イワシと鷲
夏夜 夢
前編
一
オールで海を掻く度に、僕は規則正しく息を吐いた。目的地は少しだけ頭を出している岩場。今日は風もなく、潜るにはちょうどいい。目的地の近くでゆっくり足から海に入ると、静かな海にゆらゆらと波紋が拡がり、岩場にまで拡がると跳ね返されてピチャリと鳴いた。僕は岩場の手頃な突起に小舟を繋いで、ソラと一緒に岩の表面に彫った絵を見つめてゆっくりと深呼吸した。ソラの好きな鳥を彫った一年前も、同じように月が綺麗で海が真っ青だった。
僕の国は海に囲まれた海産物の豊かな場所にあり、人々の生活には海が切っても切り離せないような関係にあった。特に僕の住む村は海のすぐそばにあり、ほとんどの人が漁業で生計を立てていた。男は海に出て網で魚を獲ったり、潜って貝や海藻を採ってこなくてはならない。その為、大人になったらきちんとした儀式が存在し、村のみんなに一人前と認められなくてはならなかった。
儀式というのは夜の明るい満月の日に、予め海底に沈められた光石を素潜りで取ってくるというものだった。僕はその儀式が一か月後に迫っていた。
「カイ、練習は進んでいるか?」
僕は海辺に座り、自分の儀式で命綱に使う紐を編みながら、セキさんの声に振り向いた。
「まあまあかな、たぶん大丈夫」
「あれからもう一年も経つのか、早いなあ」
セキさんはたぶんあの事を思い出したんだろう。僕の大事なソラが大人になれなかった日のことを。
二
一年前―――。
僕は一つ年上のソラと一緒に近くの岩場まで船を出し、素潜りをしていた。
「カイは本当に潜るの得意だよな」
「ソラだって、練習頑張ってるじゃん。僕と変わらないよ」
ソラは身体があまり強くない。潜っているときに息が続かなくてすぐ泡を吐いてしまったり、足が痺れて助けを求めたりするので見守り役もしっかりしなくてはならない。村では一人で潜水することを禁止している。何かあった時に助けられるように、必ず海上で見守り役を付けなくてはならない。今日も僕は見守り役として、一か月後に迫ったソラの儀式のための練習に付いてきたのだ。ソラが潜っているときに危険だと感じたら、足に結んだ命綱を引っ張る。見守り役の僕は、それを感じたら急いで海へ潜ることになっている。
バッと海面に上がってきて、これでもかという勢いで呼吸をするソラは今日も「ダメだ」と笑った。
「もう、ほんと、やだなあ、ハア」
船に引き上げて仰向けになったソラは息を整えていた。
「今日も海底まで行けなかったの?」
「うん、おれ、もう無理かも」
僕たちは抗えない未来を考えながら、船の上で星を見上げていた。儀式で失敗したものは何人か見たことがあるが、村の掟によりこの村を出ることになる。まったく酷い文化だ。何度かセキさんと話をしたことがあるが、長い伝統というのは変えるのが難しい、偉くなる人間っていうのは変化を嫌うものなんだって言ってた。魚を獲ることだけが村の仕事じゃない。漁に使う船を作る人、山側の村と交易して野菜やキノコを持ち帰ってくる人、日常に必要なことを仕事にしている人はたくさんいる。海に潜ってない人なんてたくさんいる。なのにどうして海に潜れないと大人になれないんだろう。僕はまだ大人のことは全然理解できないと思った。
「もしもソラが村を出ることになっても、僕がなんとか村の人を説得する」
「いいよ、そこまでしなくても。どうせ俺はこの村には向いてないんだ。それに親父は役人だから、俺のことを恥じてるんだ。俺なんていらないって、産むんじゃなかったって言ってた」
「あの親父さんがそんなこと言ったのか? そんなの酷すぎる。あんまりだ」
「カイは素潜りも上手だし、魚を覚えるのも得意だろう。だからきっと自由に生きていける。カイはクジラみたいなもんさ。深く潜ることができるし、群れの中でちゃんと生きていける。でも俺ははぐれたイワシなんだ。周りについていけない、泳ぎの下手なイワシだよ。いっそ鳥になりたい。鷲みたいな格好いい鳥に」
「僕はソラが思っているようなすごい人間じゃないよ。ソラみたいな人も自由に暮らせる村にしたい。クジラだって、イワシだって、鷲だってみんな個性を活かして自由に生きるべきだよ」
「カイみたいな男が息子だったら、親父も喜んだんだろうな」
「…」
ソラはごめんと呟いて、また海へ入った。
