第10話 CAREからの脱出

「どうして関わりのない僕にメッセージを書いてくるの?」



 屋上を後にすると意味ありげに話さなくなった沙織。学校から出る頃には我慢の限界に達して僕は尋ねた。



 沙織は「授業中、一人だけものすごく浮いていたからかな~」と言って単色的な笑みを浮かべる。



 言葉の意味が分からない。おそらくその感情がもろに表情に出ていたのだろう。沙織は単色的な笑みを強くした。



「それもまた教えてあげるから安心して」



「じゃあ、ノートに書かれたメッセージは……? いつどうやって書いたんだ? それに昨日メッセージ、あれはどうやって書いたんだ?」



「だ~いじょうぶ。全部後で絶対教えてあげるから~」



 沙織はそう手をひらひらと振りながら答える。



 頑なに今答えようとしない沙織。なんだか餌をずっとお預けされている犬の気分だ。今すぐにでもこの無限に湧いてくる疑問を解決したいのに。



 丁度その頃、僕たちはビル街に突入しており、僕の周りで煩わしく広告が流れている。



 更にそこから少し歩いた先で、沙織は足を止め、ぽつりと呟いた。



「この辺が一番いいかな?」



 ビル街をぬけ、僕らが着いた場所はスクランブル交差点の近くだった。



 途端に居心地の悪さが強くなっていく。僕はこの世で最も嫌いな場所。すぐに視線を下に向ける。



 考えてみて欲しい、単色的な笑みを浮かべた人の大群が、機械的な統一感を持ち向こう側から一気にこちらに向かって押し寄せてくる姿を。もはや気持ち悪さを超えて逃げ出したくなるほどの恐怖を覚える。



「どうして、こんなところに……?」



 そう尋ねるも、沙織はもうこちらの質問に答えようとせず、鞄の中をまさぐり始めた。すぐに、何やら手のひらサイズで箱型の真ん中にスイッチがある機器を取り出す。



「修一が一番聞きたいことがそんなことじゃないでしょ」



 沙織は何の脈絡もなく唐突にそう言ってこちらを向く。僕の心を見透かしたような沙織の言葉。



 その通りだ。



『僕も現実世界を見ることができるのか』さっきから何度も喉まで出かかっていた言葉。でも、余りにも期待していて、もしこれで無理だとなった時が怖くて口に出せなかった。



「昨日、修一の絵を見たよ。わざと顔だけ自分で書いてさ。髪と服は綺麗に書けてるから余計顔がおかしくて私思わず笑っちゃった」



 メッセージも書き込まれていたから、絵を見られていることは分かっていたし、そういう印象を受けるのは分かっていた。だが、実際に面と向かって言われると何か気恥しい。



「でも、そこで確信した」と沙織は続けて言った。



「修一はこの世界に違和感を覚えてるんでしょ?」



「…………うん」



 僕は思わず頷いていた。僕の心の奥底に十数年の間、隠していた思い。意外なほどあっさりとさらけ出した僕。



 そんな僕の答えに彼女は笑みを強くすると、



「私たち気が合うと思うよ」



 ぽつりと言った。



「やっぱり、沙織も……」



 沙織は唇に人差し指をたてて、僕のCAREに何かを取り付けた。



「取らないでね」と言うと、踵を返しちょうど青に変わった交差点に向かって進む。



 慌ててその背中を追う。



 人混みをすり抜けて進んでいく沙織の歩みは早い。スルスルと人の間を縫うように歩いていく。そんな沙織の背中に僕の視線は吸い込まれたままで、沙織とは打って変わって人と何度も肩をぶつけるながら進んでいく。



