夕木春央『方舟』(2022年・講談社)※未読者向け

 設定を見た瞬間に、「絶対にハズレがない」と確信出来る作品があるが、『方舟』は、その最たる例と言えるのではないだろうか。


 地震によって地下建築に閉じ込められた九人。徐々に地下水が迫り上がって来て一週間で水没してしまう。脱出のための扉を開けるには、誰か一人が閉じ込められて犠牲になる必要があると判明する。そんな状況で、殺人事件が発生する。当然、犯人こそが他の皆のために犠牲になるべきだ、と全員が考え、危機的な特殊環境での犯人探しが始まる。


 言わば、本格ミステリとトロッコ問題(複数の命を助けるために一人の命を犠牲にすることの是非を問う倫理問題)の融合である。こんなの、面白いに決まっている。まずもって、何故そんな状況で殺人事件を起こすのか意味がわからないし、仮に犯人が明らかにされたとて、殺人者が素直に「謎を解かれたからには約束通り、私が犠牲になって皆を助けよう」みたいな殊勝なことを言うわけがないので、本当の危機の解決には直結していない。一波乱も二波乱もあることは想像に難くない。

 私がこの作品を読んだ時(2023年2月)、すでに各所のミステリーランキングで好評を博していたので、ある程度の面白さは織り込み済みだったのだが、読んでみたら、その事前の想像すら遥かに超える衝撃が待っていた。私は読了後、あまりの興奮に、「天才が現れた!」と一頻り騒ぎ立て、そばにいた妻に簡単なあらすじを説明した上で、「絶対に気に入るから、読め。今すぐ読め」と、もはや布教を超えた「強要」活動に勤しむ羽目になった。

 私の妻は、「人間がとにかく沢山死ぬ」且つ「おどろおどろしい村の因習などが絡んで残虐な見立てなどが発生する」タイプの民俗ミステリ作品しか受け付けない上、「男女間の健全な恋愛話」が出てくると虫唾が走るという(言葉を選ばずに言えば)異常者であり、「作品中で二人以上殺されるのか」「よもやラブシーンなどはありはしないだろうな」などと本質的でないところばかり気にして読むのを渋り、あまつさえ「結局、皆助かるのかね? どうなのかね?」と、一足飛びに結末まで知りたがる始末であったが、とにかくその衝撃を分かち合いたかったさすがの私もネタバレには踏み込まず、「絶対に読んで良かったってなるから。読み終わった後、私と同じように叫んでるから。読め」と執拗に繰り返した。「ハードルを上げられ過ぎたせいで、そんなの、絶対、思ったより大したことなかったってなるわ」とクレームをつけながら、妻は二日後の平日昼間に本作を読了してくれた。仕事中だった私に、「驚いた」旨を伝えるLINEスタンプを連続で送って来た末、「ショックが大き過ぎたので少し横たわるわ」と謎の昼寝宣言をして沈黙した。帰宅してからは、本作に関するディスカッションで時間が飛ぶように過ぎていった。娘を置き去りにし、約一週間、家族の話題は『方舟』のこと一色になった。

 「話題になっているから読もうかどうか迷っている」という人には、「読まないと一生後悔する」と伝えたい。特に、ミステリ好きの人間は、人生の半分を損する。それくらいの作品である。

 私と妻のディスカッションの内容は、当然、ネタバレの宝庫であって、既読者向けの章で触れているので、『方舟』を読了した人は是非そちらも目を通していただきたい。ネタバレを別に気にしないという未読者も、今回ばかりはまず、『方舟』を読んで、前情報なしに楽しんでほしい。ネタバレありの感想を見てその作品を読んだ気になりたいだけの人は、勝手にすれば良いと思う。

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