"異"なる世界に雑"味"を帯びて
源ミナト
第1話 "異"なる世界 ①
一筆の初めから申し訳ない。これから先の事を思うと『彼』は、いや『ゼン』の意識というのは目が覚めるまで少々時間が掛かると見込んでいる。なので、ただ情景を語るでしかない独白の走り書きのような『私』が、
産声のような脈動は山の地動に近く、ほんの僅かに動いた地鳴りのような低い音色だった。整った脈ではなかったが、生命の鼓動にしてはどこか「箔」のある重さがあり、脈拍というには風前の灯火を想像させる。『彼』…いや『ゼン』からはそんな音がした。
だらんと垂れた血色の薄い青白い足先から血の匂いが、粗末な松明と狭い洞穴の中で熱を帯びて立ちこめ始めた頃、焦熱のようにのぼっていく様は鉄の色味が見えそうなほど濃い。辺りは鉄の匂いばかりではない。やたらと鼻の奥をつき、喉をむせ返らせる腐敗の匂いも混じる。腐敗のそれは腐肉に近い。さらに強烈な何かが混じって、鼻腔を刺すような強い刺激臭もする。酸性を帯びた糞尿の匂いだ。
しかしどうも、ゼンの嗅覚はそれに一つの反応も示さない。一面にまみれた腐敗の中で、嗅覚はまるで機能していない様子である。それどころかやっと心臓が動いてきたというのに、呼吸がうまく喉を通っていかぬ有り様が狭窄した喉笛の音をか細く響かせていた。
肺が膨らんだものの、左の脇腹から裂くような痛みにゼンはようやく息と呼べそうなものを吐いたのだ。
「カフ、…くフ、」
「ぐぷっ…えぷ」
喉の奥から血がのぼり、口の中から飛沫が漏れた。咳き込んで揺れた体を伝った振動がゼンの頭上で鎖を鳴らし金属の音が啜り泣く。吊るされたゼンの両手と鎖の太さを見比べるに、想定した10倍以上の獲物を捕縛できるほどの頑丈さと制止力を持つ強固な鎖縛。
表面は磨かれた事などないに等しく、荒くめくれあがった表面の錆色に丸みのある鉄の番同士が数珠のようにお互いを連ね、条網を敷いて鎖を巻く。正に乱暴と呼べる代物だ。
そんな粗末で風体の悪い鎖によって吊るされたゼンというのは一体どんなものであろうか。細い腕に、小さな体、枯れ枝のように垂れた足。その両腕から両足の先にまで、渇いた血と乾いた砂粒にまみれている。裂けた傷口から血が流れていかない様子を見ると、それは変色し盛り上がって腫れた肉が傷を埋め、膿の蓋が閉じられている有り様が答えだ。
所には皮膚が爛れて黒みを増し、熱を帯びた膿瘍も見受けられる。晒されて見える脇の下からは、黒く渇いた血の痕が地を目指し、全て一定して下へと伝っている。その本流、支流とも呼べるいくつもの黒い小川はどれも枯れて渇いていた。
古い痕、新しい痕、真新しい痕。脇を通る血の痕はどれもが下だ。胸へ、背中へと辿るものは一筋として見当たらない。これまでゼンが今の今まで横たわった事があるのか、『私』自身も疑念を抱く。どれほどの間、ゼンがそのままなのか。『私』ではない薄気味悪い影がそれをよく知っている。
松明を灯した赤黒い洞窟の壁に手がつくと、影の姿もはっきりと見えてくる。影の正体を容易に想像させる手の質感は肉厚で、表面は凸凹と粗雑で荒い。その印象だけで全体に及んで同じようなものを帯びていると確信させ、それはやはりという他にないほど、どの部位も荒々しく、太い図体であった。太くたくましく、手から腕にかけての肌の表面はより厚く荒み、傷の縫合などせず滞傷して盛り上がった肉をいくつも刻んだ肉体。正体は人間とは違う。潰れた鼻に、猪の牙が見える。贅沢な肉の膨れ顔はいけ好かぬ感触を人に与える。少なくとも『私』からはそんな顔だ。
そいつはそんな顔をぬうっとゼンに寄せ、じっくりと具合を見る。低温の冷蔵部屋に吊るされた牛肉の保存状態を見るようなものではなく、死んだふりをしたタヌキを嗅ぐヒグマのようである。ゼンの腕に化膿した傷口に鼻息を当て、満悦した表情を一つ…いや唸りを上げた。
