第19話 亀裂が入った関係

 映画を見終わった僕達は、沙織の言うままに最近人気のカフェに向かう。



「ぷはぁぁ。食べたー」



 そこで、サンドイッチとパフェを食べた沙織は顔一杯に満足感を広げ、笑顔を浮かべた。もうおいしかったというのが表情から押し寄せてくるほどなので、思わず微笑んでしまう。



 その影響で、パフェの最後の一口を意識して味わった。口の中に残った甘ったるい感覚をコーヒーで一気に胃の奥に流し込む。気分がやんわりする。



「あっ、そう言えばプレゼント……」



 その時、一番この日で気分が落ち着いたタイミングだった。今しかないと思った僕はそれでも少し恥ずかしくて、丁度今思い出したように必要のない演技を挟み、鞄からプレゼントを渡した。



…………告白は一旦後にしよう。ここじゃ、誰かに聞かれるかもしれないし。



「わぁ、ありがとう。てっきりもう渡されないと思ってた」 



 パフェをほおばる時とはまた違った笑顔を見せながら箱を受け取る。



「今、開けていい?」



「どうぞ」



 僕はひとまず今日しないといけなかった重要な役目の一つを果たし、ずっと重かった肩を落とした。



「わぁ、ネックレスだ。流行ってるって知ってたんだ」



 そう言って沙織はネックレスをかけた。



「修一らしいね」



 そう嬉しそうにネックレスを触る沙織にはどこかぎこちなさがあるような気がして、一気に心配になる。何か気に入らなかったのかな……。



「どう、似合う?」



 だが、次の沙織の言葉が底抜けに明るくて。気のせいか。



「うん」



「ほんとっ! ありがとう!」



 嬉しそうに目を細める。その笑顔にまたドキッとさせられて。



 その後、僕らはコーヒーを飲み終え、あるビルの屋上に向かっていた。



 そのビルの屋上には自然公園のような場所がある。その自然公園はビル二つの屋上をつないでその上に出来たものなので相当広い場所だ。



 何も陽光を遮るものがほとんどないので眩しくて暑い。じりじりと肌を焦がされている気分になる。しかし、その分、そこにある草や木、花がその日差しを受けて青々としていた。後は、その中を通る石造りの道と、それに沿っていくつかベンチが設置されている。



 僕たちが来た時、その中を子供が無邪気に走り回っていた。その近くのベンチにはその子の親が微笑んでその子供に話しかけている。



「ここは作った人が都会の喧騒を忘れて欲しいって理由でさ、何も拡張現実で誇張してないんだ。本当に自然のまま」



 そう言って沙織はスイッチをオフにして、拡張現実に戻る。確かに現実と全く同じ景色だった。どこも誇張もされていない。



「へぇ……。そんな場所もあるんだな」



 また、現実に戻った時、初めにそう言った。こんな場所があったとは知らなかった。都会の中で、ここまで心落ち着く場所があるなんて。



「あんまり人気ないけどさ……」



 そう言う沙織の声には力がなかった。



 そのまま沙織は丁度木の陰になっているベンチに鞄を置き、そこからカメラを取り出すと、その場に立ち上がり景色を眺め始めた。僕はその隣に座る。そして、気づいた。ベストタイミングじゃないかと。誰もいない。沙織も何も話しかけてこないだろう。自分のタイミングで話しかけることが出来る。



 思わずぐっと手に力が入って、背中が汗ばむ。この穏やかに雰囲気に場違いなほどバクバクと心臓が鳴り出す。これまで静かなら、もう聞こえてしまうんじゃないかって程。



 何度も沙織の方を見ては、その度に喉まで込み上げてきた言葉を飲み込み、言葉を飲み込む。ちらりと見てはその真剣な眼差しに吸い込まれそうになって、ふと我に返り視線を外す。そんなことを十数回繰り返している内に、沙織はゆっくりとカメラを構え、カシャッとシャッターボタンを押した。



