石勒〜奴隷から始まる英雄伝説〜
称好軒梅庵
第1話 奴隷のベイ
「また、角笛の音。誰だ、俺を呼ぶのは……」
動乱の三国時代を制したのは魏でも呉でも蜀でもなく、魏を乗っ取った司馬氏の
しかし、その天下は統一から数十年で早くも揺らぎ始めていた。
簒奪を避けるための一族偏重の政策が一族同士の争いという皮肉な結果を生んだのは、創業者である
相次ぐ戦乱に追い打ちをかけるかのように、ここ
やがて日が落ち、幽鬼のような一行は雪原にへたりこんだ。
兵士達はいそいそと野営の準備をはじめた。士官の陣では、火が炊かれ、酒盞が運び込まれた。
「食いっぱぐれて彷徨っている
顔に痣のある士官が、酒をあおる。
「おいおい、俺たちは仮にも皇族の命令で動いているんだ。あがりを幾らかもらうと言っても、商売というのは言い過ぎだぜ」
眉に傷のある別の士官が、切れた眉をひそめて返す。
男達は
司馬騰は王ではないものの、朝廷の専断者がころころ変わる現状を見て野心を燃やし、雄飛に備えて財や兵馬を蓄えようと考えた。
そこで思いついたのが、飢饉で跳散した胡人達を勝手に居留地を離れた罪人として捕まえ、奴隷として売り飛ばすという策であった。司馬騰は
「へへへ、司馬騰様は話のわかるお人だ。そんな事気にしやしねえさ。さて、今日はどれにしようかな」
張隆は盃をおくと、背後に目をやった。
手械を嵌められた若い胡人の女性が3人、床に座り込んでいる。
その煤けた顔には涙の跡があった。
張隆は奴隷の列から目についた若い女を連れてきて、慰み者にしているのだ。
田甄はため息をついた。
「趣味の悪いやつだ。抵抗できない女をものにして、何が楽しい」
「そこがいいんじゃねえ……」
張隆がそう言いかけたとき、悲鳴や激しい物音が聞こえた。
◇
「クソったれめ!お楽しみの邪魔をするやつは誰だ?」
張隆は松明と革の鞭を手に、騒ぎの中心に向かった。
現場につくと、四十がらみの男が身体はうつ伏せ、顔は仰向けで倒れている。つまり、首が百八十度回転していた。
すぐ隣にこの殺しの下手人が立っていた。
松明に照らされた、黒い
手械をはめられている。
太腿に血がついているところを見ると、蟹挟みかなにかでこの殺しをやってのけたらしい。
張隆は松明を部下に持たせると、大男をののしった。
「おい、クソ野郎。商品どうしで殺しあって、勝手に減らしてんじゃねえよ」
若い男は黙っている。
「……そのとんがった鼻、てめえは、
羯というのは、
「羯族?なんだそりゃ?俺はチュルクのベイだ」
若い男はぶっきらぼうに答えた。
張隆は声を荒げる。
「あぁ?奴隷に名前なんかいらねぇ。なんで殺したかを聞いてるんだ、こっちは」
若い男は静かに続ける。
「角笛の音がする方に来たら、こいつが女子供の食料をかすめていた。やめろと言ったがやめなかったので殺した」
張隆はいよいよ苛立ちを隠せない。
「角笛だぁ?わけわからんこと言いやがって。奴隷ごときが勝手なことしてんじゃねぇよ」
張隆は鞭でその若い男の胸を叩いた。
服が破れ傷口から血が吹き出したが、男は微動だにしない。張隆は何度も鞭を振るった。
その間、男はずっと瞬きもせずに張隆を見つめていた。
息切れした張隆が鞭をおろすと、男は白い歯を見せて笑いながら言った。
「その顔、おぼえたぜ」
ベイの顔は確かに笑っていた。しかし、その目は、その瞳は、全く笑っていないのであった。
張隆は一瞬怯んだが、唸り声を上げてベイと名乗るその男に蹴りを放った。
しかし、ベイはびくともせず、張隆が逆にベイの筋肉に弾かれるように、後ろに倒れ込む事となった。周囲から失笑が漏れた。
「殺す、殺してやる」
剣を抜こうとする張隆を押し止める兵長がいた。
「張隆様、これ程の頑健な男なら、高く売れるのではありませんか。それに、これ以上商品が減ったら刺史のカンにさわるかもしれませんよ」
彼らの上司である
剣を納めた張隆はベイにつばを吐きかけると戻っていった。
張隆を押し止めた兵長がベイに駆け寄った。
ベイは朗らかに言った。
「なんで助けてくれたかわかんないけど!あんがとさん!」
兵長は手ぬぐいでベイの血を拭いてやりながら返す。
「俺は
「郭敬のオッサンかぁ!オッサンにこの恩は返すよって伝えてくれな!」
一度奴隷に身を落としたら恩返しなど不可能だ、と郭時は思ったが、しかし、このベイという男は本気であるらしい。
よくわからぬ異民族の若造を助けるように郭陽から懇願されたときは、大叔父もついにヤキがまわったのかと訝しんだ。
だが、ベイの白く光る歯を見ながら、なんとなくわかるような、そんな不思議な気もしてくるのであった。
中国の歴史においてただ一人、奴隷から皇帝に成り上がった男、
これは、その男の生涯を描いた物語である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます