前夜

「行ってきます、姉ちゃん!」

「うん、車に気をつけてね」


 ぶんぶんと手を振って、友達のところへ駆けていく芙花。

 昨日は外出禁止のサイレンが鳴り響き、ご機嫌斜めだったが、すっかり元気一杯だ。

 引率の温和そうな女性に一礼し、芙花の小さな背中を見送る。


〈平和、ですね〉


 小学生は保護者同伴の集団登校が当たり前。

 保護者こそ同伴しないが、集団登校は高校生ですら推奨されている時勢。

 それもこれもインクブスという度し難い存在のせいだ。


「ああ」


 眩しいくらいの笑顔を浮かべ、友達と盛んに言葉を交える芙花。

 そんな平和で、愛おしい光景には指一本触れさせない。

 いつものように、確実に、インクブスどもを駆逐する。


「昨日のTL流れてきた動画、見た?」

「昨日?」

「唐突だなぁ」


 見送りを終え、いざ学校へ向かおうと振り向くと視界に入る3人組の男子。

 部活動に属していない生徒の登校時間は重複しやすい。

 私の場合、彼らの後ろが定位置になっている。


「あ、見た見た」

「ウィッチが街中で戦ってたやつ?」

「そうそう!」


 よく通る声で話す男子たち。

 その話題は、市街地に出現したインクブスとウィッチの戦闘についてだった。

 漏れかけた溜息を噛み殺し、無表情となるよう努める。


「すごかったよな~最近、無かったから驚いたわ」

「あのウィッチって誰?」

「可愛かったなぁ…」


 昨日、行われた戦闘は6件。

 内1件は介入を考える事態に陥ったが、辛くもインクブスの駆逐に成功。

 その一部始終は今朝のテレビでも見た。

 よく撮っている暇があったな、と冷めた気分になったのを覚えている。


「田中に聞いてみようぜ」


 信頼されてるな、田中くん。

 ファンとはいかなくともウィッチの華やかな姿に魅せられる男子は多い。

 だから、彼らがウィッチの話題で盛り上がる光景は見慣れたもの。


 ただ──今日は街中が落ち着かない空気に満ちている。


「まだ外出禁止の市もあるらしいわ」

「ここは大丈夫なのかしら……」


 子どもを学校に送り出した主婦の不安そうな会話を耳にする。

 その不安は尤もだ。

 近郊に出現したインクブスを駆逐したと私は知っているが、一般人は何も知らないのだから。

 ただ、不安そうでも他人事な声色に深刻さは感じられない。


「昨日な、国道を戦車が走ってるの見たんだよ! ほら!」

機動戦闘車キドセンね?」


 バスを待つ大学生と思しき男女が、撮影した国防軍の車両をケータイで見ていた。

 やはり、昨日は国防軍も戦闘に参加していたらしい。

 エナの放射が観測できなかった地域でインクブスを屠ったのは、彼らなのだろう。


〈む……危ないですね〉


 手元のケータイから目を離さず歩くサラリーマンの男性とすれ違う。

 肩に触れても気がつかないほどの熱中ぶりだった。

 その画面には、淡い桃色の装束を纏って懸命に戦う少女の姿。


 誰も彼も昨日の戦い、そのに夢中だった──冗談じゃない。


 彼女たちが敗北すれば、言葉にするのも悍ましい地獄が展開される紙一重の世界。

 誰もが当事者のはずだ。

 それでも小さな画面の向こう側に押し込み、他人事であろうとするか。


〈誰も……私たちの戦いは知らないんでしょうね〉


 肩にかかる髪の陰より囁くパートナーの声は、どこか寂しげだった。

 私たちの戦いが知られることはない。

 そうなるよう細心の注意を払って活動している。


「それでいい」


 雑踏の音に紛れる小声で、パートナーへ言葉を返す。

 一般人に広く知られるということは、インクブスにも観測されるということ。

 非常時を除いて、おいそれと手札を晒したくはない。


 それに──絶えない悲鳴、我先に逃げようと押し合う人々、絶望に染まったウィッチの表情。


 インクブスのと大々的に報道された日、私は一つの教訓を得た。

 あの蜂の巣をつついたようなパニックは二度と繰り返すべきではない、と。


「おはよう~東さん」


 鬱屈とした気分で辿り着いた校門、そこで名を呼ばれた私は足を止める。

 この声は政木律だ。

 つい先週話したばかりで、さすがに忘れはしない。

 挨拶のために振り向くと視線は2対あった。


「おはようございます、東さん」


 シモフリスズメの絵が上手い金城が柔和な笑みを浮かべて一礼する。

 その隣で瞼が今に落ちそうな政木が小さく手を振っていた。


「おはよう」


 挨拶を返すのは最低限のマナーだ。


 ──視線が集まっているのは珍しい組み合わせだからか?


