星は見下ろす。

藤井咲

本編

 東京よりも近く感じる空には星が恐ろしいくらい瞬いている。


 僕がこの長野県茅野市北山に住み始めてもうすぐ一年だ。

東京生まれの僕が何故縁も所縁もないこの場所に住み始めたのか、何かに導かれてきたのかは分からない。

一年前僕はこの蓼科山で自殺しようとした。

自殺をする為にわざわざ一度も来たことのない長野県に車を走らせ、街を抜けて山に入った。

僕は優秀だった。今まで挫折を感じたことは一度もない。やりたいことはあったし、上手くやれていると思っていた。要領が良い自分を自覚していたし、そういう自分に誇りをもっていた。誰にでも出来る仕事と安い給料に満足する人間を見下してさえいた僕が、まさか人間関係の軋轢という陳腐な理由で体調を崩したあげく精神をやられるなんて思いもしなかったのだ。

僕はある日突然電話に出られなくなった。

それだけじゃない。出社することも、人の目を見ることも、自分以外の人間とのやりとり全てに恐怖を感じた。

勝手に涙が出てくる自分の精神状態はまぎれもなくおかしく、僕はそれを理解し改善しようとしたが空回るばかりで這い上がることは不可能だった。家族や恋人には頼れず、こんな頼りない自分を見せて最後の砦を壊すことを何度も想像しては勝手に恐怖した。

そして、観てもいないのに点けていたテレビに長野県特集が映りふと思いついたのだ。

ああ、こんな綺麗な場所で死にたい。

僕は最後の力をふり絞るかのように今まで全く動かなかった自分の体を持ち上げ、久しぶりに車に乗った。

とにかくあの山に行けば死ねる。そんな心持だったと思う。

中央道を抜けて茅野市に入り山道へ。

山道を走っていると獣の目が車のライトに反射し光る。街灯のないひび割れた道を進んでいくと突然開けた場所に着いた。周りに民家はなく、広い原っぱが静かに僕を待っていた。


