猫とスタインウェイと少年
@TriggerHappyTK
猫とスタインウェイと少年
◇ プロローグ
気が付くと私は白い立方体で作られた世界にいた。白い立方体の建物が無数にならんでいる世界だ。
それは積もりたての処女雪のように白い床面から生えてきているように私の目には映った。ぐるりと首を巡らし周囲を見渡してみるが、辺りに白い立方体以外のものは何一つ見当たらない。上を仰げば天蓋までもが白いが、色彩に乏しいためかいまいち地面と天井との遠近感が掴めないので閉塞感はない。
小さな子供が無作為的に積み木を重ねていったように配置されている立方体の一つひとつには律儀にもドアが取り付けてある。そのドアまでもが立方体と同じく白で、まるで今さっきここから生えてきたとでもいうような、これもまた真白なドアノブが取り付けられている。
これは誰かの家なのだろうか?
ドアがあってドアノブがあるのだから、これはなにかの部屋として機能しているはずだ。
しかしこの立方体が一体なんなのか私には皆目見当もつかない。
私は暫時その不思議な世界に立ち尽くしたまま、微睡むような感覚でぼうっと辺りに視線を巡らせていた。
白い立方体や床の質感が妙に脆いようだと私は感じた。試しに床に転がっている飴玉ほどの小さな立方体を爪先でトンと踏んでみると、案の定それは乾いた音を立てて粉々に砕け散った。私はその一連の行為になぜだか虫を無意味に殺した時に抱く罪悪感を覚えた。 膝を折ってしゃがみ、砕けた立方体の破片(というには余りにも破片は小さく、粉と表現した方が適切なのかもしれない)を右手の人差し指と親指で摘まんで左の掌に落として子細に観察してみる。ラムネ菓子の原料のようだ。あるいはそれは火葬された後の人の骨を私に連想させた。粉々になった人骨のような、はたまたラムネ菓子のような正体不明のそれを口に含むことも私は考えたが、その行為は常識的観念から考えればありえない。地面の砂を口に含むのと同じだ。
そもそも地面にはこれと同じようにいくつか小さな白い立方体が転がっている。小さっ過ぎてドアがついているのかまでは確認できない。
もしかしたら、この小さなものが徐々に成長していっていま私の目の前に広がる大きなものになるのだろうか? 私の頭のなかのイメージで、それは筍と結びついた。
立ち上がった私は両掌をパンパンと叩いてその粉を払った。その拍子に発せられた乾いた音は、虚ろな音を立ててその世界に大きくやけに誇張されて響いた。まるで静まり返った音響のいい部屋にいるみたいだと思った。
そのような過程を経て私は、今更ながらにこの世界に音がないのだと気が付く。この世界には私がなにかする以外には音は発生しない。全く――いや、完全に。完璧に。非常に沈黙している。生命の息吹すらも感じられない。風も吹かなければ太陽が地上を暖かく照らすことも、気温もにおいも昼も夜もないのだからそう思うのは当然のことだった。
そして私は自分が一体いつからこうしているのかの時間感覚があやふやになってくる。 私はいつからここに立っていたんだっけ? つい数分前のような気もすれば、もうずっとここに立っているような気もする……。いや、錯覚だ。私がこの世界にやってきたのは(という表現が適切なのかは不明だが)つい数分前だ。
私は癖で腕時計を確かめる仕草をしたが、私は腕時計を付けていなかった。私は洗い立てのように白いシャツに、今さっき買ったばかりのような質感の黒いチノパンツを履いていた。気になって服のにおいを嗅いでみるが、私の嗅覚はそこからなんのにおいも感覚に伝達してこなかった。
以前(ここで目覚める前のことだ)、私はなにをしていたんだっけ? と自分の中にふと生じた空白に気が付いた私は思う。どのような経緯からここに来たのか、あるいは連れてこられたのか私は疑問に思う。ここに来る前に私はなにをしていたのかと細い水脈を辿るようにして自らの記憶を辿って行くが、水脈はつい数分前、私が目覚めた時から途切れてしまっているようだった。自分の名前も思い出せない。性別が男で、十五、六歳くらいの少年だ(自分のことを少年だと言うのは変な気もするが)ということもわかる。鏡がなく自分の顔を確認することができないので、自分がどんな顔をしているのかはわからないが、とにかく私は十五、六の少年だった。
この世界で私が自身に抱く概念は、かなり不安定だ。
……なにしろ、私という存在がどういうものであるか自身にもわからないのだし、なにより自分の顔すらわからないのだから。
しかし、特に私は自分の存在が不確かであるということを不便だとは思わなかったし、精神的にも不安定になったりはしなかった。この不可解な状況にもなぜかは良くわからないが、危機感も不安感も恐怖心も私は抱いていなかった。心の中は凪いだ海のように平穏だ。決して冷静というのではない。ただ不思議と落ち着いているのだ。
改めて世界(もしくは部屋だろうか?)の風景をグルリと見回す。白い床から生える白い立方体だけの風景。。その一見無機質なように見える風景は私に寂しげな印象を与えた。あるいはこの世界は本当に寂しいのかもしれない。根拠はないがそう思った。
寂しく、そして孤独だ。
これは夢ではないだろうか、と私は考える。しかし、夢にしては感覚にリアリティがありすぎる。一つひとつの感覚のディテールが細かいし意識も明瞭だ。思った通りに身体を動かすこともできる。試しにラジオ体操の序盤を踊ってみたが問題は見当たらなかった。 明晰夢? 可能性としてはあるのだろうが、夢というのはここまで現実に迫った感覚を持つものなのだろうか。そして私は言うなれば記憶喪失の状態にある。夢の中で記憶喪失なんて話は聞いたことがない。ただ世の中には何事にも前例となる事象は存在するものだ。だからいまの状況が明晰夢ではないと断定することはできない。しかしこれが夢だろうが現実だろうが私にとってはどうでもいいことだった。夢ならばいつか醒めるだろう。
それに私にはこの世界においての目的が存在している。なぜか私はその目的をどんな経緯があったのかは知らないが持っている。それはいまの私にとっては自我――あるいは全てと呼んで良いようなものだ。いまの私という個人の核となっているのはその目的というわけだ。私はこの世界の中で、立方体の部屋を巡って大事なものを探さなければならない。その大事なものが一体なんなのかは不明だ。しかし見れば分かるという強い予感――いや、それは予感よりも強い感覚――確信を私は抱いている。
とにかく、ここでいつまでも立っているわけにもいかないので私は一歩を踏み出した。カツン、という硬く尖った音が歩を進める度に大きく世界に響いた。
◇ 一章『形而上的な深淵』
それから私は夢なのか現実なのか判然としない真白な世界を『探しもの』を求めて当て所なく歩いた。辺りには変わり映えのない風景が広がっていて、少し歩けば元に私が立っていた場所すら覚束ない。私はクジでも引くようにして白い立方体のドアを開けて『探しもの』が無いかどうか中を覗いて確認していった。もしかしたら私が覗かなかった立方体の中に私の探しているものが隠されている可能性は否めなかったし、それなら一つひとつの立方体を訪れる方が良いと思われたが、私はそうはしなかった。私はあくまで直感的に『ここだ』と感じた立方体を訪れた。そして私が見逃した(というより故意に訪れなかった)部屋には私の探しているものは見つからないだろうと私は思っている。それは可能性というよりかは、ある意味で蓋然性の問題でもある。
最初は一応礼儀としてドアをノックしたり外から声を掛けてみたりしたのだが、返事は一切として返ってこなかったので、三つ目のドアを開ける頃には私はもうドアをノックすることも声をかけることもやめていた。ここには私以外の生き物は存在しない。もしかしたら幽霊なら存在するのかもしれないが、見えないものに礼儀を払ったって無駄というものである。
だいたいの立方体の中は外見からは想像できない程の広さ(外見が大体、縦横に三メートル四方の大きさだ。そしてその内側は立方体によって様々だが最低でも十畳以上のスペースがあって、いまのところ私が覗いた部屋は全てがらんどうだった。ただ潔癖なまでの白い床と壁と天井がある、なにもない空間が広がっているだけである。
しかし私は特にそのことを残念だとも思わなかったし徒労感も抱かなかった。感覚的にはそれほど当たる確信のないクジを引いて外れだった時の心境だろうか。別に焦る必要はない。あくまで悠揚迫らざるといった風に私は真白な世界を歩いてはここだと思った立方体を訪れた。私は別に時間に追われながら『探しもの』をしているわけではないのだから悠々自適としていて構わないだろう。焦ったところでそれが簡単に見つかるわけでもないというのはわかっている。