醜い顔の口からヨダレが湧いて、凹凸したブ厚い舌が唇をひと周りしたかと思えば、何を知らせるでもなく、ゼンの腕にある傷痕に向かってべったりと舌を這わせ、その醜き主は味を見たのだ。傷口を塞いでいた膿の蓋が取れ、新しい血が落ちていく…いや。最早新しいとは言えぬほど、脈動によって運ばれてきた血とは呼べぬほどにその血色と液状の状態は悪い。末端か、もしくは滞留して凝固した何かか、身体中を巡る血液そのものが澱んで穢れていた。
醜い主は鎖の天板を外し、岩肌のような地面など構うこと無く、痛々しいゼンの体を引きずっていく。舗装などされようもない岩肌の地面、途中幾度となく膿に塞がった傷口を引っ掻いた。盛り上がった肉が擦り切られていながらも、ゼンからは一つも悲鳴が上がらない。目は死地に近い微睡みを帯びて開いている。息も辛うじて繋いでいる。生きていると呼んでやろうと思えば生きているのであろう。しかしそれでも見る限り死に体である。
醜い主が壁の横穴に拓かれた部屋へ辿り着き、ゼンは再び天板に吊るされる。その部屋は先ほどの場所に更に一つ、悪臭の匂いが追加され、その強烈さは獣の体臭より一層か二層ほど強い。醜い顔の頭数は増え、5人の
ゴリ…
…ペっ
…カロン…ッ
空腹を誤魔化すためにしゃぶっていた骨が吐き出され、醜い集団を揃えているにしてはそれなりに行儀よく積まれた無造作な骨山に当てる。渋々とした顔が次に覗かせたのは粘土質のような薄汚いよだれを垂れ流す笑顔だ。先ほどの必要無しと吐き捨てられた人間の人差し指の一部のように思えるものはまさしくその通りであり、それも含めてゼンの真下と骨山に散らばったもの全ては、それらと等しく同じ境遇で散った残骸達である。
ゴリ……ゴリ……
醜い牙が岩肌を擦る。醜い主達なりの食前の作法であるのか。やけに大きく削り甲斐のある音である。完全な腐敗の一歩手前、死にかけて弱く脆く熟成されきったゼンを醜い主らは今まさに食うに至り始めようとする。片腕を引きちぎらんとするほどの手が、ゼンに掛かろうとした。
ゴリ…ゴリ…ゴリ…ン
だが手は止まった。晩餐の飯時はあっという間に過ぎており、空腹を耐えに耐えてまさにこれから主食を食うに至るはずだった。それでも手は止まり、獣の息すら立たぬほどに醜き主らは耳を澄ましている。
ゴリ…ン…ゴリ、ン…ゴリン
主らは急遽それを取り止めた。先程から鳴り止まず、逆撫でしてくるような音の方向へと向く。そこはなんの変哲もない赤黒い岩肌の壁である。だが音はその壁から聞こえてくる。
ゴリ…ゴリン…ゴリン
嫌にもはっきりと聞こえる不快な音に主らは一匹、また一匹と壁向こうへと不機嫌さを丸々に映した顔を向けた。
ゴリ…ン…ゴリ…ン…ゴリ…ン
壁からではなく壁向こうから音がやってくる。その音は近づきながら、音を立ててやってきている。こちらへと明らかに指針を決めてやって来ている。目的のある行動と取れる。醜き獅子頭の主らは息を吹き肩をあげ、姿勢を前のめりに傾ける。 その巨体に任せた勢いをぶつける気概と意図があり、一種の自信であり矜持とも言えるほどに興奮と怒張を見せ、獅子頭らの筋肉の量は肩から背にかけて盛り土のように増した。
ゴリン…ガ…リン……ガ…リン…!
壁岩の向こうから何がやって来たとしても、主らの思いは共通して一貫している。同じようにやればいい、いつもと同じようにすればいい。全員で押し潰して襲いかかればいいという共通の認識が見て取れる。だが統一性のない疎らな浮き沈みの肩は根っからの狂暴性があることを見せつける。
ガリン…!…ガリン……!ガリン…!
壁に向かって先頭に立つ主の一匹が鼻息を荒げて奮起する。交信を受け取った後続の獅子頭も次々と鼻から息を強く吹き、狭い部屋の中に熱気をさらに数倍込めて、荒ぶった気迫と噴流が部屋を曇らせる。
ガリン…ッ!
ガリンッ…!
ガリンッ!
岩を削る音はすぐ間近まで、壁一枚隔てた場所までやって来た。獅子頭達には音の正体が何かなど考えない。進んできて、こちらへ向かって来ている邪魔者でしかない。だが主らが今まで感じたことのない音でもある。つまり畜生にとっては警戒に値する音に他ならない。穴を掘る音にしては力の響きが豪快であり、穴を削る音にしては力の震えが精密である。
ガリンッ!ガキン…ッ!ガキン…ッ!