えっ、もう? 時計を確認するともうニ十分近くたっていた。いつの間にこんな時間がたったんだ。



 そんな動揺を隠しきれていない僕の隣に座る沙織。じっと前を見つめながらつぶやく。



「今はさ、それだけで完成されてるものに無理やり足し算しようとしすぎなんだよ。人を呼ぶことだけ上手くなって、人を楽しませることは次になってるものばかりだよね。こんなシンプルで完成されたものでいいのに」



 そう言って僕を見ると、なんだかいつもよりぎこちない笑みを浮かべた。



「そしたら修一も拡張現実をもっと生きやすくなるのにね」



 少し含みのある言い方。そこから少しの間、無言の時間が過ぎる。それは、僕の返答がないからだ。すぐさっきまで今しかないと気を張っていたこともあって、すぐに言葉を理解することが出来なかった。



 だから、少し経ってしまったが、落ち着いてきた頭で沙織の言葉を吟味し、返答した。



「そうかな。どの道、人が嘘に覆われている時点でそうならないと思うけど」



 どの道、嘘に覆われていることは変わらない。人の表情も声も、街も、それが嫌なんだ。いろんなものが足されることも嫌いだけど。



「そっか」



 沙織の放ったその言葉が余りにも湿っぽくて弱弱しくて。



「そうだと思うけどな」



 僕はなんだか強くは言えなかった。なぜか沙織の語気に合わせていた。



 すると、なんだか簡単に口を開くことが出来ない雰囲気になって。



「修一はずっと現実世界で生きたい?」



 そんな中、唐突に言った沙織。その表情は軽く俯いていたこともあってちゃんと見えなかったが、浮かべている笑顔には何か強張ったものがあった。



 言いようのない違和感を覚えた。告白のことで頭が回ってなかったが、そういえば今日なんだかいつもと違う気がして。



「どうしたの?」



 僕はそう尋ねるも沙織は何も言わず、固い笑顔を浮かべたまま。少し待っても何の反応もなかった。なんだか進んではいけない方に進んでいるという嫌な気がした。でも、もう引き戻せないという確信は感覚的に抱いていて僕は尋ねられたことに答えるしかなかった。