歩き続けてどれくらい経った頃だろうか? 私は不思議なことに自分が疲れも空腹も、更には喉の渇きすら感じていないことにやっと気が付いた。改めて私はこの場所を不思議な場所だと感じた。不思議。それ以外に適当な言葉があるだろうか? 科学的根拠の入り込む余地も、現実的な常識が入り込む余地もこの場所にはない。しかし私という存在がこの場所に介在するなんらかの必然性はあるようだ。それには恐らく例の探しものが深く関わっているのだろう。
必然性。それはなんだか妙にしっくりとくる言葉だ。
しばらく歩いた。
ふと、私は妙に気にかかる立方体を見つけて足を止めた。見かけは他のものと変わりないが、なぜだか私にはその立方体が気になって仕方がなかった。ちょうど目を逸らしたくてもそこについつい目をやってしまうような感じで。
私はその部屋を訪れてみることにした。ここには必ずなにかがあると私は今までになく強く直感した。ノックも声かけも要らない。私はその白い立方体のドアノブを躊躇いなく捻ってドアを開け、部屋の中へと踏み入った。
予想した通りドアの先に待ち受けていた風景はいままでとは全く違うものだった。
室内の白い壁の一面(部屋を入って奥手側)には、読み取りやすくくっきりとした機械的な黒い字で難解そうな数式や方程式や記号が羅列されていて、白い床の上には粗末に投げ捨てられた紙くずのように黒いペンが転がっていた。
私は歩を進め腰を折り、床のペンを拾ってから壁に近づき、羅列されているそれらの数学的問題にざっと目を通してみた。
――簡単じゃないか。
私はものの数秒でそれらの問題の難易度を見抜き、ペンのキャップを取った。
それらは『一見』すれば難解そうに見えるだけで、いざ取り組もうとすれば後は、問題自体がそれほど難しいものではないので、そこに入れるべき式や数字を当て嵌めてゆけばいい。見かけ倒しだ。難解だと思っていた小説が、読んでみたら以外にすんなりと頭に入ってきたというのはよくある話であり、それはその類いのものと全く一緒だった。
私はそれらの問題をさして苦に思うこともなく全て解いた。その後で私は、自らの作品を点検する画家のように少し壁から離れてイコールの後にきちんと収まるべき数字が収まっているかを確認した。不足点は見当たらない。おそらく全問正答している。しかしその瞬間私の中に達成感は欠片も湧いてこなかった。その時に私の胸中に浮かび上がってきた感情は寧ろ空しさだった。正しい答えでイコールの後が埋められたそれらの問題を見ていると、まるで形而上的な深淵を覗いている時に感じるような空しさを抱いた。理由はわからない。
その刹那、私は背後から刺されるような、それでいてどこか粘着的な悪意を孕んだ視線を感じた。人を不快にさせるような『くすくす』という数人の含み笑いが同時に耳に届く。 一瞬、私の脳裏にこれとよく似た画像的な風景がフラッシュバックした。私は教室の教壇の上に立っていた。私は教師から名指しされ黒板で問題を解いていたのだ。その時に背後に感じた嫌な視線と『くすくす』という含み笑い。私は何を考える暇もなく咄嗟に振り向いた。しかし部屋には私以外の誰もいなかった。ましてやそこは教室ではない。動悸が激しくなっている。身体中の皮膚に細い針のようなもので突かれたような神経的な痛みを感じる。私は気分が悪くなって急いでその部屋を出た。
それから気持ちを静めるためにその白い世界を私はひたすらに歩いた。気が付くと私はそこがどこともわからない真白で静謐な世界の真ん中にいて、あの部屋からどの道をどう歩いて来たのか覚えていなかった。しかし元々辺りの風景に変わりはないのだからそんなこと覚えていてもいなくても特に問題はないだろう。
そしていくつか判明したことがある。私自身のことについてだ。
◇ 二章『それは辛く孤独な日々だった』
私は大陸にある四つの内一つの王都から幾分離れたところにある、とある片田舎の街の領主の息子として育った。田舎と言うからには流石に王都や副都のようには栄えてはいなかったが、地方では都市として機能するほどのそれなりに大きな街である。私の父はその街にある一区域の領主でいわゆる既得権益を貪る『伝統的』金持ちであり、金銭的になに一つ不自由することなく私はその一人息子として育てられた。母は熱心な教育者であり、父は人に高いスペックを求めるストイックな人間だった。彼らは私に幼少の頃から数々の英才的教育――最高に近い質の教師や芸術家を雇い、私に勉学や芸術の教養を施し、当然の成り行きとして私は街の学校で常に優秀な成績を保つことを彼らに嘱望された。
私としては機械的に熟す勉強も、格式張った芸術にも飽き飽きとしていた。できれば年相応の子供のように外に遊びに出たかったし、絵もピアノも自分の思うままに嗜みたかった。しかし私は彼らの期待に応えないわけにはいかなかった。演奏会があればそこで必ず表彰を貰ったし、テストがあれば一番を取った。そうしないわけにはいかなかった。それは一種の洗脳のようなものだ。
何度も言うが、わかってはいたがそうしないわけにはいかなかったのだ。そうして彼らの求める私に対しての理想は日を追う毎に高くなっていった。
当然ながらそんな毎日を送っていた私は級友たちの輪に馴染めなかった。私は孤独だった。家では両親からの期待が押しつぶされるようなプレッシャーとなって私を苛んだし、学校では自分の認知しない話題で色めく学友たちの輪に馴染めることなく、せいぜい私が学校で口を開くとしたら教師に当てられた時のものだった。もちろん最初の頃からそうだったわけではない。最初の内は少なからず私のことを尊敬している級友もいた。しかし歳を追う毎に彼らは私から興味関心を失い次第に離れていった。私が実のないつまらない人間だと気が付いたのだろう。
そのようにして送る日々。それは辛く孤独な日々だった。
そしてそんな私を良く思わない者はむろん存在した。
私の父と同じく街の一区域を治める領主の次男で、リヒトという少年だった。彼は私の家よりも大きな家の次男で、大人に好印象を持たせるのが上手な、それでいて頭の切れる狡猾な少年だった。また、彼には天性の才とも言えるほど他人を掌握し操るコミュニケーション能力を持っていた。それでいてその手の人物の大半がそうであるように軽薄な人間だった。
いつもグループの中心にいる彼は私にその尖った感情の矛を向けていた。理由は単純だった。人間が百足や蜘蛛を生理的に嫌うように彼と私が本質的に相容れなかったのと、勉学や芸術の何に於いて彼は私に阻まれて一番になることができなかったからである。学校では私が首位を取って彼が二番手というのがお決まりになっていた。
別に私は故意的にプライドの高い彼に劣等感を植え付けた訳ではないが、この成り行きは必然であり宿命だった。そうして彼は私を排斥の対象と見做した。彼は私についての根拠のない悪評を言いふらしたり、物を隠したりと自分が決して表に出ない形で――勿論私は一連の嫌がらせの張本人がリヒト本人だと勘づいていたわけだが――陰湿にそして執拗に私にその悪意をぶつけてきた。
今まで友人もおらず、孤独だった私にとって彼の陰険な謀略は精々鬱悒い日々がまた少しだけ陰々滅々とした程度であったが、しかしそれでも鬱陶しいのは変わりがなく、かと言って私にできる効果的な行動というのもこれと言って特になかったので、私は今まで通りの、以前と何ら変わらぬ素振りをしながら日々を過ごした。
なるべく涼しい顔をして、何気なく過ごす。そうすることが私が彼に返せる一番のアイロニーだった。
私があの白い立方体の中で感じた空気は、まさに私が日常的に受けていた陰湿で精神的嫌がらせの内の一つだった。彼はどのような視線で相手を見詰め、どのように効果的で嫌な空気を婉曲的に作れば良いのかを熟知している。
忘れていたとはいえ、少なくともあの部屋の中で私は動揺してしまった。それはつまりリヒトの陰険な嫌がらせに私が一時的にでも屈してしまったということだった。そして私は自分でも気が付かないうちにそれらに意識の水面下で怯えていたということだ。私はそのことを深く恥じ入った。屈辱にさえ思った。魂を陵辱されたような屈辱感だ。
知らずの内に私は激情に揺さぶられていた。それは彼に対する激しい怒りの感情だった。何でも良いから手近な物にあたりたかった。しかし辺りには立方体の白い建物以外何もない。私は強く歯を食いしばった。立方体の壁に拳を叩き付ける為に腕を振りかぶったが、途中で思いとどまってやめた。こんなことをしても何にもならないじゃないか、不合理だ。かと言って身から染みだしてくるような怒りを留めておくようなことはできない。よほど思い切り大声で叫ぶことも考えた。私は何とか理性を保ってそれを抑えた。
周りに誰かがいて今の私の状態を見たら異常者だと思うだろう。私は(私の認識では)この世界に私以外の誰かが存在していないことに感謝した。辺りの風景は私の意識が覚醒した時からまるで能面のように変わっていない。その普遍とも思える事実がやがて私に理性を取り戻させた。
