第48話 祖逖

 建康の宮廷では新たに皇帝に即位した司馬睿しばえい、その即位を主導した丞相の王導おうどう、軍を率いる大将軍の王敦おうとんが国造りを進めていた。

後世において、永嘉の乱で滅んだ西晋と区別し、東晋と呼ばれる王朝である。

山積する問題に対し大臣たちがあれこれと議論する中、一人の男が進み出た。

先に石勒せきろくと争って非業の死を遂げた劉琨りゅうこんの親友、祖逖そてきであった。


祖氏は代々将軍を勤める家柄である。

祖逖の父は早くに死去し、兄に育てられた。

学問を軽視するきらいがあり、学を身につけたのは青年に達してからであった。

反面、義を重んじ、身分に関係なく人付き合いをするその態度から、民衆に慕われた。

祖逖が最も親しく交わったのが、劉琨であった。

劉琨は先んじて石勒に戦いを挑んだが敗北し、味方につけようとした鮮卑族の政争に巻き込まれて命を落とした。


祖逖の声が朗々と響く。


「晋室の混乱は、無道な政治に民が反乱を起こしたものではありません。帝国の藩屏たる諸王が権勢を争い、誅殺しあっていたのが原因であり、そのはてに、夷狄に隙をつかれ、害毒が中原に流されたのです。いま、華北に取り残された民は悲惨な目にあっておりますが、まだ晋朝を奉じております。陛下がもし武威を発して北伐の将軍を任命し、私をその麾下に加えてくれるならば、郡国の豪傑は必ずや風に乗って馳せ参じ、民草は息を吹き返します。国家の恥がそそがれることを私は望んでいます。陛下、どうかこの事をご思案いただきたく存じます」


「駄目だ駄目だ」


そう言ったのは、司馬睿ではなく、大将軍の王敦であった。


「江南の全てが掌握されたわけでもないのに、北伐の軍など起こす余裕はない。今は地歩を固める時だろうが」


祖逖も譲らない。


「いまやらなければ、蛮夷の支配が根付き、黄河より北を永久に失陥することになります。それでもいいと、閣下はおっしゃるのか。それでは!死んだ劉琨が浮かばれない!」


「国家の大事に私情を挟むんじゃあない」


言い争う二人を見て、司馬睿が口を開く。


「非常に心苦しいが、今は足固めをする時期だ、という大将軍の意見に、余も同感だ」


このやり取りを見て、丞相の王導は少し思案の顔を浮かべた後に、満面の笑みで切り出した。


「陛下、祖逖殿をひとまず奮威大将軍、豫州刺史に任命しましょう。北伐に備えて、食糧と布帛も支給します。しかし、北伐の実行に関しては、しかるべき時に追って沙汰するということで」


司馬睿も頷く。

出世させてやるから大人しくしろ、と言うことか。

はらわたの煮えくりかえる思いを押し隠して、祖逖は返す。


「はっ、ありがたき幸せ」


固い表情で退出する祖逖を見送ると、王敦は王導に詰め寄った。


従弟おとうとよ、いいのか!あれは官位で大人しくなるようなタマではないぞ」


王導は微笑む。


「わかっていますとも。それがかえって都合がいいのです。祖逖が発奮して自力で遺領を取り返すなら良し。取り返せず敗北して死んでも、我々の関知することではないから、それも良し」


「おぅ……ひでぇな、お前は」


にやにやと笑い合う二人をよそに、司馬睿は憂鬱そうに遠ざかる祖逖の背をじっと眺めていた。


 祖逖は自身の部曲百余を連れて長江に船を進めた。

大河の中程まで船が進むと、祖逖は楷を止めさせて言った。


「この祖逖、中原を取り戻せずに再びここを渡ることはない!もし、そのような事があれば!長江の神よ、私を沈めてくれ」


義勇兵達はその壮烈な誓いの言葉に深く感じ入り、決意を新たに進んでいった。

決死の誓いのことを“祖逖之誓そてきのせい"と呼ぶのは、この故事に由来するものである。

祖逖は河を越えて江陰の地に入ると、私財を擲って義勇兵を募り、二千余の兵を得た。また、武具を鋳造し、戦いに備えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る