石膏像にキス 〈2024〉

ミコト楚良

 八代萌やしろもえ二家本辰巳にかもとたつみに出会ったのは、美術研究所の入学希望者向けの春期講習会だった。たまたま、モチーフデッサンの席が隣り合った。

(ひぇー)

 八代は、その男子の描いたデッサンに目をいた。この講座、手ぶらで来ても大丈夫な、まったくの初心者の講座だったよね。

 課題のモチーフは、陶器の白い皿。その男子の描いた皿に比べたら、自分の描いた皿は編み目の荒いザルだった。


 とっちらかった八代のモチーフデッサンに、担当講師は苦笑混じりだ。でも、八代が2Bの鉛筆も練り消しの存在すら知らない未経験者だと知って、「度胸がある」と、なぜか性格を褒められた。

 講習会は二日続きで、鉛筆のグラデーションぼかしの練習をして、次の日に受けたモチーフデッサンの実習では、担当講師に、「生まれ変わった」と、にんまりされた。


 驚いたのは、あの男子も本格的なモチーフデッサンは、はじめてだと講師に言っていたことだ。でも、「にかもとくんか。門前の小僧、経を読む、だね」と担当講師が言っていたから、何だろうと思っていた。



 高2になった八代は、美術研究所の私立美大進学コースに籍を置いた。

 とある土曜日の講習が終わり、研究所の自販機でミルクティを買おうとして、八代は足元にICカードが落ちているのに気がついた。誰かがったのだろう、カードは自販機の下に入りかけていた。

 それには、『ニカモトタツミ』と記名されていた。 

 

 美術研究所の事務に届けておこうと思ったけど、なんとなく、そのまま建屋を出ようとして、すると、見たことのある顔が、こっちに足早に来るのが見えた。

 見た目は無表情だが、焦っていないはずはない。


(にかもとくん)

 八代は覚えていた。

 あの春季講習会で講師に呼ばれていた、彼の名前を。


 研究所の入り口の自動ドアの前、自動ドアが二家本を察知するのと、「はい。これ、君のでしょ」と、八代が踏切の遮断機のように右手を伸ばして通せんぼしたのは、たぶん同時だった。

「自販機の前に落ちてたよ」

 萌が差し出したICカードを見て、二家本辰巳は息で、「あ」と言った。

 それ以上、たたずんでいる理由は八代にはないので、そのまま駅前に向かった。


 その次の次の日だったか。

 研究所の入り口で、八代は二家本辰巳に声をかけられた。

「……この間は。これ」

 新品の練り消しを差し出すではないか。

「あ、ども」

 八代が練り消しを受け取ると、さっと二家本辰巳は行ってしまった。

 

(意外と、義理堅い男子だった)



 それから、廊下ですれ違ったりすると、「(お)はよ」ぐらいを会話するようになった。

 二家本は、八代のクラスではない。だとすると、国立美大志望コースに在籍しているようだ。

 カモク(寡黙)くん。八代は密かに二家本のことを、そう呼びはじめた。


 カモクくんは、駅前の書店の3階の美術書コーナーで、よく見かける。

 駅中ショッピングモールのジューススタンドで、よく青汁を飲んでいる。

 昼はコンビニのサンドイッチ。


 そして土曜日、駅前の書店の美術書コーナーに行ってみたら、いた。

 分厚い画集を手にしていた。

「買うの? 研究所にもあるんじゃない?」

 思わず言ってしまった。高校生の小遣いでは、画集はなかなか手が出せない値段だ。

「……新品の本が好きなんだ」

「ふぅん」

「……ダンベル代わりになるし」


 八代はスルーしそうになった。

「……ごめ。今の冗談、だったよね?」

「……かな」

「に、二家本君でも冗談、言うんだ」



 駅のジューススタンドでも、会った。

 やっぱり青汁を飲んでる。

「〈本気の青汁〉って、キャッチコピーが震えるよね」

 八代も真似をして、一度だけ青汁をオーダーした。

 結論。きっと、彼は前世、虫だったにちがいない。


 2年間、石膏せっこう像、またはモチーフを描き続けた季節が過ぎていくのは、思ったよりも早かった。 

 そして、八代萌やしろもえは東京の私立美大に合格した。

 二家本は、国立美大に落ちたらしい。研究所の合格掲示板に彼の名前はなかった。



 八代の美術研究所の最後の日のことだ。研究所のエントランスに、二家本がいた。「八代さん」と呼ばれた。

(あ、私の名前、知ってたんだ)

 八代は二家本に、あえて自己紹介していなかった。研究所と、研究所の周辺で出くわす美大受験生同士という枠の中で、名前が必要なシーンは特になかった。


「……合格、おめでとう」

 たぶん、研究所の掲示板に、合格者の名前が貼り出されていたのを見たのだろう。

「あ、ありがとう」

 そのまま、八代は沈黙してしまった。浪人するだろう二家本に、なんと言ったらいいのか、わからなかった。

 親しい友人ではない。挨拶程度の会話しかしたことがない。上っ面の何かを言って、傷つけてしまうことを恐れた。

 八代には昔、浪人生の兄が、いた。今は、いない。だから。


「と、東京に来たら、教えて」

 なんだか、とんちんかんなことを言ってしまった。

「……あ、うん」

「スマホのアドレス、教えて」

 ぐいぐい、八代が押してるふうになったのは、どうしてだ。互いの携帯スマホのメールアドレスを交換した。

「それじゃ」

「……れじゃ」


 今、思えば八代は、なんて不器用だったんだろう。

 そのきっかけを、それきりにしてしまった。


 『今日、入学式でした』、そんなラインを二家本に送れなかった。 

 『学校の課題、ムズカシイ』とか、『教授の髪形が変』とか、大学生活の色々を送れなかった。


 二家本からも、音沙汰なかった。

 きっと、受験のことで精一杯なんだ。


(きっと、合格したら連絡をくれるはず)


 きっと。八代は心の片隅で思った。そして、季節は過ぎた。

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