第2話 拡張現実での日常

 ジリリリリッ 



 徐々に耳元で大きくなっていく鳴り響くアラーム。それに呼応して小刻みに震えるCARE。



 目を開くと、それを感知したCAREが自動的にアラームを止め、目の前に大きく、『Good Morning』というモノクロの文字が浮かび上がる。それが消えると、今日の天気、温度、湿度などが表示される。



 それは僕にこれ以上なく不満を募らせる。



 今日も今日とて、僕は嘘に覆われた世界で過ごさないといけないのか……。その現実を押し付けてくる。最も気分を害さない設定にしてるが、全く意味をなしていない。




 僕は迫りくる憂鬱な現実から目を背けたい一心でもう一度目を瞑った。だが、それを目ざとく感知したCAREがまた耳元でアラームをけたたましく鳴らし始める。




「あー、分かった、分かったよ」




 CAREが返事をするわけがないが、声に出さないとやってられなくて、ぶつぶつと文句を言いながら目を開ける。




 また目の前に『Good Morning』という文字が浮かび上がってくる。同時にもう一度目を瞑りたいという欲が強烈に襲いかかってくる。




 だがもうこれ以上この文字を見ることは御免だ。僕はため息を吐くと立ち上がった。



 まず、ガラガラに乾いた喉を潤そうと台所に向かう。



「あっ!修一、おはよー」



 ドアを開けると、母さんから声が掛かった。目をやると、朝のまだ早くだというのに綺麗に化粧も施された母さんが料理をしている。



 これもCAREが作り出した嘘だ。もう、物心つく頃から母さんの素顔を見たことがない。年は40後半のはずなのに、どう見ても30前半の麗しさのある顔に見慣れたとは言え、時折、背筋がひやりとするときがある。



「おはよ」



 僕は不機嫌そうに答えた。でも、恐らくCAREの影響で、母さんの目と耳には元気溌剌と単色的な笑顔を浮かべ、弾むような声で返事する僕の姿が映っているはずだ。居心地が悪くなった僕は避けるように洗面台に向かった。



 水で顔を洗い視線を上げると、鏡に映る僕、その嘘にまみれた僕は顔を洗ったことで気持ちよさそうに単色的な笑顔を浮かべている。



 また胸がつっかえる感覚がする。



 本当の僕は不機嫌な顔をしているのに……。



 CAREは人の生活を円滑に進めるという名目で日々の至る所を嘘で覆っている。これは、その内の一つだ。笑顔の自分を見ると人は気持ちが晴れるらしい。僕はそういう人がいるなんて全く信じられない。少なくとも僕の中では逆効果だ。単色的な笑顔の僕を見ると気分が逆なで、神経が毛羽立たつ。



 僕はすでに今日、二度目になるため息を吐いていた。



 顔を洗い終えた僕は着替えに自分の部屋に戻る。ちなみに制服なんて着ない。ただ、最も動きやすい服を着ればいいCAREが制服を着ているように見せてくれるからだ。着替え終えると、僕は朝食のために台所に向かう。



 元気溌剌な様子で朝ご飯を食べている母さん。でも、必ずしもこれが現実と一緒かは分からない。



 生まれてこの方母親の気分が滅入っている姿を見たことがない。それどころか表情に負の感情が現れたことがない。コミュニケーションを円滑に進めるため、人の気に障らないように顔と声に様々な修正をCAREは絶えず行っているからだ。



 だから、見るのは正の感情によって作られた表情ばかり、あと驚いた顔や、まじめな顔だとか。



 CAREによって、両親ですら本心を知る手段がないのだ。



 どうして皆、四六時中、内心何を考えているか分からない人と過ごす日々を当たり前のように過ごせるのだろうか。極論になってしまうが、もし自殺しようと考えている人が現れたとしても僕の目には単色的な笑みを浮かべ溌溂と歩いている姿が映るということだ。



「…… ごちそうさまでした」



 僕はか細い声で言うと、すぐに茶碗を片付け、これから始まる憂鬱な一日を想像しないように徹する。少しでも考えてしまえば、たちまち細かなストレスが積もって、家から出る気なんてすぐに無くなってしまう。



 既に疲労感が漂う体に鞭を打ち、僕は外に出た。



 目の前に『プライバシーモードを終了します』と言う文字が浮かび上がった。




 これは、CAREに搭載されているカメラは一日中作動しており、その間ずっとメインコンピューターにデータが送られているのだ。



 そのデータはメインコンピューターによって管理され、世界を効率よく動かすために使われている。しかし、それではプライバシーがないので、場所によっては強固なプロテクトをかけているということだ。


 そして階段を降りようとした時だ。



 右上に小さく『※足元に気を付けてください』という文字が浮かび上がった。煩わしさしか覚えない。至る所でこのようなマニュアル化された優しさを押し付けられ、CAREに上手く扱われているように感じるのだ。僕は毎日のこととは言え苛立ちを隠しきれず、わざと荒々しく一段飛ばしで階段を下り、そのままマンションの外に出た。



 この世界から逃げたい。



 どうにか拡張現実を打ち壊し現実世界に行ける方法はないか。年々強くなっていく思い。最近の僕は暇さえあればそう考えるようになっていた。だけど、世界中に拡張現実が浸透しきっている今、逃げる方法なんてない。こうして結局、諦め虚無感に襲われるという日々を送っている。



 ピーッ



 突然、笛の音と共に『STOP』という赤文字が目の前にバンと現れ、思わずのけ反った。慌てて周りを見ると、僕はもう少しで赤信号の横断歩道を渡りそうになっていることに気付いた。その場で止まると、『STOP』と言う文字はフッと消える。



 CAREが僕の危険を察知して知らせてくれたのだ。だが、ちょうどその時は心の中でCAREに悪態をついている最中だったので、余計癪に感じた。



 今度は考えに没頭しないようにと自分に言い聞かせ、進み始めた。


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