に重い気持ちにならずに済んだと、無意識に感謝もした。


「いつ言い出そうか、ずっと悩んでいたんですよ。私なりの気遣いです。でも、どのみち言わなければならないなら早い方がよかったかもしれませんね?」


「……」


 悩んでいた、と言いながらも嘉美子の表情は明るく、状況を楽しんでいるようだと石神は思った。


「私の母とも交際していたのですね……。血は争えません。まさか私にまで気持ちを向けてくるなんて」


 全て伝わってしまっていた。雨の日の傘も、社員食堂での親切も、全部下心を見破られていたのだ。


 石神はどうしようもなくなって頭を抱える。嘉美子は笑いを抑えきれない、といった様子で「認めますね?」と尋ねた。


「いや、これは……違うんだ」


「違いません」嘉美子は石神の目を覗き込んで繰り返す。「違いませんよね? うふっ」


 子どもを諭すように見つめられ、暗示にかけられる。石神の意地が陥落するのはあっという間だった。


「違……わないです」


 自分は今、年甲斐もなく頬を真っ赤に染めているのだろう。石神は苦笑いしながらも、自分の気持ちを正直に認めたことで楽になれた。


「そうそう、隠すことなんてないんです……。人間、素直が一番ですよ。私を見てください。なにもかもをありのままに伝えるとこんなに楽なんです。少しは分かってもらえましたか?」


 なおも笑みを絶やさない嘉美子。


 この子の持つ謎の押しの強さと、それを納得させる不思議な雰囲気には、どう逆立ちしてもかなわない。


 石神は20歳以上も年下の部下に完全に手玉に取られてしまった。しかも、そんな情けない状態を決して不愉快だと思わないでいる。


 そんな精神状態にある自分が不思議で仕方なかった。


「ねえ、今日も雨、降ってますよね。どうしますか?」


「どう……って」


「また一緒に帰りますか? ってことですよ」


「いや……」


「はい、3秒以内に答えてください。イエス? ノー? どっちですか?」


「い、イエス……で」


「素直でいいですね。ねえ、変な大人にならないでくださいね?」


「変、って?」


「おかしなところで意地を張ったり、駆け引きするような大人です」


「俺のことじゃないか」


「そうですよ。ふふっ」


「……だったらどうして俺と関わる?」


「そうでないところを見せてくれてるからに決まってるじゃないですか。石神課長はまだやり直せます。汚れを知らないころに戻れます」


「そうかな」


「そうです」


 二人でエレベーターを降りる。通用口の自動ドアが開く。


 ガラスにくっついた雨粒が強い風で押し流されて弾け飛んだ。


 それでも耐えて残っている粒がいくつかある。それを見たのか嘉美子が言った。


「ああやってしがみついててくださいね。吹き飛ばされたのが『つまらない大人』です。石神さんはそうじゃなければいいですね。一生……ううん、死んだ後も。そうしたら私、あなたのことをずっと視界に入れていくかも、です」


 回りくどい言い方をする嘉美子が何を考えているのかさっぱり分からない。石神はそれでも、期待を持たせるような態度には抗うことができなかった。


「雨、ひどいですね。どこか寄って行きましょうか」


 紅潮させた顔で、ふいに嘉美子が言った。


「えっ!?」


 まさか……。石神はあんなことやこんなことを否が応でも期待してしまう。


「とりあえずそこの喫茶店にでも入りましょうか」


 手を引かれて、昭和の香りのするツタの絡まった古めかしいカフェに入る。まるで昔この子の母親とよく通ったあの喫茶店のようだと石神は回想した。


 席に着き、ウェイトレスに注文を伝える。


 石神も嘉美子もホットを頼んだ。


 冷たい雨だとお互いに感じていたらしい。


 10月の雨の感じ方は人によって異なる。だから自分と同じ感覚だった嘉美子に対して石神は運命的なものを勝手に感じていた。


 今の石神の頭の中は完全に高校生のそれだった。陳腐な運命論が彼を支配し、子供じみた思考が都合のいい未来を幻想させる。


 でも、こうして嘉美子と一緒に店に入る、なんてことは今までなかった。初めてなんだ。ということは今後の展開だって期待しても――


 石神の思考を断ち切るようにコーヒーが到着する。それを少し口に含んだ嘉美子はいきなり切り出した。


「石神課長、当然将来のことって考えてますよね?」


「ん? ああ、もちろんだ」


「私も最近よく考えるんです。自分が年を取っていった先のこと。ずっとこのまま独りぼっちでいいのかって……」


 テーブルの下に隠れた石神の拳が強く握りしめられる。まるでガッツポーズだ。


 だが、そんな彼の純粋な気持ちを踏みにじるような無慈悲な一言が嘉美子から発せられた。


「石神課長も一緒にどうですか? 今のままではこの国は先細りです。私たち仲間と一緒に、なんとかしていきましょう」


「……?」


 何を言っているのか、と疑問符で頭がいっぱいになる石神に向けて、嘉美子はパンフレットを差し出した。


「まずはできることから始めていきましょう。何ごとも最初の一歩が肝心ですよ?」


「……い、いや、俺の家は熱心で……敬虔な仏教徒だから……」


 ようやく状況が飲み込めた石神はしどろもどろになりながら答える。


 自分はそんなに悩んでいるように見えていたのか……。


 石神は日頃の自分を振り返ってみた。そして、いま目の前で起こっている出来事に対して妙にリアルな既視感を感じた。


 そう。彼が高校時代に嘉美子の母親と別れた原因も今回とまったく同じものだったのだ。


「……」


「答えは今すぐじゃなくてもいいですよ。ふふっ……」


 からかうように薄く笑う嘉美子の姿に、石神は過去に付き合ったこの子の母親を重ねた。


 言っていることも顔もまるで数十年前と同じことを繰り返しているように思える。時間が巻き戻ったような奇妙な感覚に鳥肌が立つ。


「よく考えてからでもいいですよ……。その気になったらいつでも言ってくださいね。ずっと待ってますから……。うふふっ」


 目の前の嘉美子が幻影のように見えて思わずまばたきをしてしまった。


 了












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争えない血(2800文字程度の短編) 夕奈木 静月 @s-yu-nagi

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