それは『私』から聞いても、"力任せに使っている"ようで、力加減を忘れたような馬鹿力を感じる。それは豪快で粗雑、醜い主らと負けず劣らずな狂暴性を持つ類いの性質であり、音の響き方からして醜き主らにも正面きって物を言えるほどの力量だ。だが何かが違う。それはハッキリとは言えないが『私』にも醜い主にも分かる違和感がある。力の振るい方にはどこか理性がある。その証拠に醜い主らには決して持ち合わせない金属の刃先を振るう音が岩肌を削ると共に鳴り響くのだ。
ガキンッ!ガキンッ!ガキンッ!!
壁一枚と少し先、音が近い。敵が近い。主らは両脇を固め一斉に壁へと突進を仕掛けた。その5つの巨体が壁を目掛けていく勢いたるや、1つの巨体で20人以上の屈強な男達をも撥ね飛ばすほど。ぶつけられた対象物は骨に守られた内臓すら大きな損傷を負いかねない。だがそんな巨体が5つも寄れば、助走などつけようがない。それにも関わらず、閉鎖的空間に前進的助力を得ずとも、主らの団塊によって得た大力は壁向こうの邪魔者へとぶつけるべく、二の足など踏まずにたったの一歩とたったの一足で突っ込んだ。巨躯を支える足を見るに構造は人と同じであろうが、脚力は大猪を優に越えている。絶対に等しい満ち溢れた突進への覚悟はそれらを兼ね備えているからだろう。思いの丈の肉塊が岩肌へと向かっていく。
ガキィィンッ!!
突進をぶちかまそうと参った刹那、壁の岩肌が自ら亀裂を入れた。まだ獅子頭の皮膚が一片も触れぬまま。その亀裂が一度に大きくヒビを成し、崩落直前の壁からほんの僅かに見えた太い銀色の刃先が、先陣を切った獅子頭の額が壁に激突するよりもさらに速く到達する。
ギグシュッ!
岩肌へと差し掛かるほんの僅かな一瞬はすぐに消えて失せた。刃が欠けて溢れた鈍色に光る刃先は先頭の獅子頭を貫き、後頭部から突き出た刃の勢いは後続にいたもう一匹の鼻頭に易々と届き、剣の刃先が鼻骨と鼻腔を楽々と越えた辺りでようやく先頭の頭部に剣の鍔が衝突する。
刃に串刺しにされた二つの頭部が隙間なく両隣になるまで連なる様は一瞬で完成され、あともう一つ…いやもう三つほどあれば豪華な串団子状の、実にえげつない光景を見ていたに違いない。この様子がこんなにも緩やかに見えているのは、あまりの勢いと速さに『私』は見逃すことがないよう全集中していた為であって、少々緩慢に映像が見えているだろう。しかし実際の所辛うじて見えた一部分はこれだけであり、集中というのはそう長くもたないものだと思う。現に『私』が次に見れたのはあまりにもむごい光景だった。
ギグシュ!
グギ…ッ!
いの一番に貫かれた先頭主の獅子顔は長物の剣の鍔に掛かって止まるだけに終わらず、鍔の金物が眼底と鼻と上顎の骨を破砕して押し潰し、首と胴体を繋ぐ脊椎の根は簡単に脊柱の骨組みから容易く抜け、どうにか繋がったままの首の肉は徐々に皮膚が裂けていきながらも後ろへと伸びていった。
その力量の差によって凄惨となったことは醜い主らの前へ出る攻勢による原因や影響があってのように見受けられるが、しかしこれが獅子頭の勢いを利用して貫いたものではないのだと『私』はすぐに思い知らされる。二匹の頭をつんざいて、残り三匹の奮起した威勢すらも打ち負かし、崩落した岩壁の雪崩から柄を握る手が見えてきたのを見てその異常さがハッキリと判明する。
元の形の面影すら知ることを追えぬほどの剣、その剣柄を握る銀色の籠手。崩れた岩肌の向こうから煩く打ち鳴らす音の正体は、細かな塵と砂の霧を抜けてようやく部屋にその姿を現す。
砕けて崩れた岩の破片をはね除ける、銀色の甲冑に全身を包み、獣の巨躯にも匹敵しそうなほどの大柄な戦士。己よりも二周りも大きい獣を突き抜く凄まじい破壊を伴った怒涛ぶりに目を奪われそうになるが、かろうじてそれが西洋の騎士であると見受けられたのは、装飾と装甲のプレートに施された栄華極めし、きらびやかで繊細な装飾によるものだ。
進んできたであろう騎士の背に見える暗がりの穴蔵は、荒削りの岩肌が僅かに見える。しかし騎士の身にもその周りにも、掘削の器具や道具、人手もまるで見当たらない。