 それは同感だが、見世物じゃないぞ。

 居心地の悪さを覚えながらも私、いやは校門を潜る。


「東さん、もっと早く来てると思ってたよ~」

「…どうして?」

「それは……いつも授業の準備が早いから?」


 なぜ疑問形なんだ。 

 確かに私は早め早めの行動を心掛けている。

 ただ朝は芙花を必ず見送るため、遅刻しない程度の時間帯になるのだ。


「律が遅いだけです」


 ぴしゃりと言い放つ金城。

 柔らかな雰囲気を纏う大和撫子にしては、歯に衣着せない直球だった。


「静ちゃんは手厳しいな~」


 眉を下げて困り顔となる政木に気を害した様子はない。

 予定調和、いや日常的なやりとりなのだろう。

 気心の知れた仲というやつか。


 しかし──なぜ、私は彼女たちと一緒に昇降口まで来ているのか。


 最近、顔を合わせただけの間柄で友達とは呼べないだろう。

 昇降口を出て、教室へ向かう道すがらに話を振られても反応に困る。

 私は人との接点が少ないのだ。

 共通の話題など──


「政木さん」

「うん?」


 あったな。

 友達でなくとも伝えておくべき最低限の言葉がある。

 いや、挨拶を返したときに言うべきことだった。

 並んで歩く政木の視線を真っすぐ見返す。


「先週はありがとう」

「先週……あ、おいしかった?」

「…うん」


 貰った日の夕食に急遽並んだお稲荷さんは芙花にも好評だった。

 今度、惣菜売場にあれば買って帰ろうと考えている。


「よかった~」


 ふにゃと笑うクラスメイトからは、やはり邪気というものを一切感じなかった。

 無償の善意に甘えて、ただ貰うだけというのは悪い。


「今度、何か──」

「あ~お返しは東さんのお弁当を見ることかな~」


 お弁当?

 微睡みに沈みかけていた政木の目が私の手元を見る。


「今日も惣菜パンでしょ?」


 当たりだ。

 なぜ分かった。

 鞄の中を見たわけでも──いや、想像はつくか。


「それは、あまり感心しませんね……栄養が偏ってしまいますよ、東さん」


 ぐうの音も出ない正論だ。

 美味くはないが手軽、しかし栄養のバランスは偏る。

 もし、体を資本とする父が見れば黙っていないだろう。


「…分かった」


 いい機会だ。

 多少の手間はかかるが、その分早く起きればいい。

 やりました、と微かに聞き取れるハエトリグモの声は聞き流す。


「金城さん」

「なんでしょう?」


 この機会に聞いておこうと金城に声をかける。

 以前に相談を受けたシモフリスズメの1件が、どういう結果となったか気になっていたのだ。


「シモフリスズメの件は大丈夫?」

「うぇ!?」


 大和撫子らしからぬ声を出して廊下で硬直する金城。

 鉄壁に見えた笑顔が一瞬で崩れるとは、一体何があったのだろう。


「ええっと…大丈夫です。何も、何も問題はありませんよ?」


 問題ないと言いながら、気まずそうに視線を下へと流していく。

 それに頬が、黒髪から覗く耳も赤いような気がする。


「静ちゃん、動揺──」

「していません」


 いや、どう見ても動揺していた。

 どこか凄みのある笑顔に圧される政木の隣で口には出さないが。

 しかし、顔に出ていたのか、切れ長の目が私にも向く。

 

「東さんもいいですね?」


 圧に対して黙って頷く。

 恐るべしシモフリスズメ、一体何をしたんだ。

 害虫と言えば害虫ではあるが、それは葉を食害する幼虫の時だけだ。

 やはり洗濯物を鱗粉で汚されたのだろうか?


