太陽の日

スーパーネルガル64

太陽の日

智子ともこさん智子さんと私を呼ぶ声がする。

若い頃の煙草で焼けた、があがあと耳障りな声。

悪いけどお母さんのご飯作ってくれ、と夫の声がする。母親に似た顔と声。


 また、義母の餌を作る朝が来た。


娘が家を出てから、自分を騙し切れなくなった。

三十路を迎えてしまい、妥協して選んだ男と結婚し、大して好きでもない男に似た顔の娘が生まれた。

娘の事は大事にしてきたつもりだが、それでも、それでもとたまに思う。

機嫌が悪い時に娘の顔を見るといつも思う。

なんで、父親似になってしまったんだろう。

なんで、子供なんか勢いでつくってしまったんだろう。

なんで、私はこんな田舎で朽ちていくんだろう。

なんで、私は結婚に失敗したんだろう。


夏休みに、娘が帰ってきた。大学で知り合ったという彼氏を連れて。

「私の事を一番知っている女性はお母さんだから」と娘は得意げに胸を張った。

隣で男が笑う。

エイジくんの事を一番知っている女性だってエイジくんのお母さんだよ。

でも、結婚したら奥さんに遠慮して身を引くべきなのよ。

私も子供が結婚したらそうするんだ。

お母さんも一緒に住もうよ。

男はうつぼかずらみたいな顔をぶらさげている。


 初めて恋が実った人間の、宗教みたいな激情。

あなたはまだ結婚もしてないでしょ、と一笑に付したものの、胸に刺さった何かは中々抜けなかった。


自分を騙し切れなくなったあとには何が来るのだろう。

動物は命の危険が迫ったとき、逃げるか戦うかなんだよと昔付き合った人に教えてもらった。

私は逃げるのだろうか。

どこに?

負け犬みたいに尻尾を巻いて。

私は戦うのだろうか。

腐ったすいかが内側からわけのわからないもので膨らんで、爆発するように。


また夏が来て、冬が来て、そして夏が来た。

夏休みに、娘が帰ってきた。コンタクトを瓶底メガネに戻して。

何とかいう男の事は話題に上らなかった。それとなく聞いてみると、「誰?」とぶっきらぼうな口調が帰ってきた。

そっかぁ、と私は返した。


自分でも、なんでそんな返事をしたのかは、よくわからなかった。


義母を、殺そうと初めて思った。

義母は外出して買い物をする度に夫の好きなチョコレートを買って帰ってくる。

機嫌取りのつもりだろう。家の金で自分のものを買ってくるのだから。

冷蔵庫に食べもしないチョコレートの箱が溜まっていく。

義母の餌を作ろうとする度に、チョコレートの山が立ち塞がる。

なぜ私はこんな事をしているんだ。

なぜ私はどこの誰とも知らない女の介護をしているんだ。

嫌だ。


人を好きになるのも嫌いになるのも理屈かもしれない。理屈ではないのかもしれない。

娘が男にうつつを抜かすのと、私が義母を殺すのとは何も違わない。

結局のところ、ひとはだれかとなにかをしなければ生きられないのだ。

夫は早く寝る。娘は明日大学に戻る。明日の真夜中に、やろう。

下見をしに義母の寝室に向かう。気分が妙に高揚していた。


階段を下りる。襖に手を掛ける。

真っ暗な中、寝室の奥で義母が寝ている。

アレを殺そうと思っているこの気持ちも、明日になればまた和らぐのかもしれない。

また明日やろう、来週やろう、月末やろう、燃えるゴミの日にやろうと思っているうちに気持ちは雲散霧消し、義母は天寿を全うするのかもしれない。そんな感情がむくりと胸の中で起き上がる。

こんな事をしているのも、義母を殺さないように心のどこかでブレーキがかかっているのかもしれない。

何が下見だ。遠足じゃあるまいし。そもそもどうやって殺すんだ。義母の顔を見下ろす。



義母の顔に、濡れたタオルが貼り付いていた。


んひ、と声が漏れる。

腰が抜ける。ひ、ひ、ひ、と小鳥のような声が喉から絞り出される。

義母が死んでいる。間違いなく死んでいる。

いやまだ間に合うかもしれない、でもこのまま待っていれば完全に死ぬかもしれない、どうする、よせ、やめろ、頭の中がめちゃくちゃになる。それでも義母の顔に手を伸ばしてタオルを取ろうと


もう死んでるよ、と娘の声がする。

部屋の隅から、娘が立ち上がった。

私は絶叫した。


おかあさん、と娘の口が動いた。

あのね、おばあちゃん、動かなくなっちゃった。

娘は父親に似た顔を歪めた。


ああ、そうするともっとお父さんに顔が似るね。


だから嫌なんだ。

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