(9) 彼とカレーと華麗なるわたしたち -A part-
一夜明けて、木曜日。この日、悠斗が学校に来ることはついになかった。
「広見は風邪だと連絡があった。おおかた夜通しでパーティーでもしたんだろう、軟弱なやつめ」と朝の出欠確認で先生は言っていたが……昨日の今日だ。どうしても、なにか秘められた事情があるのではと勘ぐってしまう。
すべてが思い過ごしならそれでいい。だけど彼の振る舞いに違和感と不安を拭いきれないのだ。きっと、悠斗はなにかを隠している。
さらに帰りの会が終わると、このみちゃんはわたしに一言断ってから、クラスの誰よりも早く下校してしまった。あの真面目なこのみちゃんが女子会をドタキャンしたのだ、よっぽど急ぎの用事があったのだと思う。授業中もそわそわしていたというか、妙に落ち着きがない感じだった。
「ごめんね、ほんとにごめんね」と、むしろこっちのほうが申し訳なくなるくらい申し訳なさそうに手を合わせる彼女の姿が頭から離れてくれない。悠斗の件と同様、こちらも気懸かりな事案だった。
――そんなわけで。
放課後の教室は女子会始まって以来最低の人口密度を叩き出した。すなわち、わたし、鳴亜梨ちゃん、真緒くん、メガネの四人しかいない。
「くるくるくるりん♪ くるくるくるりん♪」メガネは意味不明なメロディを口ずさみながら割り箸に輪ゴムを巻きつけて遊んでいる。「やるよやるよやるよ……ほら入れた! あのモスグリーンが似合いそうな女! 頭頂部に円形脱毛症あり!」鳴亜梨ちゃんはエア万引きGメンの仕事に勤しんでいる。
「助けて真緒くん! ボケしかいないよー」
わたしは真緒くんに泣きついた。
「あはは、ぼくからしてみれば若月さんも充分……」
「あんだって?」
「う、ううん! なんでもないよっ。それよりふたりとも、楽しそうだよね。ぼくたちもなんかやる?」
「う〜むむむ、やっぱ女子会? でもなーなんかなー、あんまりやる気しないのよねー」
だからこそ、会合のために居残った今この時間が自由行動な感じになってるわけだし。
「うん……ぼくも。たった二人足りないだけで、こんなに変わるものなんだね。酒本さんたちも同じ気持ちなのかもしれないね……」
話しながら、自由すぎる行動を取る大ボケコンビに注目する。
メガネは眼鏡のレンズの内側に輪ゴムを巻き終えた割り箸を挿しこんで、「前が……前が見えにくい……あわわ!」とパニックに陥っている。
鳴亜梨ちゃんはなにもない空間で肩を叩く仕草をして、「おばあちゃん、なにか忘れてるんじゃないですか?」「はい。お会計はもちろんのこと、昨日の晩ごはんも忘れてしまいました。孫の名前さえうろ覚え。そんな老いぼれですが、それでも、三十年前に亡くした夫の顔を忘れたことは一日だってないんですよ!」「お孫さんかわいそう!」と一人二役を熱演している。
どちらも一歩も引かない。互角の勝負を繰り広げている。
夢の競演を鑑賞しながら、わたしはひとり物思いに耽る。思い出すのは悠斗のことだ。昨日の一件以来、その言葉は胸の内でくすぶり続けていた。
『柚花には、関係ない』
あの言葉の真意は別にあるのだ。わたしは名探偵のように推理を展開する。
『柚花には、関係ない』
明確な拒絶の意志を伴った言葉。だが明確すぎるがゆえに、あからさますぎるからこそ、それはわたしの目には「ただの強がり」のように映った。力強いようでどこか脆い。そんなハリボテのような印象を受けずにはいられなかった。だからこそ、お節介だとわかっていても、わたしは悠斗を無視できない。