 本人にとっては一大事だが──なんというか可愛らしい話だ。


「お〜微笑った」


 目を丸くする政木と金城を見た瞬間、口元が微かに上がっていることに気づく。

 無意識だった。

 指摘されると急に気恥ずかしくなってくる。

 慣れないな、本当に。


 最近、他人と話す機会が増えて──鳴り響く予鈴。


 きっと泡沫の平和は歪な姿をしているのだろう。

 しかし、それが私の日常だった。



 自称女神の鼻を明かしてやる、そんな醜いエゴが私の内にはある。


 その最短ルートであるインクブスの駆逐は──牛歩の進捗だ。


 私の力など底が知れている。

 それを理解していながら、わざわざ足枷を付けた。

 エナ確保のためファミリアを全国に分散させる、一般人のパニック回避のため市街地で交戦しない、エトセトラ。

 どうしようもない。


 やめてしまえ──できるものなら。


「……ままならないな」

〈どうかされましたか?〉

「なんでもない」


 ただ待つだけの時間は、余計なことに思考を割かれる。

 集中しろ。

 三日月が頭上に達し、朽ちたホテルの屋上より旧首都を見渡す。


〈…なかなか現れませんね〉


 パートナーの呟きに私は答えなかった。

 いや、答えられなかった。

 今回の作戦はインクブスの主力が現れるまで開始できない。

 ある意味、敵にイニシアチブを握られている状態か。


 私の読みが当たっていれば現れる──はずだ。


 ポータルについて判明している事は3つ。

 屋内や地下でも使用できる。

 ある程度の空間を要する。

 そして、同じ場所での再使用には24時間かかる。

 最後の使用から24時間が過ぎ、今はインクブスどもの活動する時間帯。

 だが──


「現れないかもしれん」


 ウィッチが昨日の今日で来ないと油断している間に、手薄な場所へ大規模な部隊を送り、侵攻へ転ずる。

 それが希望的観測を含んだ私の読み、いや筋書きか。


〈絶対に現れるとは言えないでしょうね〉


 私の言葉にパートナーは同意する。

 手薄を装った場所に現れないかもしれない。

 現れるのは明日、いや明後日かもしれない。

 確証は何一つないのだ。


〈それでも私は戦略眼を信じますよ〉

「今日、現れると?」


 黒曜石のような眼に映る私の表情は渋いものだった。

 私は僅かな情報で全てを見通すような戦略家じゃない。


〈インクブスは性急に成果を求めているように見えました〉


 それは間違いない。

 その成果は攻撃無くして得られないことも。

 しかし、インクブスが今日現れる根拠としては弱い。

 だからこそ私は主力を叩くまで態勢を維持するつもりだった。

 少なくないファミリアを拘束されようと橋頭堡を築かせないために──


〈インクブスは馬鹿ではないでしょう。ですが、忍耐力もありません〉


 長期戦を考えている私にパートナーは語りかけてくる。

 インクブスの忍耐力の低さは、私たちの共通認識だった。

 よく知っているとも。


〈目先の獲物には、必ず食いつくはずです〉


 弱者を嬲らずにはいられない。

 愚者を嘲笑わずにはいられない。

 どれだけ知的に振舞おうが、我慢弱く、下半身で思考する肉袋ども。

 それがインクブスだ。


〈警戒すべきはですよ、シルバーロータス〉


 そこまで言われて、ようやく私は思い至る。


 ──ファミリアの配置は消極的で、包囲戦力より多い予備戦力、そして過剰なまでの索敵。


 ちぐはぐだ。

 長期戦を考えていながら、まるでエナの消費量が見合っていない。


〈違いますか?〉

「いや、その通りだ」


 無意識のうちに空回りしていたらしい。

 インクブスの本質は、明日よりも今日だ。

 今ここで叩き潰す気概でいなければ、肝心なところで取り逃すことになる。


「助かった」

〈パートナーですから〉


 打てば響く、そんな自信に満ちた返事だった。

 できたハエトリグモだよ、まったく。


「配置を変える」

〈分かりました〉


 より攻撃的な配置へ移動するようファミリアへ伝達──旧首都の空気が微かに震えた。


 テレパシーに応えたアシダカグモがホテルの屋上へと登ってくる。

 すぐ傍に置かれる脚は鉄骨のように太いが、弾き出す速度は新幹線並み。

 連戦のため休息中のスズメバチに代わり遊撃を担うファミリアの1体だ。


〈網の展張が完了しました〉


 続々とアンブッシュの態勢を整えるファミリアたち。

 インクブスに逃げ道などない。


〈準備万端ですっ〉


 ファミリアの活躍を今か今かと待つパートナー。

 最近、ウィッチらしくないと言わなくなったな。


「アズールノヴァのおかげか…?」

〈はい?〉

「気にするな」

〈とても気になるのですが…!?〉


 鍋は用意した。

 具材を投げ入れ、後は煮るだけ。

 どれほどのインクブスが現れるかは分からない。

 現れないかもしれない。

 それでも待つ。


 月光が暗雲に覆われ、闇が訪れる──反応あり。


 空気が変質する。

 無機質な敵意が旧首都に満ちる。


〈来ましたね〉


 脳内を覆い尽くす声のようなモノ。

 ファミリアから一斉に発されたテレパシーで、インクブスの編成は一瞬で明らかとなる。

 暗闇など関係ない。

 エナの反応に加え、振動、空気の流動、そして臭気で獲物を正確に把握する。


「ああ」


 来るものが来た。

 であれば、盛大に歓迎してやろう。

 同胞が糧になって育て上げた死の化身と対面だ。


「やるぞ」

〈はい、やってやりましょう〉

 

 ウィッチが現れる前、都市部の地下鉄をインクブスどもは拠点の一つにしていたと聞く。

 砲爆撃に耐えられ、防衛が容易な最前線基地だと。

 それがウィッチ相手でも通じると思っているのだろうが──


「殲滅戦だ」


 今宵、コルドロン大鍋は開かれた。

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