そこからまたしばらく歩いて冷静になると、原初の疑問が鎌首を擡げた。ここは一体どこなのだろう? とても現実だとは思えないが、夢だとも判断し辛い。分析するに恐らく、私はあの白い立方体の部屋を訪れることによって段階的に記憶を取り戻して行くのだろう。まだ記憶は断片的にしか戻っていないのだ。状況を省みるに、この世界は私の為に存在していると言っても過言ではないように思われた。
そして記憶が一部戻ったとはいえ探しものの正体は未だ判然とはしていない。その探しものというのは間違いなく私が大事にしていた何かに違いないのだが、それが何なのか……。
そしてなぜだか私の頭の中には『ピアノ』というワードが引っ掛かるようにして思い浮かんでいた。ピアノが私の探しものの鍵になっているのだろうか。いずれにせよ、その引っ掛かりが解ければ何かしら事態に進展があるだろうことは明らかなことであった。しかしそれについていくら思いを巡らせてみても、しっかりとした質量のある霧の壁が私の記憶を妨げてその先にある答えを覆い隠している。濃霧を振り払うには、どうやら白い立方体の部屋を訪れるしかないらしい。そうして私はあまり幸福とは言えない過去を取り戻し、探しものを見つけなければいけない。そして当たり前の事なのだが、記憶が欠けているということは私の自我が不完全であるということだ。人間は過去の出来事や体験を通して価値観を身に付け、自我を構成する。これは私という存在を真に取り戻す作業でもあるのだ。
◇三章『制約も指摘もないリバティーな演奏』
前回の立方体を訪れた時の『あの感覚』を頼りに白い世界を歩いてゆく。私が訪れる部屋を選ぶのではない。部屋が私を呼び寄せるような不思議な感覚だ。私はある程度そのことに気を配りながら頭の中では本来の私という人物について、探しもののことについて思考を巡らせていた。しかし得られたものは何一つとしてなく、全ては堂々巡りに終わっていた。
どれくらい歩いた頃だろう、私は私を呼ぶ部屋の声を再び耳にした。勿論それは比喩であって実際に声が聞こえたのではないが、しかしやはりそれは明瞭な感覚となって私に訴えかけてきていた。私はその声に注意深く耳を澄ませながら歩を進める。
やがて私は無数の立方体の内の一つの部屋の前に辿り着いた。例の通りそれは周囲の立方体となんら区別の付かないものであったが、確かにその部屋は私のことを呼んでいた。
私はノブを握りながらしばし沈思黙考した。この部屋では一体何が待ち構えているのだろう、どんな記憶が思い出され、何を得、どんな私が待ち受けているのだろう。しかしドアを開かなければ幾ら思いを巡らせたところで何も見えてこない。鍵の掛かった宝箱のように。私は覚悟を決めて手に握ったそれをひと思いに捻り、部屋の中へと踏み入った。
部屋の中は六畳ほどの狭い空間だった。今までと変わらず四面の壁も床も天井も白い。今更だがこの世界には光源がない。影もない。ではどこから私の瞳は光を取り入れ景色を認識できるのかというのは分からない。別に私はこの世界のそういった非化学的な現象をいちいち取り上げて科学的な側面から検証しようとは思わない。
取りあえずその部屋は六畳ほどの真白な密室であった。例の通り閉塞感はない。そして部屋の中央には黒くて無骨な譜面台と、それに立て掛けられた楽譜が気配をすっかり殺して、まるで静謐な樹海の深部に作られた参拝者なき墓標のように静かに佇んでいた。
私はそこに眠る何かの意思のようなものを起こさないように、そこにある静寂を壊してしまわないように、譜面台に慎重に、しかし不自然にはならない程度の慎重さで歩み寄った。歩数にして四歩にも満たない距離だが、私にとってその数歩は実際の倍以上の長さに感じられた。部屋に小さな衣擦れの音が鳴った。
譜面台の前に立った私はそこに立て掛けられた楽譜を手に取って譜面を追った。楽曲名こそそこには記されていなかったが、私にはその楽譜がなんの楽曲のものであるかが分かった。これはショパンの『子猫のワルツ』だ。なぜ譜面台に置かれていたのがこの『子猫のワルツ』の楽譜なのか私は譜面を見るともなしに見詰めながら考えてみた。その内に私はこの曲を何度も誰かの為に弾いたのだということを思い出した。その『誰か』は『子猫のワルツ』が好きだったのだ。だから私は飽くことなく何回もこの曲を弾いた。しかし誰に弾いたんだっけ? 私は首を捻って考える。まるで頭の中の記憶の抽斗を一つひとつ丁寧に確認するように。
そうだ、と私は記憶にかかっていた靄を振り払い唐突に思い出した。友だちだ。友だちにこの曲を弾いたのだ。そこまでは思い出せた。『子猫のワルツ』を弾くとき楽しい気持ちになれたことも。その友だちはどんな人だったんだっけ? 私は頭の中に友だちの人物像を思い浮かべてみる。しかし上手くイメージの像が結びつかない。しかしこの曲を弾いたのは決まって私の家にある、十畳ほどのあまり広いとは言えないスタジオだったことは覚えている。それ以外の場所ではこの曲は弾かなかった。
スタジオは家の中で私が一番馴染み深い場所だった。華美な家具で飾られた無駄に広い自室より、簡素で物の少ないスタジオの方が私の性に合っていたからだ。部屋の家具や装飾品は母が勝手に選んだ。スタジオがあまり広くないのは、父や母はスタジオを広く作ろうと思っていたようだが、私があまり広くしないでくれと頼んだためだ。
立地条件としてはその場所は最高だった。南向きの窓からは暖かい陽光が差し込んだし、夏でも涼しげな風が白いカーテンを柔らかく膨らませて部屋に吹き込んできた。そしてそこからは、父の雇った優秀な庭師によって自然の美しさを損なわない程度に几帳面に手入れされた庭園を望むことができた。
私はよくスタインウェイの前に座って窓の外の庭園を眺めたものだった。四角い窓に切り取られた四季折々の花々の景色や青々とした芝は、まるで時間の経過と共に姿を変えてゆく絵画のように私の目には映った。春にはアザレアやアネモネ。それとアヤメやチューリップが。夏にはヒマワリやアサガオやカーネーション。秋にはコスモスやキンモクセイやバラが咲き、冬でもパンジーやポインセチアが庭を彩った。
庭師と私はよく、彼の作る美しい景色について、植物についての歓談をしたものだった。彼はどの花がどういう名前なのか、そしてその花についての事細かで実際的な知識を私に与えてくれた。庭師は老齢の男性だが今でも現役として私の家の庭園の世話をしている。
私と友だちが出会ったのは、そのスタジオでのことだった。ちょうどその時私は『子猫のワルツ』を誰に口を出されることもなく(何故この選曲だったのか理由はよく憶えていないが)、奔放な調子で弾いていた。こんな現場を目撃されたらピアノ教師は私に何か言うだろうか。言うだろう。リズムがどうだとか、運指がどうだとか、ここの休符がどうだとかそんな些末な指摘を飽きもせず。しかしその時は私の演奏に文句を言う者はいなかったし、気持ち良く思ったままに演奏ができた。私はよくこうして『自分の為の音楽』を演奏した。誰に気を遣うこともない、自由な演奏だ。
私は基本的にいつもスタジオの窓を開けていた。晩春の頃の暖かい風や、それが運んでくる花の香りが心地よかったからである(言うまでもないと思うが、冬季や風の強い日や雨が降っている日は流石に窓を開けることはしなかった)。防音効果のある窓を開けてしまっているせいで音は盛大に外に漏れてしまうだろうが、その時は休日の昼下がりで両親は出払っている。私に数学を教える家庭教師がやってくるのは一時間後だ。
『子猫のワルツ』を弾き終わると、背後でニャアと何かの鳴き声が聞こえた。私が声に釣られて振り向くと、いつからいたのだろうか、そこの丸椅子の上に身を丸めていた黒猫と目が合った。大きいアーモンド型のつり上がった目をした子猫だった。黒猫は私と目が合うと首を持ち上げ、耳をピンと上に立ち上げて私を見詰め返した。
やがて私と黒猫の中で何かが通じあったのか(それは当人である私にもわからないが、何となくそういう気がしたのだ)、黒猫はまた首を元の場所に落ち着けて目を瞑った。自由気ままでマイペースな猫らしい態度だった。
私は鍵盤に向き直ると、猫の気ままさに倣って制約も指摘もないリバティーな演奏を再開した。
翌日も同じ時刻に窓を開け放して私が一人でピアノを弾いていると、昨日と同じように気が付けば黒猫は音も無く丸椅子の上に丸まっていた。その猫が私の演奏を聴きに来たのか、あるいはこの部屋が猫にとって居心地が良いのかは不明だったが、私は『子猫のワルツ』を先日と同じように弾いた。他には『長靴をはいたネコ』も弾いた。猫はその間、大人しく丸椅子の上で私の演奏を聴いているだけだった。誰かの見栄や立ち場の為に演奏をするのに辟易としていた私だったが、黒猫に私本来の感性を生かしたピアノ演奏を聴いてもらうのは悪くない気分だった。
それから一時間ばかりが経過すると黒猫は約束でも思い出したようにしてハッと顔を上げ、しなやかな身のこなしで丸椅子から飛び降りると窓の縁に立ち、スタインウェイの前に座る私の方に一瞥を寄越してから外へと出て行った。きっと会釈をしたつもりなのだろうと思うと少し微笑ましい気持ちになれた。