そうだ。だから。
『柚花には、関係ない』
あの言葉は本心から出た言葉じゃない。本当に突き放されたわけじゃない。別に嫌われたわけじゃ、ない。そうであってほしい……違う、そうじゃない。内から沸きあがってくる身勝手な想いは封殺。悠斗の立場でだけ考えればいいんだ。私情を挟むのは名探偵失格だから。私情ってなんだ。我ながら意味不明。別に悠斗ごときに嫌われたところでノーダメージだ。ひらりと身をかわしてやる。
「悠斗……」
気づけば、口が勝手にその名前を紡いでいた。
「えっなになに、今日の議題は広見悠斗について?」
いつのまにか眼前に鳴亜梨ちゃんが迫っていた。
「そういうわけじゃ、ないんだけど……」
「あれは絶対虐待だよ!」
いきなり物騒なことを言う。いくらなんでも飛躍しすぎだろう。あのおばさんやおじさんに限ってそれはない……よね? ……たぶん。
が、この食いつきの良さ、鳴亜梨ちゃんも昨日のことはやはり気になっていたらしかった。
虐待とまではいかなくても、おばさんが病気とか、なにか家のことをしなくてはならない大変な家庭の事情があるはずなのだ。
「虐待反対! 虐待反対!」
先走った鳴亜梨ちゃんが足踏みしながら拳を突きあげ、一人デモを敢行している。
「え? 虐待ってどういうこと?」
昨日のわたしたちのやりとりを知らない真緒くんが不思議そうに首を傾げる。
わたしはしばし思案する。
どうするか。真緒くんたちに話してもいいけど、いたずらに不安を煽るだけかもしれない。そもそもただの勘違いかもしれない――そうだ。まずは真偽を確かめる必要がある。
「みんな、聞いて」
わたしは静かなトーンで告げる。真緒くんがこちらに注目した。鳴亜梨ちゃんが突きあげていた拳を下ろした。メガネが眼鏡を外してパニック状態から帰還した。タイミングを見て、わたしは口を開いた。
「本日の女子会は――出張開催にします」
昔、家には何度か遊びに行ったことがあったので、道は迷わなかった。
それなりに年季の入った七階建てマンションの三階。エレベーターを降りてすぐの部屋。
玄関前、わたしは深呼吸して決意を固めていた。この扉の向こうに、いったいどんな惨状が待ち受けているというのだろう。
「いい? なにがあっても、絶対に驚かないこと」
わたしはリーダーとしてみんなに注意を促す。
「柚花はなにもなくても驚くじゃん」
鳴亜梨ちゃんのつっこみは無視して、わたしは震える指でインターホンを押した。震えすぎて十二回ほど連打してしまった。
ややあって、ぱたぱたと慌ただしい足音が近づいてくる。次いで、扉ごしの声。
「はい、広見です。どちら様でしょうか」
女の子の声だ。おばさんにしては幼すぎる。悠斗には妹がいるから、彼女だろうか。……ん? でもこの声、どっかで聞いたような。ものすごく聞き覚えがあるような……
「……あんた、なにやってんの?」
鳴亜梨ちゃんが突然扉に向かって言った。
「ま、まずいよ鳴亜梨ちゃんっ! いくら自由奔放な鳴亜梨ちゃんでもいきなり訪問先の相手に喧嘩ふっかけたりしちゃまずいよっ! たしかに相手は子どもで弱そうだけど、今どきの子どもは飛び道具とか使ってきそうで逆に怖いよ……。それに、まだ声が高いおっさんの線もあるし……」
あれ? なんかこの状況、前にも……。デジャヴかな?
「鳴亜梨? それに、柚花ちゃん?」
扉からの声。
「え?」
困惑するわたしをよそに、扉が内側から開かれた。
「このみちゃん!」
現れたのはほかでもない、このみちゃんだった。
そうか、どこかで聞いた声だと思ったら……あ!
