第37話 王浚

 「このあわまで納めてしまったら、ワシらの食うものが……」


痩せこけた農民が兵士に追いすがるが、兵士は乱暴に蹴倒した。


王浚おうしゅん様のご命令に逆らうなら容赦せんぞ」


「うう……あんまりだ……武帝様の御世にはこんなことはなかったのに」


「晋はもう終わったんだ。これからは幽州刺史ゆうしゅうしし王浚おうしゅん様の時代なんだよ」


別の家からも悲鳴が聞こえる。


「後生です!娘には許嫁が」


「やかましい!貧乏人の小倅こせがれに嫁ぐよりも、王浚様のめかけになるほうが、お前の娘も幸せだろうよ」


兵士は娘の父親を剣の柄で殴りつけると、泣き叫ぶ娘を馬車に押し込んで走り出した。


「幽州は地獄じゃ……誰でもええ、王浚をこらしめてくれるやつはおらんのか」



「王浚様、ご堪忍を……わたしには夫婦となる約束を交わした人が」


 奥から聞こえる痴態は日常茶飯事であるので、誰も気にも止めない。

しばらくすると静かになって、着衣の乱れを直しながら、幽州の支配者である王浚が家臣の前に姿を現した。


「あの小娘、舌を噛み切って死ぬとは無礼な。わしの女になるのは名誉なことだとわからんのか。まったく、初物はつものを食い損ねた気分じゃわい」


配下の游統ゆうとうが王浚をなだめる。


「ははは、また新しい処女を仕入れますので、ご機嫌をお直しください。それよりも、良い知らせと悪い知らせがございまして、どちらから聴きとうございますか」


「良い知らせから聞こうか」


「帝が、司馬熾しばし様が、遂に劉聡によって処刑されたとのことです。これにより、皇太子の司馬鄴しばぎょう様が新たに即位され、殿は大司馬へ任じられました」


「ぶひひひ、司馬熾め、遂に死んだか。劉聡も何をぐずぐずしておるものかと思っていたが。いずれは過去の肩書きとなるとはいえ、大司馬というのも悪くはないぞ。して、悪い知らせとは」


邯鄲かんたん及び襄国じょうこくの二都市が石勒せきろくの手によって陥落しました」


王浚は跳ねるように立ち上がる。


「なんと?石勒は建業を攻めに南下していったのではなかったか」


「それが心変わりしたのか、急に北上し、あっという間に邯鄲と襄国を占領し、今度はぎょうを攻撃しています。劉演りゅうえんが防戦しておりますが、果たしてどれだけもつか。援軍をお出しになりますか」


王浚は口をぱくぱくさせて狼狽する。

鄴は二度に渡って漢の手に落ちたが、今は晋将の劉演が奪い返して駐屯していた。


「よし……いや、うーん。劉演は、あの劉琨りゅうこんの親戚ではなかったか?劉琨の小倅に利するような真似は、しかし、鄴を取られるとなると」


「鄴はかの魏武ぎぶ曹操そうそうが都とした趙国の大都市。石勒がここを手中に納めたならば、漢にも異心をいだくやもしれません。その場合、晋と、劉聡の漢、そして石勒の趙で三国鼎立の格好になりますな」


王浚の顔に喜色が戻った。


「そして、晋はいずれはわしの国になる。ううむ、やはり今のうちに叩いておくべきか。よし、鮮卑段部せんぴだんぶに襲わせよう。こういう時のために高い金を払って繋ぎ止めておいたのだ。段務勿塵だんむもつじんを呼べ……あ、あいつは身罷みまかったのだったか」


「ご安心ください。息子の段疾陸眷だんしつりくけんが後を継いでおります。すぐに手筈を」


割拠の意思を露わにした石勒は、遂に幽州の雄、王浚と再び衝突することになるのであった。

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