「カイも来て」
僕が、なんで? と訊く暇もなくソラは船を繋いである岩場へゆっくり泳いでいっ
た。しかたなく海へ入ると、少し寒気がして震えた。ソラは岩場をつたって何かを探していたが、僕が着くころには小さな石を手にしていた。岩場のなるべく平らな面をソラは削り始めた。白い溝が紡がれて大きな翼が生えた。
「大きな鳥だね」
「鷲だよ。どこか遠い国のお話では、人間は死んでも魂が鳥の姿になって還ってくるらしいんだ。それなら俺は鷲が良いな。空を高く高く飛んでいける、気高くて強い鳥だもの」
「死んだら、なんて。その頃にはもうおじいちゃんなんじゃないの?」
「その頃には、俺みたいな人間が住みやすい村になっているといいな」
三
「僕が変えるよ」
あの日、まっすぐにソラを見てそう言ったことを僕は思い出していた。一人で潜ることは禁じられているから、ソラの彫った鷲を見に来ただけだ。真っ青な世界で船に
仰向けになっていると、波一つなかった船体が揺れた。慌てて起き上がると、水平線側に何かが頭を出していた。先程までは無かった何かがいる。
「ソラ……?」
暗くて顔はわからないが僕の見間違いでなければ、あの少し長い髪の毛と細い首はソラによく似ていた。ソラはあの日、村の儀式の日に二度と帰ってこなかった。僕が助けに潜って、進んだ先にはもうソラは居なかった。だから、こんなところにソラがいるなんてありえないんだ。ソラは海に消えてしまったのだから。
ソラのような何かは、それからすぐ水平線の方へスーッと泳いでいった。海面には月が反射して、まるでそれは海を飛んでいく鳥のようだった―――
またグワンと船体が揺れたとき、僕はようやく目を覚ました。さっき少し仰向けになって、それから、あれ?今のは夢だったのか、現実だったのか。ぼんやりしながら水平線に目を向けると、海面には綺麗な月が映っているだけだった。僕は目尻からこめかみに乾いた涙を感じて、あの日の真っ暗な海を思い出した。
ソラの儀式の日は、波も安定していてとても潜りやすい状況だった。僕は見守り役になり、ソラに何かあったらすぐに潜る準備をしていた。ソラはあんなに儀式を心配していたのにどこか吹っ切れたような、清々しい顔をしていて僕は正直あきらめたんだと思っていた。練習でほとんど成功していなかったし、村を出てどうやって生きていこうかという話までしていたからだ。それから、ソラは潜る前にこんなことを言った。
「カイ、俺は鳥になりたい。できれば村を出ていきたくない。カイと一緒にいたい。だけどきっとそれは叶わない。いままで練習に付き合ってくれてありがとう。俺がいなくなっても、カイは来年の儀式、ちゃんと成功してくれよ」
「ソラ、正直無理してこんな試験に合格する必要なんて無いよ。僕はこんな試験関係なく、ずっとカイと親友なんだ。それは変わらない。いつだって会えるよ。村にいることが重要じゃない」
儀式のときは、海が暗いので自分も青い光石を持つことが許されている。その明かりを頼りに海底を進むのだ。僕は、カイに青い光石を渡しながら、無理するなよと言った。カイはありがとうと言って、笑った。
それが最後に見たソラだった。
そのあとソラは、儀式の途中に自分で命綱を外して、どこか遠くへ消えてしまった。もちろん僕は命綱の様子がおかしいのですぐに潜ったのだが、どこまで潜ってもソラは見えなかった。どんどん暗くなる海の中で、こんな場所にソラを一人にしたくないという想いで必死に探した。やがて僕の命綱が限界に達して、それ以上進めなくなった。息も限界だった。あたりは真っ暗で音もなくて、本当にたった一人で孤独になったようだった。僕はそれから村の大人に助けられ、なんとか海上に戻った。手足に痺れを感じて、まともに泳げる状態ではなかったが、僕は半身を奪われたような、そんな気持ちで船上の村人たちの顔を見ていた。
村に戻ると、ソラの親父さんや家族たちが泣いていた。僕は大きな声で怒鳴ってやりたい気分だった。ソラの親父さんはソラのことなんて愛してやいないんだ。自分の立場や、名声のために子供を侮辱できる人間なんだ。みんなにこう伝えてやりたかったが、ソラがそれを望むとは思えなかった。
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