「十円ハゲ! そっか、昨日の十円ハゲのくだりのときの! 十円ハゲ!」
デジャヴじゃなかった。はー、思い出してすっきりした。
「も、もぉ〜! 柚花、急に大声で変なこと言わないで! それに三回目のはわざとじゃないのっ……」
鳴亜梨ちゃんが頭頂部を押さえて涙目になる。
「あ、ごめん……つい興奮しちゃって」
反省。わたしは真緒くんの膝に手をついて反省した。
「ところで、なんで小森さんがここに?」
じゃれつくわたしを無視して真緒くんが訊く。言われてみればそうだ。
「ところで、なんでこのみちゃんがここに?」
わたしは真緒くんの質問をなかったことにして訊く。別に無視されたのがなんか悔しかったからとかじゃない。
「あ、それはね……」
「小森ー? 騒がしいけどなんかあったのか?」
またも近づいてくる声と足音。答えようと口を開いたこのみちゃんの背後で、悠斗が首を伸ばした。
「って、柚花……それにおまえらも」
「ども」
「ちっす」
「久しぶり」
「おばんです」
各々、挨拶をする。
「立ち話もなんだから、とりあえず上がって……って、わたしが言うのも変かもだけど」
このみちゃんのお言葉に甘えて、ずかずかと土足で上がりこむ。
「お邪魔しまーす」
「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル!」
「お、お邪魔しますっ」
「おばんです」
ぞろぞろと廊下を闊歩する。リビングへ通じる敷居を一歩跨いだその瞬間、わたしの脳みそは過去へとタイムスリップした。急速に蘇ってくる思い出の数々。ほんの三年ぶりくらいなのに、ひどく懐かしさを覚える。だけど、記憶と食い違っている部分もある。いつ来ても整理整頓が行き届いていてすっきりした部屋というイメージがあったが、今は昔に比べて物が多いというか、雑然としていて、生活感にあふれていた。
「あはっ、せまーい! そのうえ散らかってるね!」
好奇の目で室内を見回していた鳴亜梨ちゃんがストレートな感想を口にする。
「悪いな。適当にくつろいでくれ」
わたしはお言葉に甘えて部屋の真ん中に鎮座するソファにダイブした。鳴亜梨ちゃんはちゃぶ台の下にもぐりこんだ。真緒くんは座布団の上にちょこんと正座した。メガネはちゃぶ台をひっくり返して逆さまになったちゃぶ台の上にちょこんと正座した。
「広見くんも、寝てなよ。説明はわたしがするから」
「いや、もう大丈夫だ。治った」
「病み上がりのときこそ安静にしてなきゃ……。ぶり返して余計に長引いても知らないよ」
目の前で謎の会話を繰り広げるこのみちゃんと悠斗。というか、その内容から察するに……
「え? もしかして悠斗って本当に風邪だったの!?」
「は? 先生から聞いてないのか? っていうかそれでぞろぞろ見舞いに来てくれたんじゃないのか?」
「……うんと、まぁ」
訝しげに見てくる悠斗に、歯切れ悪く言葉を濁す。
「虐待反対! 虐待反対!」
鳴亜梨ちゃんは思い出したようにすくっと立ちあがって叛逆の狼煙を上げる。ちゃぶ台がひっくり返っていなければ今ごろ頭を強打していたところだ。ひっくり返してくれたメガネには金輪際足を向けて寝られないことだろう。
哀れむような目で鳴亜梨ちゃんを眺めながら、このみちゃんが言う。
「たぶん、わたしと同じ目的で来たんだよ。柚花ちゃんは」
「……ああ、そういうことか」
納得した様子で顔を伏せる悠斗。わたしにはなにがなにやらわからない。
「そうだよ、このみちゃんはどうしてここに?」
改めて訊ねた。
「うん。わたしはね、広見くんのことはどうでもよかったの。本当に、心の底からどうでもよかった」
「小森……おまえ、意外と毒舌だな……」
