[朗読]「山人(やもうど)の覚悟」-nonfiction-

ユキムラ テン

「山人(やもうど)の覚悟」

寒い、痛い、怖い、そんなのは雪山に登っていれば当然だ。

山岳部でも何度も雪山に登ってきた。レクチャーも受けている。

学生の頃も、登山家・調査隊の一員になってからも変わらず、怠らず、自分なりに真剣に取り組んできた。

山が好き。ただ、それだけでは生ぬるい。

何度も言われてきたことだ。

「山が好きなら人より覚悟をしてこそ山人だ」

「特に雪山は危険だ」と。

何度も何度も言われ、その教訓を胸に刻み、登った経験のある山でも油断した事など無い。

十分な覚悟を持って、毎回挑んできた。

十分な覚悟を持って、一歩ずつ、一歩ずつ。



でも、全く、本当に全く、足りなかった。

「本当の雪山の怖さ」を知らなかった。

そこは以前に何度か登った山。

もちろん油断はしていなかった...と言いたいけれど。

今思えばそれも、「油断していない」「覚悟している」という思い込みにすぎなかったのだろう。

「油断していない自分」

「覚悟している自分」

その思い込みを「真剣」と勘違いしていた。


今なら分かる。

過去の自分に言ってやりたい。

「覚悟しているつもりだろうが、そんな覚悟では微塵も足りていない」



足を踏み外して落下しそうになったり、硬い岩で体を打ったり、脱水で意識を失ったり、落下物で体制崩して怪我をしたり。

そんなことを乗り越えて強くなった気でいたのだろう。

そして、その程度のものが「山の怖さ」だと、心のどこかで思い込んでいた。


確かにそれも「山の怖さ」に違いない。

ただ、それは「本当の山の怖さ」には到底及ばない事だった。



とある一月、とある雪山、グループ登山。

標高約1,580m地点、気温-10度、風も比較的穏やか、視界良好、問題ないように思えた。

けれど、我々登山隊からの視界で見渡せていたのは少し遠くにある大きな岩までだった。

「その先はまだ大きな岩がある程度の道が続くだろう」

「岩を避けながら進めばいい」

そうルートを浮かべながら進んでいた。




突然、遠くから聞こえてくる心臓が重くなるような重音と、斜面から伝わる強い振動で足が止まる。


メンバーも足が止まる。

それに対し、どんどん近付く重音と振動。

耐えるようにメンバー一同、ロープで周りの頑丈な木や岩に素早くしっかり自分を繋げる。


そして、重音と振動の正体はすぐに姿を現した。


雪崩。大量の雪。


重音を轟かせながら迫る雪が大きな岩にぶつかり分裂し雪崩は軌道を変える。

こちらまで雪崩が届いた時、足を取られ転び、左肩を脱臼し左半身が雪に埋まってしまったものの、幸いにも脱臼以外は無傷だった。

メンバーも全員生還。



全員が落ち着きを取り戻そうと必死なその中で最重要優先事項。

救助の要請、メンバーの状態と雪崩の報告。

すぐに的確に、淡々と報告を終える事ができた。

全員が口を揃えて「不思議だった」と語る程、誰も覚えていない。

今思えば、パニックに見られる混乱しているが故の客観視だったのだろう。


じっと表情を変えず耐える者、恐怖を訴える者、声を堪えながら泣く者、注意喚起や慰めを声がけする者、メンバー様々に救助を待った。


そんな中自分はメンバーの顔を必死に見渡し、メンバーの声をじっと聞いていた。

声が出なかった、かける言葉も思い付かなかった。


自分もメンバーも生きているその事実に、心を委ねるしか無かった。



時間にして報告から一時間前後、無事救助される。



助かった。死ぬかと思った。生きている。怖かった。

色んな感情が混ざり、身を寄せ泣いた。



救助されてからの生活は、雪崩の事を夢で見る、あるいは、起きている時寝ている時関係なく、今、あの雪山に実際に居てあの光景を見て雪崩が迫ってくる感覚、音、あの時のメンバーの声が聞こえ、今まさに全身、全感覚で「再体験」をしてしまっている錯覚に陥る「フラッシュバック」


今、寒い場所ではないのに、雪に埋まってしまった左半身のあの時の冷えの感覚。


山や雪に対する異常なまでの強い怒りに支配され、突っ伏してしまうことも度々あった。



PTSD。雪崩から一ヶ月後、そう診断された。

自然災害に巻き込まれた人や殺されかけた人などがかかるというこの病気は、自分の中ですぐに納得でき、すんなりと受け入れられた。



おかしくなってしまったんじゃないか、もう普通には戻れないんじゃないか、みんな離れて行ってしまう、

そんな不安に駆られて無理にでも大丈夫だと言おう、安心してもらおう。離れて行かないように。

皆の前ではいつもの自分...

そう思って無理しては悪化し、無理しては悪化しを繰り返した。


そんな事をして‪‪もまだ心と体は雪山の中だと、そんな思考に支配されてはまた突っ伏した。


PTSDになったのはグループで自分だけ。

そのことでメンバーに対しても怒りを覚えてしまう。

どうして自分だけ...