それから毎日のように黒猫はスタジオに訪れては私の演奏を聴きに来た。そのうち彼女(その黒猫は雌だった)の方から次第に私に距離を詰めるようになってきて、私が怖ず怖ずと彼女に手を伸ばして顎の下や腹を毛並みに撫でてやると、気持ちよさそうに喉を鳴らして目を細めた。もしかしたらピアノに興味があるのかも知れないと思い鍵盤の上にのせてやると面白そうにその上を駆け回って音を鳴らした。ショパンは猫が鍵盤の上を駆け回ったことから『子猫のワルツ』の着想を得たらしいことを私は思い出した。
ある日に黒猫が血塗れのモグラの死骸を口に咥えてやってきたこともあった。恐らく猫なりの好意のしるしなのだろうが、人間基準で言えば嬉しくない。しかしせっかくの好意を無碍にしたくなかったこともあって私は黒猫からのプレゼントを受け取った。気が付けば私と黒猫は友だちのような間柄になっていた。
そうして私は例の『探しもの』がなんであるかを思い出した。私が探していたのは、その黒猫だった。黒猫はある日を境にパッタリとスタジオに訪れなくなったのだ。恐らく私はどこかへ行ってしまった友だちを探し求めてこの不思議な場所に迷い込んでしまったのだろう。そしてどうやら私にはまだ思い出していない事柄が幾つか存在しているらしい。まだ取り戻していない私自身の欠片がこの世界にはまだ落ちている。私は私の記憶を――そして私自身をいま一度取り戻し、黒猫を見つけ出さなければいけない。この世界に黒猫はいるし、私の記憶は散在している。そんな確信があった。
私は手に持っていた『子猫のワルツ』の譜面を閉じ、それを手に持ったまま部屋を後にした。
◇四章『臆病者で見栄っ張りのクズ!』
私は先の部屋で入手した譜面を片手に、記憶と黒猫を探して白い世界を歩いた。
しばらく歩いて、ふいに私は自身が一つの記憶を取り戻していることを知った。立方体を訪れていないのにも関わらずだ。こういうこともあるのだろうか。あるいは私の魂から散り散りになって乖離してしまった記憶が、私を求めてこの世界を探し回っているのかもしれない。そしていま、一つの記憶が私に辿り着いた。
それは二人の友だちに関する記憶だった。
一人はアルフという少年。彼は常に身体のどこかに絆創膏を貼っているような活発な少年で、血気盛んで喧嘩っ早い性格をしている。もう一人はリタという少女。彼女はアルフの幼馴染みで面倒見がよく、男子顔負けに腕っ節と気が強い。
リヒトは前に記したとおり、表面上は人当たりがよく人心を掌握するのに長けた能力を持っている。しかし、誰も彼もが額面通りにリヒトの性格を受け取るような盲目的な人間というわけではない。私のように彼の本質を本能的に悟り、距離を置く人間も決して少なくはなくて、アルフやリタは彼の根底の性格を見抜いた内の一人だった。
私が彼らと出会ったのはひょんなことだった。たまたまアルフと集会の席が隣り合わせで、彼のほうから私に話しかけてきたのである。自惚れているわけではないが、この学校で私の名前を知らない者はいない。いたら編入してきたばかりの編入生かあるいはもぐりだと思う。試験後に廊下に張り出される結果で毎回のように首位を獲得していて、男爵家とは言えこの辺りでは二番目の権威を持つ家柄の長男である私はこの学校ではかなりの有名人であった。
アルフは隣に座る私を見て「お、優等生の」と言った。
私はその呼ばれ方が好きではない。なんだか呼ばれた側からすれば嫌味っぽさを感じる。でもそのときは彼の言葉は聞こえない振りをして、私は壇上でなにやら喋る教師へと目線を向けていた。
「なあなあ、優等生」
「――僕にはちゃんとした名前があるんだけど」声のするほうに振り返ると、そこには人懐こい笑みを浮かべる少年がいた。灰色がかった瞳に、普通のブロンドよりやや色素の薄い短髪。悪いやつではなさそうだ。それが彼に抱いた第一印象だった。
「顔は知ってるけど、名前は覚えてないってやつだよ」
そこで私と彼は小さな声で自己紹介をした。
「俺はアルフっていう。職人技術の教室で建築を勉強してる。だから同じクラスになったことはないかもな」
私は頷いた。私の選択は芸術なので、間違っても職人系を選択している生徒とは同じ教室にはならない。
我々は互いの自己紹介を終えると、それぞれの認知しない教室に話題が及んだ。たとえば建築の勉強とはどんなものをやるのか、あの有名は建物は後期ロマネスク建築であの建物はゴシック建築でどういう時代背景があって……などという建築史についての話をした。彼は私の知らない専門的で実際的な知識を豊富に持っていた。しかし、普段聞いている音楽は実はこういう理論に基づいて成り立っているだとか、あの音楽家はとんでもなく頭がおかしかっただとかそういう話をする私も彼からすれば同じように映ったのだろう。
アルフは好奇心旺盛な少年で、しらないことに対しては積極的に自ら踏み込んでいく性格をしていた。それは私も同だった。しらないことはしりたいし、好きなことに関してはとことん追求したい。そういう面では我々は本当に気があったと思う。
退屈なはずの集会は彼とお喋りをしていたお陰かすぐに過ぎ去っていった。
「なあ、昼休み誰かと過ごす予定はあるのか?」集会での別れ際、アルフが私にそう言ってきてくれたのはとても嬉しかった。私は頷いて彼とその日の昼休みに中庭のテラスで待ち合わせる約束をした。
昼休みになってテラスへと向かうと、私の姿を認めたアルフがこちらを呼んで大きく手を振ってくれていた。私が駆け足でそちらへと向かうと、そこには一人アルフとは別に見知らぬ少女がいた。肩より少し長めの赤毛と両の頬にそばかすのある少女。彼女は私を見てニコリと愛想良く微笑むと「私はリタ。アルフの幼馴染みよ」と言って自己紹介をした。
「よろしく――」私も彼女に倣って自己紹介をする。
「よろしく」相変わらず彼女は相好を崩さない。しかし、アルフに喋りかけるとなると彼女の語調や雰囲気はガラリと変わった。「あんた、よくこんな有名人と知り合いになれたわね」
「いや、たまたま集会で隣り合わせて世間話をしたら気があったっていうか――な?」
「まあね」
「ふうん――でもほんとうに、こんな馬鹿に付き合ってるとそのうちあなたまで馬鹿になっちゃうから、気をつけたほうがいいわよ?」
「だったらお前は何なんだよ!」
「あたしは耐性があるから大丈夫なのよ」
リタがそう言うとアルフはなにも言い返せずに、ぐうとだけ唸った。どうやらこの二人の力関係は明白らしい。おかしくて私が笑うと、アルフはどこかばつが悪いような恥ずかしいような仕草で頭を掻くとランチボックスを広げ始めた。
そうして我々は友だち同士になった。休日には一緒に川へと泳ぎに行ったり、魚を釣ったりして遊び、学校では分野こそ異なるが同じ場所で学ぶ学友として有意義な時間を過ごした。
そんなある日、我々とリヒトの集団とで一度だけ衝突したことがある。それはいつものようにテラスに出て三人で昼の時間を過ごしている時だった。そこへたまたまリヒトが近くを通りがかり聞こえよがしに嫌味を吐いたのだ。私からしてみればそれは日常的なもので、全く聞こえていない振りをして無視をしていた。しかしアルフにしてみればそれは我慢ならないことらしく、彼は私に「いつもああなのか」と問うた。彼の怒りに燃える灰色の瞳に私はどこか嫌な予感を抱いた。
「そうだよ」私は慎重に言葉を選んで答えた。もしかすると、返答次第ではアルフの逆鱗に触れてしまう可能性があったからだ。「でももう慣れたさ」
「そういうのは慣れちゃダメだ。クソリヒトめ、俺が文句を言ってくる」言って唐突に彼は立ち上がると、私やリタが静止する間もなくリヒトの歩き去った方へと早足で歩いて行った。残された我々もすぐに立ち上がってアルフを追った。
「ごめん、僕のせいで」
「そんな謝ることじゃないのよ。これはアルフ自身の問題でもあるんだし」
「問題? それって……」
「実は昔――」リタが後を続けようとしたが、彼女は口を噤んだ。彼女の目線の先ではアルフとリヒトが一触即発の空気で睨み合っていた。周囲には二人のやり取りを囃し立てる人垣があった。我々はその人垣を割って入っていった。
「マルコのときもそうだった。お前はまだ懲りないのかよ、リヒト!」
「僕はなにもやってない。マルコはただちょっとだけ、人並み以下にこころが脆い人間だったって話じゃないか。それで僕が彼になにをしたって証拠は――」
「――臆病者の陰湿なやり口に証拠もクソもあるわけないだろ!」
「なんだと……」
「何度でも言ってやるよ。一人じゃなにもできないし、ましてや家柄しか取り柄のない臆病者で見栄っ張りのクズ!」
アルフのその言葉が引き金となった。リヒトは怒りで我を失い猛然とアルフに殴りかかった。しかし喧嘩慣れしたアルフとそうでない温室育ちのリヒトとでは、もはや比べるまでもなく、彼の拳は軽くいなされて宙を裂くに終わった。手を上げるだけ無駄だとアルフも分かっているのだろう。彼はリヒトの拳や蹴りをいなし(時には受けたが)ながら彼を罵倒し続けた。やがて誰かが呼んだのか教師がやって来ると、二人は取り押さえられた。 放課後、やっと教師たちの絞りから開放されたアルフを私とリタで迎えた。