外に出ると一気に寒さが僕を襲う。車の電子温度計を見ると16度を示していて半袖半パンの自分にはとても堪える。

しかし、この寒さがここ最近霞がかかったような僕の頭をはっきりとさせ、ようやく自分の現在地を理解し、どうやってここまできたのか一瞬分からず立ち止まった。

ふと空を見上げると満天の夜空といえばいいのか、とにかく今まで見たことのない夥しい数の星が僕を見下げていた。

僕は星に見下ろされ、自分がちっぽけな自己憐憫に振り回されていることに気づくことになる。

そのままそこに寝転び目を閉じると葉の揺れる音だけが僕の頭に響いた。


僕はようやく夢から覚めたような感覚で朝日を浴びて目を覚ました。

あと一歩進んでいたら僕は崖から滑り落ちて本当に死んでいただろう。自分のいる位置を自覚した途端冷や汗をかいた。

それから僕は休職していた会社を辞め、今まで貯めていた金で蓼科に家を買った。

別荘地にある中古の一軒家はこじんまりとしていて、おとぎ話の小人が住んでいそうな家だ。隣人は2キロ先にしかいない。

苔のついた屋根と煙突、そして小さな庭。家の中には暖炉がある。傷んでいる部分も多々あるが、なんとか住める。

いわゆる都落ちというものかもしれない。だけど、僕はどうしようもなくこの土地に惹かれたのだ。


家を買って落ち着きを取り戻した後、僕は両親と恋人に手紙を出した。

スマートフォンを持つことはどうしても出来なかった。どこにいてもかかってくるあの機械を見ることは僕にとって悪夢だ。

一応家電を契約したがこの番号を知っているのは自治体の帳簿だけで、問題がない限り誰も僕の時間に侵入してくることは出来ない。

両親はなんとか僕を東京に戻そうとしたが何度も拒否をしている内に静観を決めたようだった。

恋人の真姫は一度蓼科に足を運んでくれた。彼女とは会社の同僚で、そろそろ結婚しようか、という話も出ていた仲だ。


「いいとこだね、裕彦さん。」


そう言ってロープウェイから見える青々とした景色を楽しみながら笑う真姫は、なぜ仕事を辞めたのか、なぜ突然家を買ったのか、気になるであろう一切を聞いてこなかった。

彼女が蓼科で過ごしたのは半日だけで、本当に僕の顔を見る為だけに会いに来てくれたようだ。

僕たちはお互いを探る空気の中、山を降りる白いバスを待った。


「なにも相談しないでごめん。」我慢できず口を開いたのは僕だった。


「―ううん。いきなり連絡がとれなくて心配だったけど、元気にしてて良かった。

私ね、ロンドンに赴任することになった。だからもう会えなくなる。」


「―手紙を、手紙を書くよ。その、そっちでの住所が分かったら教えてくれないかな。」


「ねえ裕彦さん、私たちってまだ続いてるのかな?」


「僕は、続けたい。でも、今はこの場所にいたい。ただ静かにこの場所でじっとしていたい。…、勝手でごめん。」


「―手紙、待ってるね。ここでいいよ。」


真姫はそう言うと一人でバスに乗って小さく手を振った。

誰も乗っていないバスに乗り込んだ彼女は一度もこちらを振り返らなかった。



僕が蓼科に住んで初めての夏が終わり、秋が来た。針葉樹が緑から茶色に変わりぽろぽろと地面に落ちる。

遠くに見える紅葉は美しく、どこを見ても自然のグラデーションが目に入った。


「元気ですか?僕はなんとかやっています。

そちらはどうでしょうか?仕事には慣れましたか?

蓼科の夏はすぐ終わってしまいます。近頃、茸をとっている人をちらほら見るようになりました。どこに茸があるのか僕が探しても見つかりません。散歩中に野兎を見かけました。羽の青い大きな鳥も見ることが出来ました。窓辺に米を置いておくと食べに来ます。

僕は自分がこんなふうに心を動かされることに始終驚いています。

君に見せたい風景がたくさんあります。また、手紙を書きます。」


僕の買った家は窓が西に面していて夕焼けが綺麗に落ちる。窓から見える三本の長い木は雲と近いほど長く、視界を遮るが、リスが住みついていて時々姿を見ると嬉しくなる。太陽が落ちる手前の紺と薄赤の混じる時間、早朝の濃霧の深さ、そのどれもが僕の知らないものだった。

今いる場所はとても静かだ。

僕は小さな庭を畑にしようと決め、ネットや本で知識を得ながら自分なりに畑造りを始めた。必要なものは全てネットショッピングで購入した。

寒さが原因か、僕の育て方か、最初に植えた種は芽が出てもそれ以上大きくならず枯れてしまった。

10月の終わりになると雪がちらほら降り始め、僕は初めて暖炉に火を灯した。薪の燃える匂いを一度も嗅いだことがないのに懐かしい匂いがした。


「元気ですか?こちらはもう雪が降っています。

そちらも寒いと聞きますが、どちらが寒いのでしょうか。いつか比べてみたいです。

家についてきた庭を畑にしようと思ったら完敗でした。僕の育て方が悪いのでしょう。春がきたらまた挑戦してみたいと思います。

冬のこの家は雪に閉じ込められたように静かで綺麗です。君も、もしかしたら気に入ってくれるかもしれません。

体に気を付けて。また手紙を送ります。」


秋が終わり本格的な冬が到来した。蓼科の冬は東京の冬とあまりに違う。厳しさも、美しさも。

11月になると雪が積もり、家の下に鹿が入り込むようになった。夜になると物音がして目をこらして見るとそこから鹿が何匹も出てくるのだ。もしかしたら毎年彼らはここを雪からの避難場所に使っていたのかもしれない。僕の方が新参者というわけだ。

雪が降ると上空が雲で覆われて星は見えなくなる。僕は無性に真姫が恋しいと思った。

家の前は毎日雪で覆われ、玄関を開けるのも一苦労だ。家にあった小さなスコップで毎日雪かきをするのが僕の朝の日課になっていた。


「そんな小さなスコップじゃ時間がかかるだろう」


突然の声に驚き振り向くと、一度だけ挨拶に行ったきり会ったことのない隣の家に住む老人が立っていた。


「あ、いえ、問題ありませんので、大丈夫です。」


「ほら、これ使え。返さなくていい。」


彼は僕の言葉を聞かずに大きなオレンジ色のシャベルを置いてすぐに立ち去ってしまった。

しばらく悩んだが結局彼の置いていったシャベルを使わせて貰うと、今までの苦労が嘘のように雪かきが終わった。


「元気ですか?僕は元気にやっています。

この前お隣の方によくしてもらいました。何かお礼をしたいと思っているのですが、何を渡せばいいのか見当もつきません。

真姫だったらこんな時どうしますか?

