自転車屋のポー

反田 一(はんだ はじめ)

自転車屋のポー

今日はそろそろ店仕舞いにしよう。

ポーは思った。

ドアに掛かったOPEN/CLOSEDの板をひっくり返す。

床に散らばった工具やシートを手早く回収していく。

早いところ片付けて、アツアツのコーヒーが飲みたい。

仕事後のリラックスしている自分を想像して、意識が妄想の世界に行きかけていた。

しかし、ふと気配を感じてドアの方を振り返ると、ドアの手前に男が一人立っていることに気づいた。

「ごめんください、今日はもう終わりですか。」

男が言った。

驚いたのは一瞬で、ポーはすぐに居住まいを正し、両手を広げて歓迎の意志を表した。

男の依頼は思った通り自転車の修理だった。

内容は、タイヤのパンクを直すこと。

一週間後に自転車を引き取りに来たい旨を伝えて早々に帰ってしまった。


ポーは自転車の修理屋を一人で営んでいる。

広めの店内。

だが、自転車を数台並べるとすぐに狭くなってしまう。

カウンターにはいつもの物が並べられている。

コーヒー、クロスワードのパズル、新聞、眼鏡。

カウンターは、午前中は表通りの日が当たって暖かい。

カウンターからは、ガラス越しに店のすぐ外が見える。

店が面しているのは大通りだ。

道の両脇の歩道は石畳になっており、清潔感がある。

夜は黒塗りの街灯に明かりが灯される。

一日中、人影の往来が絶えることはない。

ポーは、そんな街の様子を見るのが好きだった。

いくら眺めていても飽きることはない。

ときどき新聞やクロスワードに目を落とす以外は、日がなカウンターから街の様子を窺っていた。


そんなポーにとって、一週間はあっという間に過ぎた。

約束通り、きっかり一週間後に再び男が店を訪ねて来た。

「こんにちは」

「いらっしゃい、もういいのですか」

ポーが訊く。

「ええ、気持ちの整理が付きました、もう大丈夫です」

男は答えた。

ポーは、男の自転車を手で押しながら、男も促して店の外へ出た。

「ついでにピカピカに磨いておきましたよ」

「ありがとう、本当に」

男はポーから自転車を引き取ると、自転車に満足げな視線を充分に寄せてから、自転車にまたがった。

「ご利用ありがとうございました、またどうぞ」

ポーが言うと、男は笑いながらポーを振り向いた。

どうやら冗談が通じたらしい。

「ありがとう」

男は言った。

自転車が走り出す。

「お元気で」

男の背中に最後に声を掛けた。

自転車が、夜の街を進んでいく。

街灯が自転車を照らし出す。

輝く車体を見たポーは、自分の仕事ぶりに満足した。

自転車はさらに加速して走っていく。

充分に加速がついた。

すると、自転車の前輪が浮き上がった。

ちょうどウィリー走行のような状態を想像してもらうと分かりやすい。

ただそれも束の間、次は後輪も浮き上がり、自転車は完全に地面を離れた。

自転車はぐんぐん高度を上げていく。

電話ボックスより高く、信号機よりも高く、遂にはこの街で一番高いマンションよりも高くまで上っていた。

そして、そのまま自転車は夜の空へ消えていった。

ポーは、自転車の姿が見えなくてなってもしばらく、自転車が消えていった方角を見ていた。


ポーの仕事は死者を見送ることだった。

死者の中には、自分が死んだことを自覚できない者がいる。

混乱した死者は、頭の中の整理をすることが必要だ。

死者はポーに自転車を預け、時間を稼ぐ。

どれくらい時間が掛かるかは人それぞれだった。

何日か、何週間か。

中には何年もポーに自転車を預けたままの人もいる。

逆に言えば、ポー自身もそれほど長い間、死者を見送る仕事をしていることになる。

ただ、恥ずかしながら、ポー自身がそれに気づいたのはごく最近のことだ。


その日、ポーはいつも通りの日を送っていた。

朝早くに起床、気付けのコーヒーを体内に流し込む。

朝の体操もそこそこに、朝食にありつく。

トーストにベーコンエッグ。

ベーコンはもちろんカリッカリに焼いたものだ。

一息ついたら、1階へ降りて開店の準備だ。

店の前を掃き、ガラスを拭き、工具の点検。

それから、今日の予定の最終確認。

引き渡す自転車の整列。

少し時間が過ぎてしまったが、その日も無事に開店できた。

と言っても、少し開店が遅れたからと言って困るほど客がいるわけではない。

ポーはコーヒーを淹れてクロスワードパズルを解き始めていた。

「PEANUTBUTTER」

「COORDINATE」

「EXODUS」

単語を埋めていく。

「CHILDHOOD」

幼少時代。

普段ポーは単語の意味を自分に関連付けて考えることはない。

ただ、このときはなんとなく引っかかったのだ。

ポーは自身の幼少時代を思い出そうとした。

しかし、できなかった。

今度は両親を思い出そうとした。

しかし、やはりできない。

ならば兄弟はどうか。

親戚は。

何かペットは飼っていなかったか。

旧友は、恩師は、ご近所さんは。

誰か一人でも思い出せないのか。

ポーは、呼吸を整えながら、記憶をたどった。

そう、一人だけ思い浮かぶ。

女性だった。

目が大きくブラウンの瞳はくりくりとして、豊かでウェーブのかかったブロンドの髪をしている。

若く聡明でハツラツな雰囲気が、見た目から窺い知ることができる。

「シンディー」

ポーはそう口にした。

それが彼女の名前のだ。

彼女のことを思い出したのは喜ばしいことのはずだ。

なのに、ポーはうつむいたまま動かない。

そうだった。

シンディーは亡くなったのだった。

あれは事故だった。

ポーは池に浮かんだボートの上で、海面に映る自分の歪んだ姿を見ていることしかできなかった。

そして。