「お勤めご苦労様」とリタが言った。
「僕のせいで、ごめん」
私がそう言うとアルフは首を振った。「悪いのはリヒトだ。それに、いつもは杓子定規に規律だとか道徳を説いてるくせに、いざとなれば権力に楯突けないクソ教師たちだ。あいつら俺より先に、肝心のリヒトを帰しやがった」
「でも、向こう見ずに喧嘩を売ったあんたも悪いわよ」
「そりゃそうだけどさ……でも、許せないものは許せなかったんだ」
「マルコって言っていたけど」と私。
「ああ……二年前にあいつのせいで学校からいなくなった、俺の友だちだよ」ということは、リタの友だちでもあったのだろうと私は思う。「確かに気は弱かったし、ぐずで間抜けなところもあったが、いつだって口に出せないだけでちゃんと自分の意見を持っていたし、なにより悪い奴じゃなかった。でもそういう奴なんだよ。リヒトみたいなクズから目を付けられる人間っていうのは」
そう言った後で慌ててアルフは「ああ、もちろん、お前がぐずで間抜けっていうんじゃないんだ」と付け加えた。
「……だから、僕に対してきつく当たってくるリヒトが許せなかった」
アルフは黙って頷いた。それから「俺のことなのに、巻き込んじゃったな」と気弱に呟いた。「ごめん」
「いいんだ。僕は嬉しかったよ。今までそんな風に怒ってくれる人なんていなかったし、特にリヒトをめちゃくちゃに言っているところなんて最高だった。ありがとう」
アルフは少しだけ照れくさそうに俯くと、ばりばりと頭を掻いた。
◇五章『黒猫は静かに椅子の上に丸まっていた』
今度の立方体が私の為に用意した(のであろう)部屋は、私の家の食堂を模した空間だった。部屋の中央には長方形の細長い食堂机が配されており、それとセットになった食堂椅子が左右に四つずつ並んでいる。誕生日席も一つ設けられていて、壁には絵が掛けられている。クロスの敷かれたテーブルには何も生けられていない空っぽの陶製の花瓶があり、カラトリーセットや取り皿が整列をした兵士のように行儀良く並んでいる。食卓の席に着いている者はもちろんいない。この部屋にいるのは私だけだった。
そして私の記憶の中では、私の家の食堂は豪奢な色合いに彩られた場所であるはずだった。しかし今私の目の前にあるのは、この不思議な世界の風景と同じように、全て塗って固めたような真白である。壁に掛かった絵も、椅子も机もだ。見慣れた筈の部屋の眺めに色彩がないのは何だか奇妙な心持ちがした。
私は一通りの観察を終えると、誕生日席の椅子を引いてそこに腰掛けた。その誕生日席から食堂全体の様子を眺めてみる。いつも父がここに座っているので私自身がここに座る機会は滅多にない。食事をするとき、誰がどこに座るかの定位置が存在しているからだ。なので誕生日席からの食堂の景色は少し新鮮な眺めだった。私がここに座る時といえば、自身の誕生日か、絵やピアノのコンクールで表彰を貰った時に限っていた。しかし何れも晴れ晴れしい気持ちでここに座ったことはない。私はこの席に座ることへの嬉しや誇らしさを純粋に感じたことはなかった。むしろここは、終わりのない両親からの重い要求の象徴たる場所だった。一つの期待に応えてしまえば、また次に寄せられる期待にも応えなければいけない――そんなわけで、私はしっかりと顔を上げてここから食堂全体を冷静に眺めたことがない。新鮮に感じるというのは、そういうことだった。
そういえば――ふと思い出すように私は記憶を取り戻す――彼女と初めて会ったのも確かこの場所だった。
あれは私の誕生日でのことだった。いつもは私の誕生日は身内だけで行われるのだが(しかしそれとは別に、後日にまた客人を招いての誕生パーティーが催される)、その歳――私が十四歳になる誕生日の、慎ましい祝杯の席の顔ぶれは例年とは異なっていた。訳も分からず用意されたフォーマルスーツを着させられ、使用人に呼ばれて食堂に向かった先には、私の両親の他に、三人組の品の良さそうな親子が居たのである。私と同じ年頃の美しい娘が一人にその両親だ。
両親は食堂に入ってきた私を見て一揖し微笑んだ。娘は緊張してしまっているようで、私のほうを見ては咄嗟に顔を伏せてしまう。
私はその状況が理解できなかった。その三人組の親子に関して私はほとんどなにも知らない。ただ一つわかるのは、娘が私に花束を手渡してきたことだけだ。そして父や母に促されるまま私は誕生席に着いたのを覚えている。十三歳というとちょうど一年前だ。
その誕生日の席で私が両親に告げられたのは、その娘――マリーが私の将来の伴侶になるという一つの大きな事実だった。貴族間での政略結婚と言えば理解がし易いと思う。そして聞く話によれば娘の家は副都を中心にそれなりの影響力を持つ商人一家ということだった。副都は私の住んでいる街よりもずっと大きく、部類としては都市に区分される街である。私も何度か所用で訪れたことがあるが、人や物が多すぎて騒がしいので、あまり好きになれなかった印象がある。娘はそんな都市で大きな権力を有する大商人の三女なのだという。
許嫁、政略結婚――別にこういった話はこのご時世で珍しいことではなかった。私はその日で十四歳になるわけだし、いつか近いうちにこういうことになるだということは覚悟していた。社会的地位の高い者の子供の婚約相手は、往々にしてその親が子供の意思も関係なしに勝手に決めるものなのだ。勿論そこには望まぬ相手との婚約だってあり得たが、当時私の側には気になる異性もいなかったし、その異性に求めるものもなかったので、婚約の話は誰がなにを勝手に決めようが基本的に無関心であった。
ただ、彼女をこうして私に紹介するのなら、なぜ私の両親は事前に一番の当事者である私に予め通告をしてこないのか、思い返せばそれが一つ腹立たしい点である。きっと彼らからしてみれば、サプライズ的な要素を含んだ計略だったのだろうが、冗談には人を笑わせる冗談と不快にさせる冗談がある。これは人を不快にさせる類いのものだった。いい年をして彼らにはその二つの区別が付いていないのだろうか。それとも私と彼らの感性が相容れないものであるだけなのか。
結局、その誕生日の席では我々は互いに顔を合わせただけで、終始自発的に言葉を交わすことはなかった。我々が関わり合ったのはせいぜい自己紹介の挨拶や、横暴な大人達に強いられて行われたぎこちのなく短い社交辞令だけだった。将来的に婚約をする間柄になるということで相手を意識してしまい緊張したために、うまく話せなかったのだ。。
それからマリーと私はその日を切っ掛けにして――そして互いの両親の計画によって、どちらかが一方の家に遊びに行くという感じでよく顔を合わせるようになった。副都と私の住む街はそこまで遠くはなかったから、それに大した手間は必要なかった。そして顔を合わせる度に我々は少しずつ言葉を交わすようになり、やがて同年代の友人として親密な間柄になった。あらゆる面で私と彼女は似ていた。彼女もどうやら学校では周囲に上手く馴染めていないようだったし、私と同じように両親に不満を抱いていたのだ。だから我々は気兼ねなく話したいことを話すことができた。そういうことができるという点に於いて我々は互いにとって大きな存在だったし、唯一の友人だった。しかし私は彼女に恋をしていなかったし、恐らく彼女も私に恋をしていなかった。
そして私とマリーが初めて顔を合わせた日から一年と数ヶ月が経った。私は十五歳になり彼女はもう少しで十四歳になる。
その日、マリーは私にピアノを教えてもらうという名目で私のスタジオを訪れていた。しかし、根本的に彼女にはピアノや芸術に対するやる気が致命的に欠けていたので、こうして私の所に来ても彼女自身が鍵盤の上に指を置くことはなかった。だから、とうぜんながら彼女はあまりピアノが上手くなかった。彼女がここにくるといつも決まって私がピアノを弾いて、彼女はその間スタジオの窓枠やらソファに腰掛けて私の演奏に耳を傾けるといった構図ができあがる。私の方も特にそれで不満を抱くことはなかった。やりたくもないことを無理矢理にやる必要なんてないのだ。それに僕はピアノを弾くのが基本的には嫌いではない。彼女もまた、黒猫と同じように僕自身の演奏を気に入ってくれた。
「ここ、本当に良い場所だわ」とスタジオ窓際に佇んだ彼女は言った。彼女の亜麻色の綺麗な長髪が開いた窓から吹いてくる風にそよいでいる。白い耳が揺れる髪に合わせて見え隠れした。私はスタインウェイの前に座ってそんな彼女の横顔を見詰めている。
「僕もそう思う」と私は答える。
こんな調子の会話をしながら、一年後には彼女と正式な番の男女になるのだと思うと、違和感にも似た変な心持ちがした。そのことについて、彼女はどのように思っているのだろう? 一瞬、口に出して問うてみようかとも考えた。しかし私にそれを訊く勇気は到底ありもしなかった。彼女に拒絶されることを怖れたのだ。それと同時に私はもう一つの怖れを抱いていた。それは、こんなに美しい少女を私なんかが娶ってしまって良いのだろうかという怖れだった。