主らにとって信じられないのはその後の事である。1匹の頭を貫くだけに終わる事もなく、そのまま前進を続けてきた騎士の愚行とも言える蛮行…いや。強行突破の破天荒ぶりに、醜い主らは威勢を失った。
既に息絶えた先頭の獣を盾に踏み留まろうとした4匹など介さず、一番手の死骸を剣に突き抜かせ、まとめて岩壁から部屋の隅へと押しのかした。
騎士は猛進する踏み足に体重をかけ、急停止する。押し崩されて倒れる獣らを前に、肩が揺れるほどの息を数回継いだあと、呼吸を整え、ゆっくりと姿勢を真っ直ぐにしていった。
足で停止をかけた時にはすでに騎士の剣からは一番手の猪頭は抜け、4匹共々吹き飛んでいた。歯切れの悪い剣を肉詰まりの顔面から引き抜くなど容易ではない。刃溢れの断片には削ぎ落として引き抜いた獣の肉片がまばらにこびりついている。
「はぁ……!はぁ……!」
「……ッ…」
騎士は顔をあげ、ようやく目前に広がる光景を把握したのだろう。荒く乱れた息すら忘れてしまうほど、鎖に吊るされた無惨な彼の姿を見て、騎士はほんの数秒…いや。その一瞬は騎士の中に時間というものが消え果てたように見えた。
「……ッ…王……?」
大きな深みに落ち続けていくような鉤爪が騎士の心に爪を立てて襲い始めた。息を立てている事すら真白の淵に消え、引き伸ばされていく絶望の時間の中に、騎士はただ立ち尽くすのみである。
吊り下がる小さな体…、錆びた鎖に繋がれた両手…、夥しい切り傷の痕…、汚物にまみれた藍色の髪…、流血に汚れた肌…、変色し赤みを帯びた皮膚…、噎せかえる汚臭を放ったボロボロの腰布…、垂れ落ちる血流の渇いた痕、新しい痕が青白い肌の上を何本も通っている。
「……も…っ…」
「…も…くもっ……くもっ…!」
「よくもっ…よくもッ…よくもッッ…!!」
吹いては消えていくもがり笛のような声が騎士を包む甲冑の隙間から鳴いて出る。甲高く鳴く鳥のような自由を模していても、その檻に籠った人物の"か弱さ"はまるで隠せていない。声から見える正体など大した問題ではない。
騎士の豪腕から振り払った剣から一番手の血と肉が壁一面にへばりつく。壁一面に血の滴が流れ落ち、死肉の段幕が騎士の異変を映し込む。
削がれた肉片と共にボロボロの刃が震えてこぼれ落ち、鍔の装飾に染み付いていた、まだ生き血に近いはずの血液も重圧を増していく拳の握りに応じて、恐ろしく早く枯れて剥がれていった。
剣に帯びていた獣の薄汚れた血が枯れ果てて粉散りに消えていく様を見るに、その騎士の答は明確だ。獣共が死にゆきて、骨と変わり血が消えていくまでの生き物としての必然すら、肯定しがたいのだ。
「よくもッッッ!!」
「貴様らぁあッ!!!!!」
怒声に混じって柄を握りしめた籠手の隙間からやけに明るく鮮やかな血の色がさらけだす。噴き上がりまで業を煮やした血色は、その光度たるや、まるで純潔すら思わせる。
大きな唸りと深い激情の声をあげ、騎士は剣を振り上げる。ボロボロの刃でありながらその剣が長物であることは違いない。振り上げた途端、その洞窟での愚行は行動可能領域の狭さに攻撃手段を失って、騎士の優勢は一変するだろう。
ガキィィンッ
一際けたたましい金属の音色が天井を突く。唯一の武具である剣の刃が砕けたか、天井へと刺さり刀身を失ったか。いずれにせよ悪い予感を伝える音であり、不吉な響きが血塗れの狭い部屋に轟いた。
だが騎士の剣は一振りすら耐えられぬ諸刃と化して尚、天井の岩盤へと剣を容易く斬り込ませ、岩盤から少しの抵抗も受けなかったかのように畏縮した獣らの頭部へと躊躇いなく振り落とした。
その殺意に溢れた勇姿が語るのは、剣一つ失うなどまるで構わない。一度振り上げた拳を、岩盤に突き刺さったくらいで止められてたまるものか、と。
剣は肉塊へ暴虐を尽くし、そして完全に折れ、折れた剣はもはや剣とは呼べぬ代物と成り下がる。しかし、構うものか。一度振り上げた剣であり、拳であることに変わりはない。
グ、ゴチャ…!