僕は今まで見たいものしか見ていなかったのかもしれません。

また、手紙を書きます。」


ゆっくりと冬が明け、春を迎えた。シジュウカラ達が囀り雪の中に足跡をつけていく。

雪が太陽に当たっては解け、夜になるとまた凍り、それを繰り返して見事なつららが家の屋根に連なっていた。

シャベルをくれた日から、隣人の男性、神林さんは時々僕の様子を見に来るようになった。

奥さんと二人で暮らしている彼は口数こそ少ないが何かとよくしてくれて、僕たちは段々と打ち解けた。


「庭を畑にしようと思ったんですが、どうにも上手くいかなくて。」


「そりゃお前、何を植えたんだ。なによりまずしっかり土を柔らかくしなきゃだぞ」


神林さんの教え方はとても分かりやすくて、なおかつあまり手を出してこない。絶妙な距離感が今の僕には有難かった。


「元気ですか?僕はとても元気です。

冬が終わって春が来ました。

蓼科の景色がどんどん変わっていくことに感動を覚えています。

真姫はどんな時を過ごしましたか?もう一度、君に会いたいです。

七月七日、君に見せたいものがあります。どうか会いに来てください。」


その日は僕が蓼科に来てようやく一年がたった日で、まだ一年しかたっていないのかと驚くほど僕はこの土地を好きになっていた。

赤とんぼがそこら中を飛び回っていて、雀が飛ぶ練習をしている。

七月七日、真姫は僕に会いに来てくれた。


「裕彦さん。」


「真姫、来てくれたんだ。」


「うん。手紙ありがとう。いつも楽しく読ませてもらってた。なんか、変わったね。逞しくなった?」


そう言って笑う真姫は一年前より髪が伸びて一段と綺麗になっていた。


「そうだと嬉しいな。まだ時間があるから、入って。お茶いれるよ。」


僕たちは夜になるまでこの一年どんなことをしていたのかをお互いに話し、最後に会ったあの日と比べられない程和やかな時間を過ごした。

辺りが暗くなり始めた頃、僕は彼女に自分のコートを貸し、手を引いて、懐中電灯の灯を頼りに暗い夜道を歩いた。


「どこに行くの?」


「もうつくよ。」


彼女は灯のない道にすこし不安そうで、僕の腕にしがみつくように歩いた。


「ついた。―上をみて。」


懐中電灯を消して、彼女にそう促す。

顔をあげた彼女は目を大きく開いて感嘆の声をあげた。


「すごい、」


ぽつりと呟いた彼女はまるで時がとまったかのようにずっと夜空を見つめていた。

僕は用意していたブランケットを地面に置き、彼女を座らせ僕も隣に座った。


「―ここで一年前、死のうと思ったんだ。」


彼女は体をびくりと動かし、目線を僕にうつした。


「かっこわるいよね。一回の失敗で死のうとするなんて。

でも、あの時の僕はどうしても生きていられないと思った。それでここに来たんだ。」


彼女は黙って僕の言葉に耳をすましていた。


「だけど、ここで星を見たら、自分の気にしてることとか、守ってきたものとかどうでもよくなって。

それで、自殺するのも馬鹿らしくなってやめた。」


彼女は唇を震わせて何かを言おうと試みているようだった。


「この一年、いろんな発見をしたんだ。人にとってはどうでもいいことかもしれないけど。僕にとっては凄く大切な時間だった。

これからも僕はここに暮らす。この土地で出来ることを見つけるよ。君にも、ここにいてほしい。でも、だから、別れても、文句は言わない。」「―あなたが、生きてくれてよかった。あなたにまた会えて良かった。」


彼女は僕の目をしっかりと見てこう言った。


「私はまだここには住めない。でも、一年に一度こうして会いにくる。必ず会いにくるから、お別れは言わないで。」


「うん、…うん。僕はここで君を待つよ。一年後、ここでまた会おう。」


僕と彼女は一晩中僕たちについて話をした。

数えきれない未来の約束をたて、二人で流れ星に願いを込めた。僕も彼女も流れ星というものが本当に存在していることを今まで知らなかった。

次の日、真姫が乗り込んだバスを僕はまた見送ることになったが、彼女は姿が見えなくなるまで手を振り続け、僕もずっと手を振り返した。

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星は見下ろす。 藤井咲 @kisayamitsube

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