「ねえ、何か弾いてよ」彼女は窓の外に向けていた丸く大きな瞳を私に向けると、微笑んで言った。「私、君の弾くピアノ演奏がこの世の音楽の何よりも好きなのよ。優しくて、でもどこか寂しげなの」
「何かって、例えば?」
「何でも。君の好きな曲でいい。あ、でもできるだけ明るい曲がいいわ。学校のこととか、お父様お母様のことを忘れさせてくれるような明るい曲」
「分かった」私は頷いた。そう言われて思い付くのは『子猫のワルツ』だった。外は気持ちの良い快晴である。黒猫は今日もこのスタジオに来るだろうか? もし黒猫がやってきたら彼女に紹介しよう。彼女になら紹介しても問題はないはずだ。
私は徐に鍵盤の上に指を乗せると『子猫のワルツ』を弾き始めた。
演奏が終わる。最後の音色の余韻が十分に部屋に響き渡り、私の意識は深い沼の底から現実へと引き上げられて行く。彼女の小さな拍手の音が聴覚にフェードインしてくる。集中力が切れた私は鍵盤から指を離してゆっくりと窓の縁に座る彼女の方を向いた。彼女は窓の外に映える六月の自然を背景に、朝方の白い三日月のように美しく微笑んでいた。
「とてもよかった。音色に釣られて小さなお客さんも来たみたいよ」言われて彼女の指差した先を見ると、黒猫は彼女に一切の警戒心を払っていないのかいつもの丸椅子の上で丸くなって寝ていた。黒く美しい毛は陽光を受けて煌めいている。
「僕の友だちだよ。一人で演奏していると、いつもそこの窓からやってくるんだ。そしていつもそこの椅子に座って日向ぼっこをする」
「とても素敵な友だちだと思う」と彼女が言う。「いつからここに来るようになったの?」
「良く覚えていないけれど、つい最近だよ。ピアノの練習をしていたら、ふと後ろから鳴き声が聞こえてきたから振り向いてみたんだ。そしたら彼女がいた。とてもマイペースだから気が付いたときにはいつもいなくなっている。たまに血塗れのネズミとか小鳥とかをお土産に持ってきてくれるんだ」
「本当に素敵」彼女は表情を輝かせている。「彼女ってことは女の子なのね?」
私は頷いて答えた。「そうだよ」
「もっと近くで見ても良い?」
「多分大丈夫じゃないかな」この様子だと彼女が近づいてもその小さな友だちが逃げてしまうことはないだろう。そう私が答えると、彼女は足音を殺して猫の寝ている丸椅子の前まで来て猫と目線を合わせるようにして膝を折った。私も彼女の隣について同じようにして黒猫を見詰めた。マイペースな黒猫は我関せずな様子で椅子の上に丸まっている。
二人でこうして肩を並べて黒猫を見詰めるその静かな時間は、とても満ち足りた幸せな時間だった。隣の彼女から石鹸のいいにおいが香ってくる。
私は邪気の欠片もない無垢な眼差しで猫を見詰める彼女の横顔に目をやった。思えば私がちゃんと彼女の顔を見たのはこの時が初めてだった。私は思わず彼女の無防備な横顔に魅入ってしまっていた。そこにある少女の横顔は近く数年後自分の妻になるなんて信じられない程にあどけなく、しかしそこには既に女性としての美しい花のつぼみが芽生え始めていた。私は強く心が惹きつけられるのを自覚した。
耳から零れる柔らかな亜麻色の髪、小さな耳。白い首筋。多感ゆえに不安定な、しかし澄んだ輝きを持つ瞳。蛹が殻を破り中の蝶が羽を覗かせているかのような、幼さから美しさへと移り変わりつつある顔貌。
ふいに横から自分に向けられる視線に気が付いたのか、彼女が私の方を向いた。彼女は艶然と微笑んで小首を傾げた。前髪が首の動きに合わせて揺れる。我々はそれぞれに視線を交えながら、そのままの姿勢で若干の緊張をその空気に孕みながら固まっていた。どうすればいいのか、何を言えばいいのかその時の私には見当もつかなかった。澄んだ湖の底に落ちたガラスの煌めきのように透き通った彼女の瞳の虹彩を、私はただ見詰めていた。 今、彼女の瞳に映る私はどんな顔をしているだろう? それを意識した瞬間に私は居ても立ってもいられなくてつい彼女から目を逸らしてしまう。
「ねえ」と最初に沈黙を破ったのは彼女の方だった。「数年後には私たちは結婚することになるのよね」
「そうだね」そして私は勇気を出して問うた。「君は、それは嫌?」
彼女は首を横に振って私の問いに答えた。「嫌じゃないわ。だって……」
まずはその言葉を聞いて安堵したが、それでもはやり高鳴る心臓の動悸は収まらない。そればかりか、先ほどとは別の意味で私の動悸は強くなっていった。そして彼女の言い淀んだ言葉の続きを私は、楔を打ち付けるかのような自らの鼓動の音を確かに耳にしながら待ちわびた。あるいはその鼓動の音は私のものではなく彼女のものだったのかも知れない。この場では黒猫以外誰も冷静ではいられなかったように思う。
「だって私はずっと君のことが好きだったのよ」そう言う彼女の声は小さく、そして震えていた。ちらりと盗み見た彼女の横顔はメルトダウンのために耳まで真っ赤に染まっている。「君は知らないだろうけれど、君を私の結婚相手に選んだのは、実は私の両親じゃなくて私自身の意思なの」
私は突然の告白に少し驚いて問うた。「どういうこと?」
「四年前に行われた王都でのピアノの演奏会を覚えてる?」
「もちろん」自慢ではないが、私はその演奏会で最優秀賞を記録的な若さで取っている。忘れもしない。そのコンクールを期に、私はピアノの神童として世間から祭り上げられることになったのだ。そして自由に演奏をする権利を剥奪された。いわば私の演奏するピアノは商品として扱われるようになったから。
だいぶ間を取ってから彼女は続けた。その時には彼女の声の震えは幾分か収まり、語気もしっかりとしていた。「私、その時に君の演奏を聴いてから君のことが好きになったのよ。それに君がピアノを演奏している姿はすごくかっこよくて、それで三年前、あなたは私の両親の開いたパーティーでピアノを弾きに来たのよ」
私はちょっと考え込んだ。「憶えていないな。もうずいぶん昔のことだし、あのときはものすごく忙しくて、なにかを憶えていられるような状況じゃなかったから」
すると彼女は少しだけ俯き目を伏せて「そうなんだ……」と言った。
「それで、そのとき私、あなたにピアノを教えてもらったのよ」
「ピアノを?――ちょっと待って、思い出せる気がする」
「私、あなたにカーネーションを渡したわ」
その言葉でピンと来た。私は三年前に彼女と出会っていた。
「――あのときの!」
マリーは微笑んだ。「そう。あのときの」
「そうだったんだ、全然気が付かなかった」
「そうよ。あれ以来私はあなた以外に恋をしたことがないわ」
「でも僕なんて実際は大したことない人間だっただろう? 両親からの抑圧に負けて言いなりになっている情けない操り人形だ」
「そんなことない。そんなこと言ったら私だってそうよ」
また我々の間に沈黙が下りた。それは互いに言いたいことを整理する時間だ。私は彼女に言うべきことがあったし、彼女も何か言いたげだった。しかしそれを言うのにはとても勇気がいる。最初に口火を切ったのは彼女の方だった。
「ねえ、あなたは私と一緒になるのは嫌?」そう言う彼女の声は小さい。
「嫌じゃない」私は間断なく彼女の問いに答えた。彼女は俯かせていた美しい顔を上げて涙の溜まった双眸で私を射る。私は逡巡の末に勇気を出して言った。「でも、いいのかな。僕なんかが君みたいな可愛い子をもらってしまうなんて」
彼女はなにかを言おうと口を開いたが、言葉が出てこないようだった。
結局、言葉での返事は返ってこなかった。代わりに返ってきたのは小鳥が餌を啄む時のような短いキスだった。柔らく湿った暖かい唇の愛おしい感触と、石鹸の香りが極限まで近くにきて、気が付いたときには遠くに離れていた。
そんな一瞬の口づけの後、我々はりんご病患者のように真っ赤になった互いの顔を指差して笑った。その時に涙が出たのはきっと笑いすぎが原因で、その後に我々はさっきよりもちょっとだけ長めのキスをした。黒猫は静かに椅子の上に丸まっていた。
こうして私はまた一つ大事な記憶を――彼女と私の間に交わされた失ってはいけないしるしを、生涯忘れないと誓った記憶を取り戻した。そう、少なくとも私は孤独ではなかったのだ。それは決して忘れてはいけないことだ。
私は目を開いて椅子から立ち上がり、贋作の食堂部屋を出た。
◇
三年前に行われたピアノのコンクールで私は最優秀賞をもらった。そのとき私はまだ十一歳で、それは史上最年少記録となり一部の世間を賑わせた。それからだ、私はピアノの神童だと世間から持て囃されはじめたのは。ことあるごとに演奏会で私に呼びがかかったし、そこには私の与り知らぬところで金銭的なやり取りも発生したに違いない。そしてそのコンクールの日から、私にとってピアノは楽しむものではなく、弾かされるものへと変化していった。
