メビウスの約束 1/5



仕事帰り、ふらりとバーに立ち寄った。


酒はやめていたはずだったけれど、どんな人間でも、どうしようもなく飲みたくなる日があるというものだ。




教師という仕事は、幼い頃からの夢だった。


夢が叶って、この仕事は夢見ていたような輝かしいことばかりじゃないのだと知った。




だからと言って、飲まなきゃやっていられないほど辛いことや、嫌なことがあったわけじゃない。


ただ、あまりにも代わり映えのない日常に、少し…退屈になっただけだ。








格好をつけてカウンターの席に座っても、そこまで酒に強いわけじゃない俺は、大して長居もせず暫くすれば店を出るだろう。


アルコールの匂いと、煙草の香り。


そういう…校舎の中では感じ得ない空気の中に少しでも浸れたら、それでいい。






不意に、懐かしい香りがして顔を上げた。


カウンターの向こうでは、若い男のバーテンダーがしきりにグラスを磨いている。


匂いの漂ってくる方向を見ても、そこにはただ雑然としたバーの雰囲気があるだけだった。




これは…昔吸っていた銘柄の、煙草の匂いだ。


きっと、誰か他の客が吸っているのだろう。


懐かしさと同時に、寂しさや虚しさ、いろんな感情が沸き起こる。




この香りは、あの頃のことを、あの日のことを俺に思い出させる。


大切で、忘れたくない記憶。


…だからこそ思い出さないために、俺は、違う銘柄の煙草を吸うようになった。






もう二度と戻ることの出来ない日々が、頭の中を巡り始める。


思考が遡っていく。




匂い、空気、肌の感覚、感情までもが鮮明に蘇る。






あれは、今から十年前の…三月。




三月十二日の、昼下がりのことだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る