そんな最低な事を思ってしまう自分と、メンバーは無事で良かったと思える自分。

「無事で良かった」と口では言うがどうしても過ってしまう「どうしてお前たちは...」という嫉妬に似た怒り。

そんな自分が大嫌いだ。


自分だけにしか分からない閉塞感、自分だけにしか分からない症状。

誰に会っても誰に話しても結局はまだ心と体は雪山の中。



自分の中で自分だけしか戦えない試合。

戦うなんて一言も言っていないのに戦えと強制的にゴングを鳴らされた試合。

...負けるに決まっている。

症状が薄い時ですら不安で怖くて潰される。

きっと自分は変わってしまった。おかしくなってしまったんだ。


そう変に受け入れて閉鎖的にそして皮肉的になっていたんだと思う。

誰の言葉も聞きたくない。分かるわけがない。


「大丈夫変わってないよ」と声をかけてくれた人はいた、ただ、どうしても響かなかった。

なぜなら、良くも悪くも「変わってない」わけがないから。

それは自分で痛いほど分かっている事だから。



そんな中、「そんな経験をすれば変わっていったのは当たり前、おかしくない」そう声をかけてくれた人がいた。

「君の心と体はきっともう雪山にはないよ」続けてそんな言葉をくれた。



大袈裟な話だと思うだろうが、この言葉でスッと体から重いものが外れた感覚がした。

「あの経験で自分はおかしくなってしまったんだ、正常じゃない」「心と体はまだ雪山の中」

雪崩を経験する前、

覚悟していると思い込んでいたように。

自分自身のことも自分の中で思い込んでいた。


欲しかった言葉はこれだったのかもしれない。

嬉しいのか安心したのか、どういう感情なのかは自分でも分からない。

ただ、「この言葉だ」と腑に落ちた。

この言葉が欲しかったタイミングでもあったんだろう。


タイミング良く刺さった言葉は抜かずに、自分のものにしていけばいい。

人の言葉に耳を塞ぐのは勿体無い。

きっとこんな経験をしなければ真の意味で気付けなかった勿体無さだ。



自分の殻からは抜け出した。

あとは自分で一歩ずつ、一歩ずつ進めていけたらいい。



そしてもう1つ、ふと聞いた友達の声劇。

楽しそうに声で役を演じる友達に強い憧れを抱いた。

演技の経験も、物語を創作した経験も一切ない。

今までしたいとも思わなかったジャンル。

それでも、声で役を演じる演者、物語を作り上げる作家。

どっちも絶対にやりたい。やり続けてみたい。

登山を続けたいと決意した時に似た、強い衝撃と好奇心。


これは元気なフリじゃない、本物の高まり。

本物の好奇心。


「したいと思ったならしてみよう、好奇心は成長の証」

他の誰でもないその友達からの言葉。

急に目の前の濃霧が晴れた。

そこからは声劇に、台本に夢中になった。



仕事は雪崩から一年後に、登山家・調査隊からクライミングジムのスタッフに転職した。

クライミングジムでお手本係として今でもボルダリングの壁を登っている。

あんな事があって、こんな事になっても山が好き、登る事が好き。

その気持ちだけは持っていたかった。

山から離れても、これから山に挑む山岳部や登山家と関わって生きている。


なぜなら山の本当の怖さを知ったものの、まだ、山の本当の怖さは他にも沢山ある。

どれも並大抵の覚悟では飲まれてしまう。

「覚悟をしていると思うな、まだまだ足りない」

「思い込みが命を落とす一番の原因」

「自己責任、だけど自分だけで決めるな」


本気で真剣に登山をする山人に伝えたかった。


経験して負った傷と、経験して学んだ本気がやっと釣り合ってきているような気もする。

それくらい山人達に伝わっている自覚も本人たちからひしひしと感じ取れる。


心の底から「経験して良かった」と思えるにはまだ時間を要するだろう。

そう心から思える日は来ないかもしれない。

それでも良い。

一つでも、ここから教訓を得て、

一かけらでも、誰かの胸に刻まれて、

一筋でも誰かの心に光をさすことができたなら、

「甲斐あった」というもの。


そう信じたい。




そして2022年9月、強烈なフラッシュバックの後、

自分は自分の声を失った。


口から言葉を紡げなくなった。

真剣な山人たちへの講義も、演者として演じることも出来なくなった。


きっとタイミングが悪ければ塞ぎ込んで何も見ないよう聞かないよう自暴自棄になっていたかもしれない。


こうして踏ん張れているのは、体と心を蝕むほどの経験の中でも確かな教訓を得られて、第三者に伝えられたという実績と実感があるから。


そして、声が出なくても伝えられる手段はいくらでもある。

どうなったとしても人から人へ伝える手段は途絶えない。


これはただの感情論ではなく、自分の中に確かに存在する核となる信念。


演者は出来ない、でも台本は書ける。

じゃあ、台本で伝えたい、文字で伝えたい、そこで誰かの何かに良い影響をもたらせたら、

書いて良かったと心から思える。


経験を昇華できたとは思っていない。

辛いものは辛い。怖いものは怖い。

これは変わらない。


自分の台本を読んでくれる嬉しさ、評価してくれる嬉しさ。

何より自分自身を認めてくれる嬉しさ。

これは感謝と共に持ち続けなくてはいけない。

これは変わってはいけない。


欠けたものに埋め合わせをして前を向く意識を離さない。


そう意識しながらでも自分自身を生きて行けたら良い。


心の赴くままに、ある程度の自制心をかけながら時には自分から開放されにいってもいい。

本来はそうであるべきだと思う。



雪崩から10年以上が経っている現在も症状と戦っている。

今までたくさん負けてきた、だから負けそうになったとしても、もう負けたくない。


「負けるに決まっている」と思い込んでいた過去の自分に今の自分を見せつけてやりたい。逃げるなと。


今楽しいぞ、面白いことが沢山あるぞ、と、これからは過去の自分に言ってやりたいことが絶えないくらいの道を進んでいきたい。


皆さんの人生もそうであって欲しいと強く、強く、願う。



これは、ある元登山家のエッセイ、いや、どうか、

伝書と言わせていただきたい。



【完】



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ここまで読んで下さった皆様、本当にありがとうございます。

演者の皆様、私の言葉を声で代弁してくださり、そして、伝えてくださり本当にありがとうございます。 【ユキムラ テン】










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