 交差点の真ん中に着いた時、沙織は急に足を止め、僕の方を振り返った。



 僕はそれ以上踏み込んではいけないような気がして足を止める。



「面白い物見させてあげるよ」



 沙織は単色的な笑みを浮かべる。そして、鞄の中に手を突っ込んだ。



 途端に耳元でヴィィンと大きな駆動音が鳴りだした。さっき僕のCAREに取り付けた機器から発せられているようで、音はやむことは無くどんどん強くなっていく。



「えっ、えっ、えっ」



 そんな狼狽える声を出したはずだが、それも聞こえないほど音は大きくなっていって。あまりの大きさに耳を抑えようとするが、CAREが邪魔でできない。そのうちにそのCAREからも聞いたことがない駆動音が流れ出し始めて、更に音が大きくなっていく。



 もう壊れるんじゃないか、そんな思いが頭を掠め、思わず首をすぼめた。そんな時だった。



 ぐにゃりと目の前の景色が形を変えた。まるで粘土のように……。そのまま景色はぐにゃりぐにゃりと形を変えていく。



 もう原型が分からなくなるほどになった時、「なっ」そんな声を上げたと思う。耳元で鳴る駆動音で何も聞こえないが。



 ありとあらゆる色が急速に抜けていった。赤、黄、青、オレンジ……。最後には白と黒の二色のみになり、その黒さえも抜けていき、僕の視界一杯に白が広がった。



 僕は何が起こっているか分からず、あたふたと視線を彷徨わせるが、どこを見ても白色でどこが地面かすら分からない。



 たが、次の瞬間、一気に目の前に色が戻り、瞳に鮮やかな景色が飛び込んできた。あまりの振り幅に脳が追い付かなくなって思わず目を閉じた。気づけば駆動音もやんでいる。



「一体何が……」そう言って辺りを見渡そうとゆっくりと目を開……。



「……………へっ……?」



 その時の僕の顔は相当間抜けな顔をしていたと思う。



 ポカンと口を開け、目が飛び出るほど瞼を大きく見開き、一瞬で様変わりした周りに視線を彷徨わせていた。



「ようこそっ!」



 目の前ににかっと笑い、仁王立ちする女性が言った。



 その女性を見上げている僕。そこで、いつの間にか僕がしりもちをついていることに気付く。急いで立ち上がる。



 女性が自信満々にこちらを見ている。黒髪のボブでどこかあどけなさが残っているその顔つき。更に僕の視線は女性の鞄についているストラップに吸い込まれた。



「さ…沙織か…?」



 自分で言いながらも背筋がぞわりとした。



「ピンポーン」



 沙織は人差し指をたて、にやりと笑った。その笑顔には様々な感情がにじみ出ていて……。



 胸がドクンと高鳴る。軽い痺れが頭の先から足の先まで走った。何か言葉には出来ない重みと厚さがその表情にはあった。一目で分かるほど全く違う。



「………現実世界に来たんだ……」



 気付くと口がそう動いていて……。



「そうだよ!」



 沙織はそう言って今度は溢れんばかりの笑みを浮かべた。刻一刻と変化していく沙織の表情は、まるで万華鏡みたいな感じで。それに、声からもどれだけ沙織の気分が高揚しているのが感覚的に分かる。



「簡単に説明するとね、CAREの機能を停止させたの」



 沙織は顔いっぱいに嬉しさを広げながら、その期待で一杯の瞳で僕を見つめる。



「どう凄くない?」



 沙織の豊かな表情に見惚れていた僕は慌てて頷く。沙織は満足そうに口角を上げ、目を細めた。屈託のない笑みを目の当たりにし、意識せず僕の頬も緩まる。なんだか沙織の感情が流れ込んでくる感覚。なんだか嬉しくなって胸の奥にじんわりと温かいものを感じる。こんな体にじんわりと染みていくような興奮は今までに感じたことない。



「見てみて」



 沙織は視線をあたりに向けた。僕も釣られて視線を辺りに向ける。



 そこにはさっきとは打って変わって、様々な表情を浮かべる人たちが僕たちの周りを縦横無尽に行きかっていた。笑みを浮かべながら歩く人、その傍ら疲れ切った様子で一歩一歩と億劫そうに歩く人、真顔で歩いていく人など。