「そうか」

ポーは静かな店内で一人呟いた。

「僕ももう死んでいたのか」


自分はすでに死んでいた。

そのことに気が付いたポーは店を畳む決意をした。

ポーは、これまで見送って来た数多の死者たちを思い出していた。

彼らは、皆一様に不安そうだった。

死を受け入れることができず、この街から出ることができない人が多く見受けられた。

そんな人々を見たポーは、自らが見送り人となって、死者たちを気持ちよく送り出そうという仕事を自らに課した。

死者たちはポーに自転車を預けている間、この街の中で過去を振り返り、各々の思いに浸る。

その中で、一番大きく彼らの心の中を占めているのは後悔であろうことを、ポーは察した。

だが、ここは一方通行の街だ。

現世の様子を覗くことも、ましてやそちらへ戻ることも許されない。

死者たちは、自らの意志でこの街を旅立っていかなくてはならない。

それが、この街のルールだった。

ポーは、そんな死者たちを見て、彼らの背中を押してあげたかった。

誰かに見送られることがどれだけ彼らの心の支えになるか、想像するのは容易かった。

ポーは、彼らの役に立ちたかったのだ。

ポーはカウンターに座り、ずっと過ごしてきた部屋を見渡した。

死者たちの役に立つ。

本当にそうだったのか。

いや、そうではなかった。

シンディーのことを思い出して、ポーは気づいたのだ。

そんなものは見せかけの言い訳だったということに。

単に、怖かったのだ。

この街を出るのが。

自分もそんな死んだことを受け入れられない死者だったなんて。

自分の記憶を封じ込めて、全てなかったことにしたかったのか。

自分が死んでいることもシンディーのことも。

死者を見送る仕事も、何もかも忘れて、ただ手頃な話相手が欲しかっただけじゃないのか。

実際、ポーがいなくても、死者たちは勝手にこの街を去っていくのだ。

死んだことを認められなくても。

後悔が残っていたとしても。

誰にも見送られなかったとしても。

いつうかは前は進まなくてはいけない時が来るのだ。

そうであるべきなのだ。

逆に、ポーがいることで死者たちの旅立ちを阻害していることも考え得る。

ポーが自転車を預かってくれている間は大丈夫だ、と思わせてしまっているかもしれない。

ポーは、魔法瓶にコーヒーを注ぐ。

魔法瓶を自転車の腹に固定し、愛車と共に夜の街へ出た。

街は暗く、街灯がポツポツと灯っている。

ポーは自転車にまたがり、ペダルをこぎ始めた。

走り始めた車体が空へと舞う。

見送る者は誰もいなかった。


ポーの自転車が空を駆ける。

「えっさ、ほいさ」

ペタルが重い。

まるで現世で本物の坂道を相手にしているときと似た感覚だ。

これ、かなり重労働じゃないか。

死んでるんだからもっとピューって楽に進んでいるものじゃないのか。

自転車で空を飛んでいるっていうのに、ちっともロマンチックじゃない。

軌道に乗ってきたのか、ペダルをこぐ力を弱めても、自転車は進んでいく。

ようやく一息つくことができた。

これはコーヒーを持っていたのは正解だった、とポーは思った。

後ろを振り返る。

ポーがいた街が小さく光って見える。

そして、それはどんどん小さくなっていく。

遂に、自分の街の光が完全に見えなくなり、完全なる闇が訪れた。

真っ暗闇の中、地面と接している手応えもないまま、自転車をこぎ続ける。

かなり心細い。

不安を覚えてからどれくらい進んだのか、前方に光が見えて来た。

それも一つではない。

無数の光が視界いっぱいに広がっている。

なんだろうと思って、光の一つの近くへ寄ってみた。

それは、街だった。

様々な色や形の街がそこかしこに光って浮かんでいる。

「わあ」

ポーは一つ一つの街を覗き込むようにしながら進んだ。

「ねえ、シンディー、きれいだと思わないか」

街には、死者たちがそれぞれ思いを秘めながら滞在しているのだろう。

ポーも今から街に下りようと思えば、そうすることができる。

また自転車屋を営むこともできるだろう。

しかし、ポーは進む。

「ねえ、シンディー」

ポーは呟いた。

「僕はまた君に会いたいよ」

グリップを握る手に力が入る。

それがどのくらい可能性がある話かは分からない。

この無数の街にどれだけの魂が存在しているか分からない。

また、もっと多くの魂がすでに先へ進んでいっただろう。

そう考えると、また出会える可能性はとても低いように思えて弱気になってしまう。

「そもそも僕は自分の命さえ投げ出した男だ。そんな僕がこんなことを言うなんてわがままなことかもしれない。だけどね」

ポーは進む。

「だけど、僕らはすでに運命の出会いを一度果たしているじゃないか。君が落としたスカーフを拾った。そうしたら君は満面の笑みで僕に応えてくれた。初デートは映画館だったね。お互いぎこちなかったけど、僕が派手にポップコーンを床にぶちまけて、ようやく君は笑ってくれた。海にも行ったね。僕らの定番のコースだった。路面電車に乗って。行きはワクワクで胸がいっぱいで、帰りはいつも別れが惜しかった」

ポーはペダルをこぐ。

「だからさ、僕は進むことにしたんだ。君と出会える可能性が少しでもあるなら。少し時間はかかってしまったかもしれないけど。その分を取り戻すんだ。君を見つけ出して絶対にまた声をかけるんだから。覚悟しといてよね」

自転車が進んでいく。

青年を乗せて。

まっすぐと。



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自転車屋のポー 反田 一(はんだ はじめ) @isaka_haru

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