「……その通りだけど……」



 そう答えた。いやな予感が強くなる。



「そっか」



 そう笑いかける沙織の顔はどこか悲しそうで……。一体、何があってそんな顔をするのか……。



 また、何かあったのと声をかけようとした。その寸前に沙織が口を開いた。



「現実に行くの今日で最後にしよ」



 沙織の言葉。驚くほど平坦な声だった。



 僕はゆっくりとその言葉を噛み砕いて……そして理解した時、



「……………………はっ?」



 声が口から漏れていた。



「だからさ……もうこれ以上現実に行かないでおこうってこと」



 沙織はそう言い切った。



「…………いや……えっ……」



 そうじゃない。意味が分からなかったんじゃない。沙織の言葉の意図が分からなかったんだ。どうして急に……。意図を探ろうとも、少しも思いつかない。一体どういう……。



「……どうしてだよ?」



 沙織が何故そんなことを急に言いだしたのか理解できなかった。もう訳が分からなくて、それが唐突にほとんど予備動作なしで来たものだから動揺しすぎていた。



 思わず僕の口調が荒くなっていた・



「…………」



 それに驚いたか沙織の顔が更に強張って、口を噤んでしまった。でもその時の僕はよく分からない焦燥感に駆られてその間すら待てなかった。



「どうして?」



 相当な精神力を使って声の圧を抑えて再度尋ねた。



「なにか、規制が更に強くなったとかか……?」



 沙織は目を瞑り、ゆっくりと頭を横に振って。そして大きく息を吐いて、



「……これ以上さ、修一を現実にのめり込ませないようにだよ」



 顔は未だどこか怯えている様子だったが、沙織の声ははっきりとしていて……。



「……はぁ?」



 理解した上でも理解できなかった。



「のめり込むって……俺は元から……」



「元から拡張現実が嫌いなのは知ってるよ。でも、現実世界を見せたことでそれが加速したじゃん。拡張現実を生きようとしてない。生活が現実世界主軸になってる」



 それはその通りだ。確かに最近、三浦達ともあまり話してない。でも……。



「それの何が悪いんだよ」



 正直、この時、現実世界に行かないと言われた驚きよりも、沙織にまるで現実にのめり込むことが悪いみたいに言われたことの方が衝撃だった。



 どうして……。お前だって拡張現実が嫌いだろ。まるで現実が悪いみたいに……。



 何か崩れていくような予感。でも、止まれなかった。



「今はいいよ。でもこれからどうするの?」



「どうするって……このまま……」



「このままで生きていけるわけないじゃん」



 そう割り込んで言われた頼み込むような、諭すような言葉は胸に刺さった。それを言う沙織の必死に伝えようとする顔も相まって胸が締め付けられる。



「大学に行って社会人になってもずっと拡張現実は付きまとう。それだけじゃない。拡張現実が当たり前で、必要不可欠になってくるよ。生きるために拡張現実の世界に居なきゃいけない時間も増えるんだよ」



「それを何とか……」



「何とかって具体的な考えあるの?」



「それは…………」



 何か言いたかった。だから、何か言おうと口は何度も開いた。でも、吐き出す言葉がかけらさえ浮かんでこないで。それを確認した沙織は視線を僕から前に移して、ポツリと言った。



「このままじゃ生きていけない。大人にならないといけないんだよ……」



 それは本音がポロリと口から出たようで、だからこそ僕の怒りのボルテージが一気に上がる。



「大人にならないとってなんだよ。今やってることが子供ってそういうことか?」



「……それは違うよ。大人になるために諦めなきゃならないものがあるってことだよ」



「諦めなきゃいけないってなんだよ! CAREの作る世界が狂ってんだろ? 人間が管理されて、簡単に自分を別人に欺ける。おかしいだろ! 周りがおかしいんだろ!」



 気付くと僕の声には怒気が表れていた。沙織の顔には怯えが現れ、声もどこか弱弱しいものがあった。それでも沙織の一言は重かった。



「でも、そのCAREがないとこの世界は回らないし、人は生きていけないところまで来ているよ」



 受けたことがなかったが多分カウンターを食らった時の感覚ってこんなことなんだろう。



「……」



 次に出そうとしていた言葉が引っ込んで、言葉に詰まった。それほど重かった。二つの意味で。言葉の持つ重みもそうだが、それを沙織に言われている事実が僕の胸がずっしりと重くなって。



 しばらくの間、無言の時間が続く。もう、息が詰まる思いで。



「…………どうして……そんなこと言うんだよ」



 しばらくしてからようやくこの言葉が出てきた。さっきとは打って変わって弱弱しくて所々声がかすれていた。



「CAREの世界をそんな簡単に生きれるのかよ。相手の本心も……分からないでさ。どうして、そんな簡単に諦めれるんだよ」



「…………」



 何故か沙織は何かを言おうとしたが、それを言うのを留めて……。が、少ししてから思い直した顔を引き締めた。



「……修一ほどっていうかさ……そこまで拡張現実が嫌いじゃないよ私」



 ためらいがちに言った。



「は……?」



 空気が抜けるような声が出た。



「もちろん苦手なところもあるけどさ。修一ほど本気じゃないんだよ」



 沙織は訥々と語る。



「私は全然拡張現実でも生きていける」



 言葉の意味が理解できない。理解したくない……。



「ごめん。こんなにハマると思わなくて……会話を合わせてた部分もあるの。だから……全部私が悪い。修一に現実見せて、何も責任を取ろうとしなかった。でも、そんなの駄目だと思って……」



…………………言葉が出てこない。ただただ絶句していた。



 ずっと分かってると思ってた。沙織の本心を……。それで人生で初めて意見が合う人が現れたと思って……。喜んで。僕だけじゃないって…………。



 現実だからお互い本当の意味で分かりあえていると思ってて………。



 この世界で沙織だけが分かってくれる。僕のことを分かってくれる。そう思ってた。



 現実世界であれだけ話していたのに沙織の本心が分かってなかったのか……。それも、最も根幹の部分を知らなかった…………。分かってなかった。



 僕は沙織のこと何も知らなかったのか?



