囚われの姫 囚われをやめる

イツミキトテカ

第1話 囚われの姫 待つ

 ビロードのような暗澹たる雲の下、黒曜石のような黒塗りの魔城、そのいただき――。1つある小さな窓辺で一瞬何かがきらめいた。


 光の正体は望遠鏡。雲の隙間からこぼれ出た太陽光を反射して、レンズがキラリとしたのである。筒の部分は厚手の紙で、手作り感満載の簡易的な望遠鏡。

 その持ち主は、力なく腕を下ろした。


「今日も来ない…」


 ため息混じりにそう呟いたのは一人の少女。青磁色の長い髪を大きな三つ編みに結わえ、思慮深そうな菫色の瞳で遠くに見える山の麓を見据えている。


 少女の名はリリア・フロスクル。


 湿地帯の小国『ジャヤ』の王、キャビク・フロスクルとその王妃、アクラネ・フロスクルの間に初めて生まれた待望の御子おこ、それが彼女リリア・フロスクル。

 つまり、彼女はジャヤ国の姫というわけである。

 そして今、そのリリア姫がいるのは城の頂から遥か下界を見下ろす小窓のついた一室…。


 姫なので城にいるのは何の不思議もない。


 しかし、それは自身の城ならばの話である。



 事の経緯はこうだ。


 あれは、風が気持ち良い、よく晴れた昼下がりのことだった。


 ジャヤ城の眼前に広がる大きな湿原。その中央、無骨に建てられた木造の展望台に、件の姫リリアはいた。


 宮廷料理人に作らせたサンドイッチ片手に、金付けされた王宮図書館の蔵書をめくる。そばには備え付けの望遠鏡があり、気分転換がてら湿原に生息する植物や動物たちの営みを眺める。


 これが、晴れた日のリリアお気に入りのランチタイムの過ごし方だった。


 この日、彼女が読んでいたのは化学について書かれた本。しかし、その本は少し難解だった。リリアは半分読んだところで眼鏡を外した。度のきつい分厚い眼鏡だ。すらりと長い指で眉間の皺をこすり、唸った。


「んー、分からん。後で先生に聞こう」


 ジャヤ国は小さな国だ。資源と呼べるものは広大な湿地から取れる泥炭くらいなもので他に目ぼしいものはない。

 そうなるとあとは人間力がものを言う。それゆえ、ジャヤ国は国民の教育に力を入れており、姫であるリリアもご多分に漏れずスパルタ教育を受けていた。


 爽快な青空の下、リリアは大きく伸びをした。胸いっぱいに息を吸うと、苔むす緑と芳醇な土壌の薫りが少女の鼻腔をすっと通る。肺が潤いと静謐さで満たされた。


 リリアはこの空気が好きだった。複雑で、それでいて控えめで、様々な生命の息吹を感じさせるこの空気。しかし、リリアがこの空気を吸うことができるのもあと数日のことである。


「ヒース殿は元気だろうか」


 その名を口にしただけでリリアは胸がむずむずした。


 隣国『スヘイジ』の第4王子ヒースに初めて会ったのは、ついこのあいだ。リリアの18になる誕生パーティーでのことだ。

 元はといえばジャヤとスヘイジの関係強化のためであり、俗に言う政略結婚である。

 リリアはこれまで恋愛に興味も縁もなかった。だから、どんな相手でも特に不満はなかったのだが、実際にヒースと会ってみて、彼の物腰柔らかで落ち着きある姿に図らずも好印象を抱いてしまった。


 スヘイジ国へ嫁ぐのが楽しみになったのである。


「この光景も当分見られなくなるな…」


 分厚い眼鏡を拭きながら、寂しさ半分うきうき半分でそう呟いたリリアは、見上げた青空、その彼方に、無数の黒い染みを見つけ、小首を傾げた。


「渡り鳥の季節にはまだ早いはずだが」


 眼鏡を掛けじっと目を凝らす。鳥のようで鳥でない。リリアはあんな飛び方をする鳥を知らない。望遠鏡に駆け寄り焦点を合わせる。ようやくはっきり見えたその姿に、リリアは思わず息を呑んだ。


「ワイバーン…!」


 ワイバーンとは小型のドラゴンの一種だ。小型とはいえ、気性は荒く無抵抗の人間を襲った事例も確認されている。


 そのワイバーンが群れをなし、なぜかこちらに向かってきている。隊列を組み、規則正しく飛翔するその姿にリリアは違和感を覚え、そしてすぐにその謎は解けた。


「人が操縦しているのか!」


 ワイバーンは人間には懐かない。そう言われている。であれば、今、望遠鏡越しにリリアが見ているワイバーンの操縦者は人間ではない。その考えに至った瞬間、毛穴という毛穴からどっと汗が噴き出した。


「お父様に伝えねば――魔族が攻めてくる!」


 その時だった。リリアの頭上を黒い影が覆った。はっと見上げればワイバーンが一頭、その黒い鱗腹を曝け出し、リリアの真上にいるではないか。


(「いつの間に!?」)


 そう思ったのも束の間、リリアの真横に金属製の檻が落とされた。鼓膜を震わす衝撃音に思わず体が縮こまる。


 一体、今から何が起ころうとしているのか。 


 一瞬頭の中が真っ白になった。その場に立ち尽くし、呆然とするリリアを、ワイバーンの細長い尾が絡め取り、檻に押し込んだ。


「―何をするっ!」


 我に返り抵抗する。しかし、一歩間に合わず檻には頑丈な鍵が掛けられた。リリアをあざ笑うかのようにワイバーンの尾が陽気に揺れる。格子を掴み、力の限り揺すったが、掌に金属の冷たい感触が残るだけでびくともしなかった。


「リリア姫だな」


 その時、ワイバーンの上から男の声がした。抑揚のない冷たい声。見上げてよく見れば確かにそこに人がいるのだが、逆光でその顔は見えない。リリアは精一杯の怒気を込めて睨みつけた。


「何者だ? 魔族に知り合いはいないはずだが」

「…」


 男は返事をする代わりにワイバーンから飛び降りた。風に棚引く純白の髪、細身ながらがっしりとした体躯。そして何より、尾骨から伸びた鞭のような尻尾と頭上に生えるヤギのような鋭い角。


 リリアの思ったとおりだった。


「やはり魔族…この国を乗っ取るつもりか?」

「…」


 リリアの詰問に男はまたしても応えない。リリアの方を一切振り向くことなく、男はワイバーンの尾を軽く叩いた。


「行け」


 ワイバーンが応えるように一啼きし、檻を乱暴に両脚で掴んだ。翼から放たれる風圧でリリアは思わず尻餅をついた。金属が噛み合う不協和音とともに、檻が傾き、ゆっくりと宙に浮く。リリアはとっさに手を伸ばし、近くにあった本を手繰り寄せた。


 遠くに見えていたワイバーンの群れが刻一刻とジャヤ国に近づいていた。強い風に煽られて檻が激しく揺れる。リリアは檻に這いつくばり、すでに小さくなりつつある魔族の男に叫んだ。


「他の者には手を出すな!」


 男は背を向けたまま微動だにしなかった。果たして声は届いたのだろうか。遠ざかる故郷に黒い染みが落ちていく。リリアの脳裏に父や母、宮廷料理人に、学問の先生、そして愛すべき国民の顔が次々と浮かびあがった。


 (「みんなどうか無事でいてくれ」)


リリアは強く祈りを捧げた。

そして、本をめくり、ページを破り始めた。

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