第35話 石虎
「おっかぁ!無事だったのか」
「ベイ、ああ、立派になって……」
すっかり白髪が増えてやつれた母の傍には、十三歳くらいの汚らしい身なりの少年が立っている。
「アニキィッ!俺っオレは……」
飛びついてくる少年を石勒は抱き締める。
「フー!お前も、よく生きていてくれた」
石勒が
行方はつかめず、石勒も二人の死を覚悟しつつある中での奇跡的な再会だった。
フーは幼い頃に両親を亡くし、石勒の家に引き取られた。
石勒は従弟という間柄以上にフーのことを可愛がったし、フーも従兄というよりも実の兄に対するように懐いていた。
「家族というものは良いものですなぁ。さあ、贈り物が気に入っていただけたなら、我が主人の提案を読んでいただきたい」
張儒は慇懃に書簡を差し出した。
◇
「お話はよくわかった」
泰然とする石勒に張儒はにやりと笑う。
「では、同盟を前向きに考えてくださりますか」
「母と甥を届けてくださった劉琨殿のご厚意には感謝する。晋の領土で得た財貨のうち然るべき数量を返還して、御礼とする。ただし、同盟の話には乗れない」
張儒は眉間に皺をよせて反論する。
「その昔、赤眉や黄巾が大いに暴れまわりながらも、またたく間に滅亡した理由は、大義を欠いていたからです。賊につけば賊軍となり、しかるべき主君につけば義軍となる。いま劉聡にそむけば禍はなくなり、晋に降れば幸福がやってくるでしょう。往古の教訓を採用し、心を改めれば、天下は平定するまでもなく……」
「功績は、打ち立てる方法が各々で異なっているものだ。劉琨殿には、君は節義を本朝で発揮なさってください、私は夷狄なので貴方の力になるのはむずかしい、と伝えてくれ」
石勒は張儒に財宝を押し付けると追い返してしまった。
「これで良かったのか、
帷の後ろから張賓が答える。
「劉琨は侮れぬ陰謀家、手を組んでも上手く利用されてしまうだけです。閣下が漢と袂をわかつとしても、それは晋朝に寝返るという形ではないし、時も今ではありません」
◇
石勒が母と甥のフーを引き取ってから、軍中では怪我する兵士が多く出た。
皆、顔を傷つけられており、樹の上から
しかし、将軍の
「近辺の古老に聴きましたが、この辺りにはそんな悪さをするようなデカいサルはいないということです。となれば、人間が獣を装って、看過できない悪ふざけをしている可能性があります」
そこで、犯人を捕まえようということになった。
夜な夜な悪い猩々が現れるという木立の周りに孔豚と兵士達が伏せる。
夜半にさしかかり、兜を被った囮の兵士が木の下を通ると、ヒュッという鋭い音とともに何かが投擲され、兜に当たった。
孔豚はすかさず樹上に石を投げつける。
甲高い悲鳴とともに、下手人が樹の上から落ちてきた。
兵士達が組み伏せて、顔を改める。
「お前は、閣下の甥子の……」
犯人は石勒の甥のフーであった。
手には小鳥を墜とすために使う
「ちくしょう、放しやがれってんだ、デブ!」
すぐに石勒が呼ばれる。
「フー、なんでこんな事をしたんだ」
フーはキョトンとした表情で首を捻る。
「なんで……うーん、楽しかったから?血が出たり、転げまわるのを見るとなんかこの辺が熱くなってさ、ドキドキするっていうか」
そう言ってフーは下腹部を押さえる。
ヘラヘラと笑うフーの顔が歪む。
石勒の右拳が重い音とともにフーの頬に突き刺さったのだ。
「てめぇ!石なんて頭に当てて!当たりどころが悪かったら、失明したり、死ぬかもしれなかったんだぞ!」
フーは頬を押さえてがたがたと震えている。
石勒は剣を抜いた。
「しばらく見ない間におかしくなっちまったんだな、弟よ。せめて、俺の手で始末してやる」
「そ、そんな、嘘だと言ってよ、アニキ……」
その時、フーの身体に覆いかぶさる者がいた。
「おっかあ、なんのつもりだ」
石勒の母はフーに覆いかぶさったまま、石勒を睨み付ける。
「この子はねぇ、奴隷にされたわたしが晋の男たちに犯されそうになったとき、必死にかばってくれたんだ。この子を殺すなら、わたしも殺しなさい」
「でも、フーは何人もの兵士に怪我をさせたんだ。こんなやつを軍中に置いてはおけない」
「良い牛ほど仔牛の時は多く車を壊してしまうものです。いましばらく我慢して、置いてやりなさい。さあ、フーも、これからはこのベイのために力を尽くすと誓うのです」
フーは地べたに頭を擦り付ける。
「これからは、アニキのために全てをささげて尽くします!どうかお許しを!」
石勒は、遂に剣を鞘に収めてしまった。
「その言葉に偽りはないな、フー」
「も、もちろんさ!アニキ」
「では、お前に新たな名を与える。フーという音は漢字では色々に書くが、虎という文字もある。今日からお前の名は
石勒の覇業において、最も功を成し、また最も害をもたらした将軍が誕生した瞬間であった。
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