ある日、私はどこかの金持ちのパーティーに呼ばれ、その催しとして演奏をした。もうなにを演奏したのか憶えていないし、それがどういった種類のパーティーだったのかも憶えてはいない。しかし、一つだけやけに濃厚に記憶に残っている出来事があった。
演奏が終わり、別段やることもなく会場内を歩いていた私のところに、ひとりの少女がやってきたのだ。彼女は可愛らしい襞のついたドレスを着込んでいて。多分私よりも二つか三つは歳が下だった。彼女はじっと私を見上げてきたかと思うと、後ろに回した手をこちらへと持ってきて一輪の花を押し付けてきて、私が声をかける間もなくどこかへと走り去ってしまった。
唖然として手の中に残った花を見ると、それはどこかのスタンドの花束から抜き取ってきたらしいものだった。赤いカーネーション。背の低い少女が名一杯に背伸びをして花束からこっそりとそれを抜き取っている情景が目に浮かぶようだった。私はどこか微笑ましい気持ちになってその花を胸のポケットに差した。
それから、この花のお礼を言わなければと思った私は例の少女を探して会場内を歩き回った。会場は別段広いというわけではなかったので、少女はすぐに見つけることができた。彼女は退屈そうな面持ちでテーブル席に座っていた。
「この花、ありがとう」そう言って私は少女に話しかけた。
少女は恥ずかしいのか、顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「ピアノ、好きなのかい?」
少女は頷いて答えた。
「僕でよかったら、教えてあげられるよ」
「ほんとう?」
「ほんとうさ。こっちにおいで」私が少女に手を差し伸べる。彼女は椅子から降りると私の手を取った。
忘れてしまっていたが、そのときの少女こそが今のマリーだった。
◇六章『静謐と意味を兼ね備えた場所』
部屋を出て暫く進むと、何かの小さな影(ようなもの)が私の視界の端から端を俊敏に横切っていくのが見えた。影は人間のものではなく何かの動物の影だった。私以外の存在がこの場所にいる……。まさかと思い影の消えていった方へ向かうと、そこには一匹の黒猫がまるで私が来るのを待ち構えていたと言わんばかりの様子で、白い通路の真ん中にちんまりと、しかし姿勢良く座っていた。
――あの黒猫だ。と私は直ぐさまに思った。他の猫の集団に混じっていても私は友だちの黒猫とそれらを見分けることができる。その猫は間違いなく私の友だちだった。いつも私の部屋にやってきて昼下がりの暖かい時間を共に過ごした友だち。ここまできてやっと会えたのだ。瞬間に私の胸に様々な思いが去来した。本当に様々な思いだ。数々の暖色を混ぜたような感情を、私は言葉で表すことができない。
黒猫と私の間に空いている数歩の距離を詰めようと私は一歩を踏み出した。しかし黒猫はその途端に踵を返してまたどこかへ走り去っていってしまった。猫の黒い姿は白い立方体の影に隠されてすぐに見えなくなってしまう。「待って!」と私は咄嗟に声を上げた。殊更にその声は大きく世界に響き渡り、私は必死で猫の駆けていった方へと駆けだした。逃げられた? それともあるいは……
打ちひしがれそうな気持ちを何とか立て直して私は走った。今ある記憶の中から私が過去に拒絶されるような行いをしていないか咄嗟に思い返してみるが心当たりは全くなかった。とすれば、後は取り戻していない私の記憶の中にその心当たりはあるはずだ。
果たして猫は次の通路からまた別の通路への曲がり角の所で立ち止まっていた。そして黒猫は私が付いてきたのを確認するとまた移動を始め、立方体の影へと隠されてしまう。そんな付かず離れずの距離感で我々は、立方体が作る迷路のような通路を移動した。もしかしたら友だちは私をどこかへ連れて行こうとしているのかも知れない。あるいは迷宮の出口まで私を案内している? いずれにせよ、白い世界の中で際立つ黒い毛並みのよく見知った猫は私から逃げている訳ではないようだった。そのことに私は胸につっかえていた重い空気の塊が抜けたような心地がして安堵した。……しかし黒猫は私を何処へ連れて行こうとしているのだろう?
我々が行き着いた最終地点は、直径十メートルほどの円形に開けた広場のような場所だった。そこには余計なものは何一つとして設置されていなかった。ただ必要な物のみがそこで私を――あるいは友だちを待ち受けていた。そこはある意味では(というか私にとっては)聖地と呼ぶに相応しい静謐と意味を兼ね備えた場所だった。広場の中央にはスタインウェイがずっと前からそこで私を待っていたとでも言うように堂々と佇立している。何もかもが白い世界に於いては艶のある黒々とした塗装のそれは際だって美しく私の目には映った。それでいてそのピアノは深く私に慣れ親しんでいるかのように親密な雰囲気を持っていた。
黒猫はそこの鍵盤蓋の上に乗っかって私を待っていた。
私が無言でピアノ椅子に座ると、黒猫は音もなく地面に降り立ちすぐ近くにある丸椅子の上に――まるでそこが自分の定位置だと誇示するように――移動した。その光景は私に春のスタジオの情景を思い浮かばせた。状況が余りにも似ているせいかもしれない。あるいは状況を似せたのか。
私はスタインウェイの譜面台の上に持っていた『子猫のワルツ』の譜面を立て掛けた。恐らくこのピアノでこの曲を演奏することが最後の記憶の扉を開く鍵となる。私はそう確信しながらゆっくりと宝箱の蓋を取るようにして鍵盤蓋を開けた。
私は鍵盤の上に指を乗せ、試すようにして『ド』の音を弾いた。歪みのない抜けるような音が響く。音はまるでコンサートホールにいるかのように美しく世界に響いた。演奏の開始を合図するその音は恐らく私がこの世界で最初に立っていた場所まできっちりと響いたことだろう。後ろを向いて友だちの方を見ると、友だちは今日は珍しく姿勢を良くして丸椅子の上に座っていた。
私は猫からピアノの方へと今一度視線を戻すと鍵盤に指を掛けた。そして静かに深呼吸をして目を瞑り、頭の中から余計なものを追い出して行く。必要なのは今これから私が奏でる音のイメージと指の動きだけで、他のものは一切不要だ。心臓の鼓動が聞こえ、世界の静寂までもが聞こえる。私はやおら瞼を持ち上げ、肺が一杯になるまで息を吸い込んだ。そして心臓が脈打つタイミングで私は息を吐きる。
そして演奏が開始される。
黒猫の為の――そして私の為の演奏会が幕を開けた。
◇ 六章『暖かな思い出を自ら引き裂くように』
『子猫のワルツ』を弾き終わると同時に、私は私自身の記憶を唐突に取り戻した。いや、気が付けば真の私自身はそこにあったとでも言うべきだろうか。どちらにせよ私はこの世界に散らばっていた私自身を一片の不足もなく全て取り戻した。私にはそれが分かった。そして私は受け容れ難く悲しい現実を知った。私が今回取り戻した記憶から得られた事実はたった一つのみだ。それで全てが覆ってしまうような重大な意味を持つ記憶だ。
私の友だちは死んでいた。
その頃、季節は晩夏に差し掛かっており、私と友だちが出会ってから凡そ二ヶ月の月日が経っていた。友だちは毎日私の演奏を聞きつけてスタジオにやってきたし、私は友だちを歓迎した。そして不思議なことに友だちは、私が音楽の家庭教師に指導されている時には絶対にスタジオを訪れることはなかった。恐らく黒猫は私のリバティーな演奏とそうでない演奏を聞き分けることができたのだろう。
しかし、ある日を境に友だちはパッタリと、まるで糸が鋭利な鋏で断ち切られるようにして突として私の前に――スタジオに姿を見せなくなった。猫とは気紛れで自由な性格の生き物だと私はそう認識していたから、いつかはこんな日が来るのだろうとは薄々ながらに予感していた。しかし、友だちが訪れなくなってから何となく私の日々は彩りに欠けたものとなった。誰も居ないスタジオで孤独に弾くピアノは無味乾燥で虚ろな音しか奏でなかった。まるで深い井戸の奥底に置き去られ来るはずのない助けを求めてピアノを奏でているような、そんな気持ちになった。私はその穴から這い上がることができない。私の孤独は日々深まって行った。
黒猫が居なくなって一週間が経った。友だちがどこかへ行ってしまってから私は毎日スタジオの窓を開け放って友だちを待ったが黒猫は私の前に姿を現わすことはなかった。そんな頃に、私は夕飯の席で両親に思わず『黒猫を知らないか』、と問うた。そしてその一瞬後で私は後悔した。『黒猫』と聞いて良いイメージを思い浮かべる人は少ない。私の問いに両親は顔を見合わせた。父はジョークでも口にするかのように軽く笑いながらこう言った。
「ああ、家の敷地を彷徨いていたあの黒猫か。それなら使用人に任せて処分してもらったよ」と、そう。
私は父の言葉に愕然として暫くの間言葉が出てこなかった。処分、という単語が意味する余りにも明確で残酷な結末を飲み込むのに時間がかかった。両親はそんな私の顔を覗き込んで具合でも悪いのかと心配そうに眉根を寄せたが、その時私が一体どのような表情をしていたのかは当人である私でさえも在り在りと想像することができた。きっと私は驚愕の事実に目を剥き、何かを言おうとして絶句した口は半開きになっていただろう。それは酷く醜い表情だったに違いない。母が何かを言ったような気もしたが私の耳には届いてこなかった。
