聖徳太子の弟~麻呂子王子の もののけ退治
紗窓ともえ
第1章 「闇知らずの森」と「御仏の教え」 その1森の秘密
聖徳太子という名前は後世の人間から贈られた尊称である。
生前の呼び名は伝わっておらず、諱(いみな=生前の実名)も知られていない。
そのおかげかどうかは分からないが、その実在を問う論争が白熱した時期もある。
昭和の御代には壱萬円札の肖像が聖徳太子だった時期もあり、ある以上の世代には馴染み深い存在であった。
よもや、その存在を疑問視する声が上がるとは想像も出来なかった。
現代ではそうした論争を踏まえてか、聖徳太子のことは「厩戸王」とか「厩戸皇子」と歴史教科書には記載されているようである。
聖徳太子の生きた時代、大和政権で権力の頂点にあるのは大王(おおきみ)と呼ばれる者であり、まだ皇統とか天皇という言葉も生まれていない。
血族の男子は皇子よりも王子、女子は皇女よりも王女と呼ぶ方がまだ相応しい時代である。
そんな遙か昔、訳語田大王(おさだのおおきみ=敏達天皇)の治世12年目(いわゆる敏達12年)、西暦で言えば583年の葛城(かつらぎ)の地でのことである。
葛城とは、奈良盆地から西に向かって大阪湾に出る道筋――生駒山地と金剛山地の切れ目――に近い場所である。
大阪湾へ向かう道は決して平坦ではなく、明神山や二上山の間にある峠を越えていく剣呑な道になる。
大和から進んでいくならば、葛城は割と近く、二上山の手前の麓に存在する。
当時、葛城では耕作地が切り開かれ、多くの人々が暮らしていた。
大和から西に分け入ってきた者達と、大阪湾から東に進んできた者――中には渡来人で政権に取り立てられるような知識や技能を持たず、庶民として土着した人間も含まれる――達が混在し、時として異なる習俗のために敢えて混じらずに孤立する集落もあった。
人々が生活を営むようになれば、たくさんの子供達が生まれ育つのはいつの時代も変わらない。
大昔とは言え、子供同士が集まって遊んだり悪戯したりして騒ぎ立てる景色は、今と似たものであっただろう。
もしも、そんな子供達の騒ぐ様子を観察したならば、輪の中で目立つ腕白に気づいたかも知れない。
その子は一際逞しく、仲間の中では随一の力自慢である。
身に付ける衣服も上等であり、裕福な家の子供なのが見て取れる。
力があるだけでは腕白大将には成れない。
心根はむしろ優しく、諍いや喧嘩になれば弱い者の話をよく聞いてやり、頼りがいのあるところを見せるので、みんなから慕われていた。
その腕白は家族からも皆からも「麻呂子(まろこ)」と呼ばれていた。
麻呂子は十歳であったから、そろそろ子供同士でじゃれ合ったり悪戯したりする輪から離れて、家のことを考えなければいけない年頃である。
そんな輝かしい日々が終わりかけている時期――子供達がおっかなびっくりしながらも興味津々で眺めていたのが、どの集落からも離れて存在する「闇知らずの森」であった。
その森は葛城から北側へ進んでいくと、山に分け入る前にぽつんと存在している。
藪や山林からは距離を隔てており、葛城の耕作地からも離れていた。
まるで仲間から置いてけぼりを喰らったみたいに野原に孤立している森なのだ。
こんなものは切り拓いて耕地にしてしまえば良さそうなものであったが、いつの頃からか禁足地となっていたため、誰も近づこうとはしない。
たとえ子供であっても、ある程度大きくなってあちこちと走り回るようになると、年上の者や親たちから「決してあの森だけは立ち入ってはいけない」と念押しされるのだ。
こうして「闇知らずの森」は誰も近寄らず、誰も寄せ付けない森になっていた。
そのような脅しが散々繰り返されても、そこは子供のことである。
「行くな」と言われれば行きたくなる。
だが、行ってしまえば誰一人として帰ってこない。
「あの森か」と探しに行こうものなら、その親までが森から帰ってこない。
そんな話が幾つも語り伝えられており、誰もが森に近づくことも、その名を口にすることさえも恐れていた。
話だけ聞くと、よほど深い森で中に入ってしまうと道が分からなくなるのではないかと想像したくなるが、この「闇知らずの森」はそうではない。
ほぼ二十間四方(約三十六メートル四方)の森に過ぎない。
そんな小さな森に、恐ろしい秘密が隠されたままでいるなんて言うことがあるだろうか。
子供であるほどに、素朴に疑問を抱くようになる。
この日もわいわいと子供達は騒いでいたが、ふと一人の童が疑問を口にする。
「大人達があれだけ俺たちを脅すって言うのは怪しい。何か良いものでも隠しているんじゃないのか?」
「良いものって何だよ」と麻呂子は聞いた。
「例えば・・・・・・宝もの?」
「なんで、目の届きにくい森なんかに隠す?」
「じゃ、食い物だな」
「獣に食われちまうだろう」
「例えばキノコとかタケノコとか沢山採れるとか?」
「そんな物のために俺たちを大人が脅かしているというのか?」
「じゃあ、麻呂子はなぜだと思うんだ。本当に何かの呪いや物の怪が隠れ潜んでいるとでも言うのかよ」
「なぁ、麻呂子、行ってみないか?これだけの人数で行けば、何とかなるんじゃないか」
そこには五―六人も童が集まっていただろうか。
その中の一人の提案に、みんなの期待と不安が高まったのが麻呂子にも伝わる。
「だけど、もしも大人が本当のことを言っていたら・・・・・」
「そんなこと言って、麻呂子は恐いんだろう」
「違う!ただ・・・・・・・」と言いながら麻呂子は自分を注視する皆の視線に気がついた。
そこには仲間たちの期待と興奮が入り交じって見えた。
麻呂子は思わず生唾を飲み込んだ。
「行ってみるか」
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