剣も拳も感情のままに振り下ろす先に、ほんの少しでもケダモノが感情を表に見せようとも構うものか。手を掲げ防御を敷いた別の主にも同じく破砕した剣の柄を振り落とす。
肉を散らし、骨を砕いて顔面へと貫くは様はもはや暴力によって生まれた凶器である。だが構うものか。
不恰好な凶器はさらなる暴力を振るう騎士の力に負け、やがて柄だけになっても騎士は止める素振りなどなく、柄を握る手を緩めぬままに両の拳で獣の塊を頭から粉砕し尽くす。
一片小片の欠片が微塵となって砕け散るまで全てを殴り潰した。脳か、目か、歯か、顎か。いくつもの破片が騎士の頭部を守る甲冑へと滴り、跳ね、当たっては落ちていった。
最初の豚の悲鳴が鳴り響いてからそれがようやく収まったのは、騎士と同じ銀色の甲冑を着た騎士数人がそこへ到着してからである。
「団長…ッ!」
その騎士団の甲冑の外装は、一番に乗り込んできた騎士と比べれば体格も一回り小さく、装飾も彫りも少し見劣っているように見える。
返り血の外装に身を染めた騎士がそれに気づくと共に、吊るされた彼の元へと慌ただしく駆け寄った。数人の騎士が彼の前でおたおたと尻込みをする最中、彼に臆することなく自らの手で鎖の枷を外し、彼の体を抱き抱える。
「……王…ッ…」
「しっかり…」
「貴方様は死んではなりません…!」
ゆっくりと豪華に装飾された布と衣に包まれるように抱かれ、彼は汚臭の部屋から運ばれていく。運びの主は、そう一番手の騎士。つい先程まで死肉を叩き潰していた栄華の騎士だ。
拳を何度となく叩き込んで返り血を浴びた騎士の手に、返り血で汚れぬためか怪我の状態を労ったが故の包みか。彼はやっと安心を得られる触り心地のいい感触を、ほんの僅かに感じただけで最早意識の半分以上を失いつつあった。
上下へ跳ねる大きな揺れと、地響きを立てる振動に彼は時折霧のような弱々しい意識を取り戻す。数を揃えた蹄の闊歩と甲冑の衝突音に、少女めいた悲痛な声も混じりだす。しかし彼には聞こえてもいなければ、見えてもいない。景色は瞼の裏と同じであり、闇に包まれている。全力で馬を走らせ、夜の道を駆けているなど知覚できる訳もない。
彼を抱える籠手から流血し続ける騎士の血量は、もはや致死に近いほど漏れている。だがそれでも彼を大事に抱えるその力が決して弱まる事はなく、彼に願いを込め続ける騎士の声は、あの洞窟で震わせた怒りとはまるで違う。
氾濫する川向こうの濁流の音を夜中に聞いて怯えるような、悲しさと恐ろしさに抗おうとする強き少女の囁きだった。
「…死んではいけません…!死んではいけません…!」
「貴方様がお死になられたら…!我々は…私は何を…!」
「何を信じていけば良いのですか…!」
その言葉を最後に彼の最後の知覚である認識は、決して日が当たることのないほどの深い記憶の泥中へと沈んでいった。
大きな門を通ったような気もする…、石の城塞を見たような気もする…、見たことのない天井を見たような気もする…、母のようなものを見たような気がする…、自分を見たような気がする…、顔を隠した人々を見たような気がする…。
幾つにも散乱した映像の中には似つかわしくないものも重なりあった。騎士とスーツ姿、建設中の高層ビルに石造りの城壁と、その世界には関連もせず類似しないものが頭の中で交互に映写されていった。
それがなんなのか。何を意味しているか『彼』には分からない。ただ、ハッキリと分かるものもあった。耳に聞こえる音である。それもごく最近聞き帯びており、過去の記憶と符合するものである。
あのひどく怯えた少女の声。ただの映像でしかない模造の産物は立体的な造形を帯びて銀色に光り、彼の左手を包み込んでいた。
「王…必ずや、お助け致します」
「御辛抱くださいませ。すぐに治し…いえ」
「治してみせます…!命に換えても」
冷たく重く沈みかけていた意識を掴みあげるように、生命を繋ぐ糸へと伝心する少女の声は、彼の者の絶えゆく灯火の風除けとなった。
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