「でも、昨日のことで……柚花ちゃんが心配そうにしてたのが、わたしは心配だった。一日経てば少しは元気になるかと思ったけど、柚花ちゃん、授業中も休み時間もずっと暗くて、ずっと上の空だった。それでわたし、居ても立ってもいられなくなって。だから学校が終わってすぐ、昨日のこと、詳しく聞きに来たの。最近の小学校はすごいね。個人情報保護法だっけ? 先生に友達の住所を聞き出すだけで一苦労だったよ」
「なんだ。じゃあわたしたちも誘ってくれたらよかったのに」
さらっとわたしのことを心配してたって言ってくれたのがすごくうれしいけど、なんだかこそばゆかったのであえて触れずに話を進めた。
「うん……ごめんね。みんなで押しかけたらお家の人に迷惑かなって思ったのと、やっぱりなにか問題があるなら早く片づけて、早く柚花ちゃんに元気になってほしくて。まさか直々に、しかも女子会の時間に来るとは思わなかったけど……」
そりゃ、今日の女子会はまだ始まってないからね。
「それで? 結局この事件の真相は?」
鳴亜梨ちゃんがエアちゃぶ台の下で丸まりながら訊いた。
悠斗は言い渋っていたが、五人分の熱い視線を受けて、やがて根負けしたように、
「ったく、おまえら揃いも揃って大げさなんだよ。別になにも複雑なことはない」
そう前置きして、悠斗は順を追って説明してくれた。
「まず今年の頭ごろ、いろいろあって俺の両親が離婚した。そんで俺と
「え……」
全然知らなかった……。それでおばさん、いないんだ。
「父さんは仕事が忙しくて、夜は帰りが遅い。少なくとも晩メシの時間帯よりは遅くなる。麻由はまだ二年生だから、家事はだいたい俺が担当してる。あいつは手伝わせてくれってうるさいけどな。で、もちろんメシも俺が作ってる。外食とかコンビニ弁当で済ませてもいいけど、自炊のほうが安上がりだし、健康面でも俺はともかく麻由の身体によくないと思って。――そんだけ。な、簡単なことだろ?」
その顔からは疲れの色が見て取れたし、口調からは諦念のようなものがにじみ出ていた。
「……簡単なことだろ、じゃないよ」
わたしの口から言葉が漏れ出した。感情が先行して、怒涛のごとくあふれてくる。
「わたしは、怒っているのだよ、悠斗。このみちゃんもだよ。強がってなんかいないで、ひとりで抱えこんでなんかないで、とっととわたしたちに相談しれ。同じ女子会の仲間じゃないか。それで、わたしがピンチのときは、みんなが助けてほしい。みんなに助けてほしい。わたしは、わたしたちがそういう関係であれたらいいなって、そう思ってる。そういう関係は、みんな、いやかい?」
ちょっと真面目に語ってしまった。かっこつけすぎたかもしれない。でも、本心だ。
考えこんでいるのか、押し黙るみんな。この沈黙を最初に破ったのは、このみちゃんだった。
「いやなわけ、ないよ。すごく、いいと思うよ……ごめん、今度広見くんの家に乗りこむときは、みんなで行こうね?」
「ぼくも、若月さんの描く関係、いいと思う。ぼくもちゃんと自分の役割を担えるように、もっとしっかりしなきゃだね」
「若月に賛成。なぜなら、みんなが賛成してるから。僕に言えるのは、それだけだ」
「今の柚花、輝いてるよ。それこそ、あたしの頭より。あたしに言えるのは、それだけだ」
そして最後に、悠斗。
「……相談したら、どうにかなるのか?」
「どうにでもなる」
わたしは即答した。
「ところで悠斗、今日の晩ごはんってもうできてる?」
「は? なんだよ突然。まだだけど……」
「じゃあ決まり。あ、悠斗は病み上がりだし、今日のところは休んでていいよ。完治したら分担割り当てるからね」
「おい柚花、おまえ、なにをする気なんだ」
「なにって、そりゃあもちろん女子会ですよ――調理実習という名のね」
今こそ我々の女子力が試されるときだった。
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