第2話 迷い

 厚い灰色の雲が上空を覆う。それほど強くはないが、ポツポツとした雨が降っては止んでを繰り返す。二ツ谷市をはじめとする一帯は梅雨入りを迎えていた。


 ある日の朝、いつものように電車に揺られる通学時間。携帯電話のバイブレーションが一通のメッセージの着信を告げた。画面には日向紫帆という名前が表示されている。


 彼と出会ったのは去年のクリスマス、河澄町の北に位置する三代市のデパートだった。そこではクリスマスイベントとしてステージ企画が催されており、紫帆は歌い手として出演する予定だったのだが、彼の相方が急遽出演できなくなったことで途方に暮れていた。そんな中、たまたま通りがかった私が紫帆から声をかけられ、その代役を依頼されたことが始まりだった。

 パフォーマンス見ず知らずの私にそのような話を持ちかけてくること自体、だいぶぶっ飛んだ性格をしているが、変わっているのはそれだけではない。女性と見紛う見た目に同年代とは思えぬ達観した言動、圧倒的な歌唱力と素人丸出しの私を完璧にフォローするステージ等、私とは住む世界が異なる超人。それが私から見た日向紫帆という人物像だった。


『リマインド!‎ 今度の楢崎のイベント、今週が締切だよ。エントリーしたかな?』


 楢崎とは二ツ谷市南部に位置する地域のことで、紫帆の言う“楢崎のイベント”とは、今度そこで開催される『アニソングランプリ in 楢崎』というステージイベントのことだ。アニメソングに特化したのど自慢的催し物のようで、私がアニメオタクであることを見抜いた紫帆から出演するよう勧められていたのだった。

 私はそのメッセージを見て小さくため息を吐いた。というのも、締切を失念していたことにして出演を見送ろうという思惑があったのだが、たった今その姑息な作戦が水泡と帰したからだ。それでは、なぜそこまで乗り気でないのかというと、イベントのホームページに掲載されていた過去のステージの様子をピックアップした動画を見る限り、どの出演者も総じてレベルが高く、私程度の実力では出演が憚られたからだ。

 そういうことを紫帆に言うと、「そんなことはない、是非出た方がいい」と聞く耳を持たないのだが、正直言って買い被りすぎだ。クリスマスイベントでは紫帆がフォローしてくれていたからなんとか形になっていただけで、今回紫帆は本来の相方と出演するだろうから、あのときのようにはいかない。

 そう思った矢先、一つの妙案が浮かんだ。


 


 放課後、私は自席で荷物をまとめている聡子に話しかける。コミュニケーション強者の彼女の周りには人が絶えることがなく、なかなか話しかけられるタイミングを掴めないままこんな時間まで持ち越してしまった。白中ルナとは友達だが、柊野翠とはただのクラスメイトでしかないため、こちらからあまり馴れ馴れしく話しかけるわけにはいかないのだ。


「有坂さん、ちょっとうちの彼女から伝言があるんだけど……」


 聡子はノートを揃えながらこちらに訝しげな表情を向けて言う。


「それ、長くなるやつ?」


「えっ、あー……どうだろう?」


 想定外の返事にはっきりしない態度の私に、聡子はいたずらっぽい笑みを浮かべて言う。


「そ、じゃあ私からも伝言お願い。直接会って話しましょ?‎ ちょうどスタクロの新作のラテ飲みたかったの!」


 思いがけず放課後の用事ができた。こういうことがあるから『白中ルナ変身セット』は欠かせない。


「はぁ……わかったよ、伝えておくから先に行ってて」


 そう言って私はロッカーにしまい込んでいたウィッグや化粧ポーチの入ったバッグを取り出し学校を出ると、近隣の書店の多目的トイレへ向かった。


 


 スタークロノス。通称『スタクロ』は季節ごとに特徴的なコーヒーメニューを打ち出し、若年層を中心に支持される全国チェーンのカフェ店舗である。二ツ谷駅周辺にもいくつか点在しており、駅から300mほど南に位置するここ駅南店に二人の姿があった。