「いつ?」と私は恐ろしい程空虚な声で問うた。
「一週間前だ」と父は言った。ちょうど黒猫が私の所に来なくなった時期だ。
「なんで?」
「黒猫は醜悪で不吉な忌むべき存在だからだ。お前も知っているだろう?」
そうだ。全ては最初から分かっていたことじゃないか。黒猫は不吉を象徴する存在だ。そして同時に黒猫は魔女の使い魔とも言われている存在でもある。当時――というか今でも私の国では異端審問会による魔女狩り(または異端狩り)が行われており、黒猫はその狩られるべきの対象の一つであったのだ。私はそんな血生臭い世間の事情になんて首を突っ込みたくなかったし、また極端に偏った集団心理に洗脳されるつもりもなかった。だから私は黒猫や魔女に対して特に何も感じていなかった。私が黒猫にどこか親密に相通ずる所を感じたのもそれが原因だ。私は孤独な日々を過ごしてきた。そしてまた私の所にやってきた黒猫もきっと、街では残酷な子供や大人たちに追い回されてここへ最終的に辿り着いたのだろうと勝手に思ってきた。きっと黒猫の方も同じことを私に対して感じたから私たちは友だちになれたのだろう。あるいは、はぐれがらす同士で身を温め合った。そして最終的に黒猫は私の両親によって殺された。この結末はある程度予想できたものだった。それはそうだ。私の両親だって集団心理に汚染されたカトリック教徒の一員だ。しかし私が何か手を打とうと思えば打てたのではないか? けれどそんな『たられば』を考えた所で今更の話だった。既に事後なのだ。もう後には引き返せない。失われた命は戻らない。
私の絶望を――表情の意味を悟ったのだろう。母が取り繕うような軽薄な態度で言った。
「猫が飼いたかったのならそう言えばよかったのに。あなたはいつも頑張っているし、そのくせ子供らしく欲しいものも何も強請ってこないから、それくらいならいつでも買ってあげるわよ?」ヒステリックな怒声を発するためにあるのではないかという甲高い声で母は捲し立てるように言う。目は瞼を閉じれば景色をシャットアウトすることができるが耳には瞼は付いていない。私は自分の感情が爆発してしまうのを抑え込むために俯き深呼吸を繰り返した。激しい怒りの為に身体が沸騰した薬缶のように小刻みに震えた。母が続ける。「あんな野生の黒猫よりも、言ってくれれば血統書の付いているペルシャだってベンガルだって――」
「巫山戯るな! そういう問題じゃないのは――ッ!」私は思わず母の言葉を遮り、夕食の席を立った。「そういう問題じゃないのは……」そういう問題じゃないのは父さんも母さんも分かっているはずだろ。そう叫ぼうとした私はしかし、先刻の母の言葉を思い出す。私は今までの激怒の感情と一転して脱力し、無言で部屋を出て行った。この人たちには何を言っても無駄だと気が付いたからである。
気が付けば私はスタジオにいた。部屋の照明は付いていない。無機質で機械的な白い光に照らされた部屋はその時の私には何となく居心地が悪かったからだ。窓は開け放してある。カーテンは引いていない。窓の外からは黒く影になった夏の草花がそよ風にさらさらと細やかな音を立てて揺れている。夜空には大量の星々と大きな月が浮かんでいた。それらが唯一の光源となって窓から差し込み、スタインウェイの前に座る私の影を長く伸ばしている。色を混ぜすぎて真黒に染まったパレット上の絵の具のような感情と慟哭を私はそんな静まり返ったスタジオの中で噛みしめている。昼下がりの黒猫との一時を思い出す度に私の心はタールのような血を流した。しかし私はそれらの優しい思い出さない訳にはいかなかった。
「僕は……」私は拳を鍵盤に叩き付ける。不協和音が外の虫の声と混ざる。両親の言葉が際限なくリフレインして私の心に刺さる。「僕は、僕は僕は僕は僕はッ!」私は何度も鍵盤に拳を振るった。暖かな思い出を自ら引き裂くように。そしてそれが奏でる私の心の叫びが軋轢が摩擦が慟哭がどこまでも響き渡るように。
「僕はッ!」その日、私は初めて身を震わせる怒りに声を張り上げ、両親に激昂した。黒猫の死を通して私がその時に学んだのは、私は両親の傀儡以外の何者でもなかったのだということだった。私はその日になるまで激しい感情を覚えたことはなかったのだ。私は私自身としての価値を何一つとして持っていないことに気が付く。ただ両親の言いなりに勉強をしピアノを弾き絵を描き、それ以外に今までの私の人生に何があったのだろう?
「僕が心を持つ意味なんてどこにもなかったんじゃないか……」
もう何を考えたら良いのか分からない……。
◇ 終章
これが私という人間の全てだ。私は鍵盤から手を離して後ろの丸椅子の上に座る友だちの方に向き直った。友だちは私をその大きなアーモンド型の目でじっと見詰めている。
「久し振り。もう君と逢えないんじゃないかってずっと思ってた。最初はどこかに行ってしまったのかと思っていたけど、でも現実は思っていたよりももっと残酷だった」勿論黒猫は私のようには喋ることができないから返事なんて返ってくるはずがなかったけれども、私は自然と黒猫に話しかけていた。「でも形式がどうであれこうしてまた逢えた。これは夢なのかな? それとも君から僕に逢いに来てくれたのかな?」
友だちは丸椅子の上から下りて私の足下にそっと寄り添ってくれた。私もピアノ椅子から地面にしゃがんで友だちの頭を撫でた。そこにはちゃんとリアルな触感があって温もりがあった。友だちは気持ちよさそうに目を細め喉を鳴らした。
私は薄々ながらにこれが現実の出来事でないことを悟っていた。それとただの妄想や夢でないことも。そして私がここに留まれる時間の猶予はそう残されてはいないということも。その約束の時間はすぐにやってきて、我々を我々がいるべき本来の場所へと情け容赦なく引き裂くだろう。我々の間には最早交わすような言葉や意思はなかった。我々は再開した。そして私は友だちに送る最後の演奏を彼女に聴かせることが、そして別れを告げる機会を得ることができた。これ以上に友だちとして我々の間に何か必要なものがあるだろうか? 少なくとも私はないと思う。
やがて約束の時間はやってきて、真白な世界は音もなく徐々に崩壊しはじめる。道が割れ、無数の立方体が支柱を破壊された建物のように次々と静かに倒壊してゆく。その様はまるで天変地異を――色味を失った世界の最後の審判を見届けているようだった。
友だちはいつの間にか私の頬を伝っていた涙をざらざらとした舌で舐め取ってくれた。少しだけくすぐったく感じた。私はその崩れゆく色のない世界で、涙と共に友だちに別れを告げた。私は黒猫に「ありがとう」と最後に言った。黒猫はニャアと鳴いて答えた。
目を覚ました私がいたのは、屋敷の庭にある大きな樅の木陰だった。そこで私は寝転がっていたのである。真上からは緑の梢が夏の日の太陽の光をちらちらと透かして、木陰にいる私の上を斑に踊っている。隣には読みさしの本が開いたまま伏せて置いてあった。どうやら、私はここで読書をしている内にうとうとして眠り込んでしまったらしい。
あの夢からもう十年が経つ。今でもときどき、私はあの世界の夢を思い出して見ることがある。もちろん、当時私が少年の日に体験したような繊細でリアルな夢というわけにはいかない。今の私が見るのは、ふと思い出して棚の奥にあるアルバムを捲るような思い出の再確認のようなものだ。
十年が経って、色々と物事は変化していった。
あれからアルフは機械工の見習いになり、リタはこことは違う街の家に嫁いだ。リヒトと私の関係についても決着がつき、そして私自身も、あの夢を岐路にして大きく変わっていったのだが、それらの後日譚についてはまた別の話になる。
その内に向こう側から、マリーと娘が手を繋いで二人やってきた。
「あなた。お昼できたわよ」十年前とは違って、少しだけ背が伸び、顔つきが美しく落ち着いた彼女が言った。その隣ではまだまだ幼い娘がにこにこと笑っている。私は二人に頷くと傍らの本に栞を挟んで閉じ、それを手に持つと立ち上がった。娘がマリーと繋いでいない方の手を差し出してきたので、私はそっと柔らかい幼手を握った。
「久しぶりに、あのときの夢を見たんだ」
「あの黒猫の夢?」
「そう。もう十年も前の出来事なのに今でも思い出すんだ」
「それほどあなたにとっては特別な出来事だったのよ」
私はもう一度頷いた。それから言った。「今日の昼食はなに?」
「パスタよ。ミートソースの」
「それを食べたら街にでも出かけて、それから公園に行こう。今日はいい天気だし、きっと川の水が気持ちいいよ」
そうね、とマリーが頷く。娘が笑って、私とマリーも笑った。
猫とスタインウェイと少年 @TriggerHappyTK
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