「私が出来ることならなんでも手伝う。だから一緒に頑張ろ」



 すぐには信じられなかった。でも、そんな中、沙織は様々な証拠を突きつけてくる。信じたくなくても、信じないといけなくて。



 ショックで沙織が何か言っているが、耳から入ってくるのに、何も聞こえなかった。



 ただ絶望に限りなく近いものが心中をめぐっていて。



 嘘だろ。嘘だろ。………なにかの…なにかの間違いじゃ……………。じりじりと胸の奥を焦がすようなストレス。



 今までのが全てが、僕の生き甲斐にまでなっていたものが、どんどん崩れていく。



「修一は多分現実に過度に期待しすぎなんだよ。拡張現実だって……」



 そんな時、不意に耳に入ってきた言葉。もう最後の方は耳にすら入ってこなかった。



 だが、前半部分が今の心に最も効いた。心の弱いところに思いっきりに叩きつけられたような衝撃が走って……。



 その瞬間、僕の中に今までにない衝動が湧いた。肌がぞわりとするほどの黒い感情。



 気付くと僕は沙織の手に持っていたスイッチを奪い取っていた。



 沙織の驚き目を見開いていく様子がゆっくりと目に入って……。



 その顔を見たくなくて。次に浮かべる顔を見れば僕は傷ついてしまう。そんな気がして。



 もう何を考えているのか分からなかった。



 僕はそのままそのスイッチを持ったまま走った。何も解決しないのに。 



 押し寄せてくる現実を振り切るように、突っ走っていく。もう滅茶苦茶に進んでいった。階段あれば下りたり上がったり、何がしたいかわからなかった。止まったら頭に考えが押し寄せてきそうで進みを止めたくなかった。



「どうして……どうして……」



 そんなことをずっとブツブツと言い続けていたと思う。もう記憶すら曖昧になって、我を取り戻すと、僕は自分の部屋のベッドに倒れ込んでいた。



 目の前にはスイッチがあって……。ポップアップされた沙織からの電話。もう何十件も溜まっている。すぐに僕はメールや電話類全て非表示にした。そして、僕は布団の上で体をいろんな方向にのけ反らせて、じっと出来なかった。



「どうしてこうなったんだよ……」



 色んなものが心にのしかかってきて、ずっと喉の奥辺りが特に鈍い重みを感じる。



 ただ、何も分かっていなかったこと、それが沙織だったことが辛くて……同じ考えだと思ってから、心の距離も近づいていると思っていて、沙織だけが自分を分かってくれていると思っていたのに……。この世で一人の理解者だって思ってたのに。 



 それなのに……それなのに…………。



「……どうして……どこが好きだったんだろ」



 もう掠れて自分でも聞こえないほどの声で。



 あれだけ一緒にいて沙織の根幹のところを知らなかった。それを突き付けられた僕は……。



「どうしてだよ。どうしてだよ……。どうして……」



 一体どこから。間違えていたんだ………いや、最初からか……。



「どうしてこんなことになったんだ……」



 落としどころを見つけたかった。何か理由を見つければ楽になると思って。



 何がいけなかったんだ。それとも拡張現実も現実も同じようなものだったのか。……違う。そんなはずない。現実世界は拡張現実じゃない。本物の感情が分かるはずだ。お互い分かり合えるはずだ。それがなぜできなかったんだ。



 その時、ある言葉が頭に引っかかった。



 僕が悪いんじゃないのかと……。



 確かに、僕が悪いんじゃないのか? 僕が悪い……? 僕が悪い……。そうだ僕が悪いんだ。僕が悪いに決まっている。



「そうか、僕が悪いのか……」



 そう思った途端、体を満たしていた倦怠感が一気にすっと胃の奥に落ちていく感覚がした。自分の責任だと思ったのに、何故か心は軽くなった。

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