 そこには人の数だけ様々な表情があり、その奥にある感情が表情を見るだけで伝わってくる。詳しく説明しろと言われると困るが、そこには確かに人間味なるものがあった。



 僕は視線を徐々に上げていく、やけにダイナミックで目や耳に煩い広告などは一切空に浮かんでいない。こんな都会で車のエンジン音など、風が吹く音などをクリアに聞こえたのは初めてだ。それにこれほどまで空を綺麗に見れたことはない。



 さらに最も変化があるのは建物だ。スタイリッシュで近未来的な形をしていたビル達が絡み合い、それが空歩道によって緻密で複雑に繋がれていたのだが、影すら残っていない。



 どのビルも縦が長い箱のような形をしている。それが所狭しと並べられているだけで、空歩道も透明なチューブ型ではなく、ただ簡素的な道と柵と屋根があるだけ。何よりも鏡のように太陽光を弾き輝いていたビル達は茶黒色に汚れていて、無骨な鉄柱がむき出しになっているところまであった。



 一世代前の東京の街並みが手入れされていない状態で長年経った姿と言う表現がぴたりと当てはまる。



 拡張現実のあの煌びやかな街には一ミリも似つかわない景色だった。本当に別の世界に来たかのようなそんな錯覚を覚えても仕方ないと思うほど薄汚く、スケールも小さく、古臭く、インパクトもない。



 だが、僕はこの世界に心の安らぎを覚えた。



 これだ……僕が求めてたのは……。



 煩わしさが一切なく、正真正銘の本当の姿だ。僕は興奮を抑えきれず、慌ただしく辺りのビルに視線を彷徨わせる。



 プァープァー



 そんな中、不意に気付いた甲高い音、なんだ? やけに近い所で鳴っている気が……まるでクラクションのような音……。



 うん? クラクション?



 視線を落とすと僕は広い交差点で一人佇んでいることに気づく。



 車の中から明らかに怒りを含ませた表情を向けてくるドライバー。横断歩道の先で腹を抱えながら笑っている沙織。



 僕はようやくCAREのシステムが停止したことで赤信号を知らせる文字が表示されないことにようやく気付いた。



 慌てて横断報道を渡った。



 渡りきると、瞳に涙を浮かべ笑っている沙織が待っていて、



「ウハハハ、どうだった? 人生初の現実世界は? アハハッ、クラクション鳴らされても気づいてないくらいだったけど」



 どうやら相当ツボにはいったようだ。ひぃひぃと腹を抱え笑っている。恥ずかしさと相まってカチンときたが、それもすぐに落ち着いて。



 あの感動に比べると些細なことだ。



 横断歩道に視線を戻し、「運転手の人相当怒ってたよな」と言った。



「うん、怒ってたね~」



 沙織は運転手の顔を思い出したのかまたクククッと笑った。僕は気にせずに続ける。



「あの人の表情を見てさ…はっきりと怒っているのが分かったんだ……」



「え、う…ん…?」沙織は驚いたような表情をした。



 恐らく沙織は僕に信号を変わったことを伝えなかったことを責められると思っていたのだろう。



 そんなつもり全くないのに……。そのことを伝える意味も含め、僕はもう一度理解しやすいように丁寧に言葉を選んだ。



「僕は怒った表情なんて人生で一度も見たことがないんだよ。間違いなく人生で初めて見た表情だった。なのにどうしてか分からないけどさ……怒っているってはっきりと分かったんだ」



「……そう言えば……確かにそうだね」



 沙織は目を丸くした。



「それにさ……ここまで相手の表情一つで心が揺さぶられるんだな……」



 言葉にすることでさらに凄さを再確認し、僕の体の奥で激しいものが蠢き始める。



 沙織はそんな僕を見て、ゆっくりと口角を上げると、



「私たち気が合いそうだよ」と、まるで口から意図せずして零れ落ちたような声色で言った。



 その時浮かべた表情は今までで一番、数多ある感情を一緒くたにしたような深い表情だった。僕はなぜかしばらく視線を外せなかった。


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