「うまー、生き返るー」


 聡子はストローから口を離すと、そう言ってカップをテーブルに置く。


「それで、話って一体なに?」


「それなんだけど……楢崎で今度こういうイベントがあるらしくて……」


 私はそう切り出してイベントのリーフレットを見せる。


「アニソングランプリ……なに? これ観に行きたいの? っていうか、あんたアニメとか好きだったんだ」


「いや、観に行くんじゃなくて……一緒に出ないかってお誘いね」


 そう言ったところで再びカップを口元に運んでいた聡子の手が止まる。


「はぁ?‎ あんた本気で言ってんの?」


「本気だよ。って言っても一人じゃ心細いからさ、聡子ならこういうの好きかと思って」


「あのねぇ……内輪のカラオケじゃないんだから。ルナはいいかもしれないけど、私はこういうステージで歌うなんて到底ムリ」


 意外だった。聡子ならばこういった話には二つ返事で乗ってくるものと思っていた。


「えー、なんで?‎ 元演劇部だし私より場慣れしてるでしょ?」


「うわ、それ引き合いに出してくるのウザ。私、別にミュージカルやってたわけじゃないし、歌でステージに立つのは門外漢なの」


 聡子はそう言って小さくため息を吐くと続ける。


「……ルナ、心細いから私を誘ったって言ったよね?‎ あんたでさえそう思うほどレベルの高いイベントなんでしょ?‎ そうじゃなきゃ『面白そうだから』とか『楽しそうだから』って誘ってくるはずだもん。だからね、私が出る幕は最初からないの」


 私に返す言葉はなかった。イベントの過去の動画を視聴してそのレベルの高さに面食らっていたことは事実だが、私が漠然と感じていた心細さがそのことに由来していることに、聡子から指摘されるまで気づいていなかった。


「それに……そもそも私、アニメあんまりわかんないし」


 聡子は不満そうな顔をして視線を斜め下に移す。それがどのような心情を表しているものなのか、私には慮ることが出来なかった。

 往来に面した大きな窓に付着していた小さな雨滴は、やがて粒径を増して下へ流れ始めた。



 聡子に出演を断られたあと、ダメ元で麻美と千景にも打診してみた。聡子にさえ断られたのだから麻美、ましてや千景にあっては希望は限りなく薄いだろうと思ってはいたが、聡子にだけ声をかけて二人に声をかけないのは自分の中で蟠りが残りそうだったからだ。なお、その結果については述べるまでもない。


 途方に暮れた私は、今一度リーフレットを眺める。結局私はどうしたいのだろう。

 その答えは既に出ている。本当に出る気がないのであれば、その旨を紫帆に返信しているはずだ。紫帆からのリマインドが届くまで放っておいたのも、「忘れていたためエントリーできなかった」という自分自身への言い訳が欲しかったのだ。聡子たちを誘ったのも、それが楽しそうだからという気持ちがなかったわけではないが、「彼女たちが出るから私も出る」という状況に身を置きたかったのだ。


 狡い。小賢しい。


 今更ながら、彼女たちへ誘いをかける自身の幼稚で醜穢しゅうわいな精神性に恥ずかしくなった。もしかしたら、彼女たちも私の魂胆をそこはかとなく感じ取っていたのかもしれない。


『それに……そもそも私、アニメあんまりわかんないし』


 そう言った聡子の表情を思い出す。今にして思うとそれは怒りというよりは悲しみに近かった。ネガティブな感情を怒りとして昇華することの多い聡子には珍しかったためすぐにはわからなかったが、多かれ少なかれ私に失望したということだろう。


 私は顔を覆いたくなった。彼女たちと遊ぶようになって、出会った直後よりも距離が近づいて、そうしているうちに遠慮がなくなってゆく。考えてみたらこれだけ親しくなった存在は私のこれまでの人生においてない。それは同時にこの距離感における他人との付き合い方のノウハウがないことを意味する。

 そう考えたところで、なにか忘れていることがあるようなそんな感覚が脳裏をよぎる。

 初心に帰ろう。私は余計な思考を振り払って立ち上がる。私の理想の彼女像『白中ルナ』ならばどんな行動をするのか。それを考え直したときには、既にイベントのホームページに開設されたエントリーフォームを開いていた。

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